珍しく何の予定もない日だった。
 だがいつもの習慣のせいで二度寝をするわけでもなく、朝のトレーニングを終える。
 シャワーで汗を流した後のことだった。

「……着替えが…」

 トレーニングルームの傍に設置されているシャワールームは、マイスターやクルーなら誰でも
 入室可能だ。
 刹那は首を傾げた。着替えはきちんと準備をしておいたはずだ。しかし、今それは見当たらな
 い。
 そういえばシャワー中に誰かがほかのブースに入った気もしなくはないが、それはいつものこ
 とだ。

「…なんなんだ…?」

 下着すらなくなっている。
 これではシャワールームを出ることが出来ない。
 表情はそう変わらないものの、内心で困り果てた刹那はタオルを巻きつけて通信を開いた。
 ―――もちろん音声のみである。

「フェルト、今手は空いているか?」
『…刹那?』

 不思議そうな声に、刹那は意図せずため息を吐く。

「すまないがシャワールームに着替えを持ってきてくれないか」
『え?着替え…?』
「…用意していたはずのものがなくなっているんだ」
『………そう』

 通信機の向こうで、フェルトが笑いをこらえるような返事をする。
 それに気付き、思わず通信機を睨んでしまった。
 どうやら彼女は刹那の着替えがなぜなくなっているのか、心当たりがあるようだ。

「……フェルト?」
『少し待ってて、刹那。今―――』

「刹那、入るぞ」

 ドアの開閉音とともに、ティエリアの声がした。
 確認するかのように名前を呼ぶと、刹那が使っているブースの前で足音は止まる。

『刹那、着替えたらスメラギさんの部屋に来てね』
「え?」
『待ってるから』

 問い返す前に通信は切られてしまった。それを見計らったかのように、ティエリアが呼んでく
 る。

「刹那、これに着替えてくれ」
「は?」
「ここに置いておく。僕は外で待っているから―――逃げるなよ?」

 布ずれの音がした。
 足音が去った後にブースの扉をそっと開けると、真っ白い箱が置かれている。
 そっと手にとって開けてみると、中には―――。

「……これに着替えろと…?」

 ひらりと質の良い布地が揺れた。
 タグははずしてあるようだが、どう見ても新品だ。
 しかもどう見てもかなり値が張るものではないだろうか。
 丁寧にランジェリーの類まで入っている。
 深い海のような青が基調のドレスだった。銀とパールホワイトで刺繍が入っている。胸元は黒
 のレースがあるため空きすぎず、肩とウエストは黒のリボンで調節できるようだ。裾はちょう
 ど燕のように後ろが長い。
 それは、甘すぎないデザインで刹那にはちょうど良いだろうもので。

 ―――着替えは今、これしか存在しない。
 刹那はため息を落とすと、それらを身につけ始めた。





 刹那が着替えている頃、ティエリアは壁にもたれて待ちながら通信機を開いていた。

「―――まずはひとつめのミッション、クリアだ。出てきたら連れて行く」
『こっちの準備はOKよ!待ってるわね』
「ああ」

 通信が切れてすぐ、シャワールームのドアが開いた。





「着替えたが…」
「ああ。…僕の見立ては間違っていなかったようだな」

 少しだけ不満そうな顔をした刹那が、通路に出てきた。
 まだ乾かしていない髪が背中に流れている。身につけているものとミスマッチだ。

「これは…どういうことだ?ティエリア」
「これからわかる。さぁ、行くぞ」

 ティエリアが手を差し出すと、刹那が訝しみながらもその手を取る。
 無重力の通路では、スカートが翻るのだ。
 二人がゆっくりと移動した先は、談話室だった。





「…スメラギ?」
「あら刹那、似合ってるわね」
「セイエイさん綺麗ですぅ!」

 飛びついてきたミレイナを受け止めて、刹那はスメラギに困惑した視線を送る。談話室にはフ
 ェルトやリンダも待機していた。
 テーブルの上にはアクセサリーや化粧道具が並べられている。

「さーあ、刹那!ここに座ってちょうだい」
「え、な…?」
「刹那、早く」
「フェルト?」

 フェルトに腕をひかれるままに、戸惑ったまま椅子に座る。
 あっという間にトレミー2に乗艦している女性陣に囲まれてしまった。
 スメラギがずらりと並べられた道具の中から色々と取りだしては刹那の顔に塗っていく。

「刹那、動いちゃだめよ!」
「先に髪乾かしちゃうわね」
「あ、ママ!ミレイナもやりたいですぅ」

 皆、楽しそうに刹那を取り囲む。
 目を白黒させる刹那をなだめるのはフェルトで、だが着々とアクセサリーを身につけさせてい
 た。

「僕だ。小物を持ってきてくれ」

 ティエリアは談話室の入り口付近で誰かに通信で指示を出している。

「おー、やってんなぁ」

 背後からライルの声がした。
 振り向こうとするが、スメラギに睨まれる。
 諦めて嘆息すると、くつくつと笑う声がすぐ傍から聞こえた。

「よぉ、美人じゃねーか」
「…ライル」
「ふーん…普段は制服だからそういうの着ると新鮮だな」
「刹那はやっぱり青が似合うね」

 フェルトが目を細めて笑う。
 鏡をまったく見ていないため、刹那には自分がどのような恰好になっているのか分からない。
 困ったように眉を顰めると、すかさずスメラギから注意される。
 それからだいぶ時間が経過したように思うが、実際には数分だったようだ。
 満足そうな女性陣と、軽く目を瞠るライルと、いつの間にか来ていたアレルヤ。

「わぁ…刹那、すごく綺麗だよ」
「化粧するとだいぶ女らしくなるなぁ」
「…刹那はお化粧しなくても十分だけど、やっぱりすると変わるね」

 にこにことアレルヤが言う。ライルと違って含みのない讃辞にこそばゆくなる。
 ティエリアが満足そうに刹那を見つめた。

「さて、じゃぁ仕上げね!アレルヤ、ライル、持ってきたものを」
「ああ、はい」
「…ティエリアに3回もダメだしされたんだぜ…」

 肩を落とすライルに、ティエリアはふん、と鼻を鳴らす。

「当たり前だ。僕が選んだドレスに合うものでなければ、認めない」

 刹那が首を傾げると、ライルは気を取り直したように刹那の前に跪いた。

「これをどうぞ、お嬢さん?」

 差し出されたのは、白い靴だった。
 ただの白ではなく、銀と青の混じったような白だ。
 美しいその靴は大きさがばらばらにカットされたビーズの飾りがついている。紫や緑、オレン
 ジが灯りに反射して光った。
 確かにこれはドレスによく似合うだろう。

ティエリアとライルが手を貸し、刹那にその靴をはかせる。

「僕はこれを」

 アレルヤの手には、品の良い銀細工の髪飾りがあった。
 こちらは深紅のバラと、パールが基調の飾りがついている。しゃらりと音の鳴るそれを、アレ
 ルヤがそっと刹那の髪につけた。
 リンダが結いあげた黒髪に、それはよく映える。

「刹那、綺麗」

 フェルトがが頬を紅潮させて呟いた。
 誰が見ても、綺麗だと口にするだろう。
 きっと歩けば誰もが振り返る。
 刹那はそう讃辞されても、困惑を隠せなかった。
 ―――なぜ自分がこんな恰好をしているのか、わからない。
 何かミッションが入ったのだろうか?それにしては何かおかしい。

「…そろそろ種明かしをしてくれないか?」

 刹那の問いに、クルーたちは顔を見合わせた。
 ティエリアが呆れたように苦笑して、一歩進みでる。
 首をかしげている刹那の眸を見ながら、口を開いた。

「今日はなんの日か…本当にわからないのか?」
「…今日は何かあったか?」

 ますます首をかしげると、ティエリアも他のクルーたちも苦笑する。
 刹那らしい、と誰かが呟いた。
 フェルトがそっと刹那に一輪の花を差し出す。

「ディモルフォセカっていう花だよ。…4月7日の誕生花なの」
「4月…あ…今日…」
「ようやくわかったか」

 綺麗な笑みを見せたティエリアは、刹那の細い腕を軽く引く。まるでダンスをするかのように
 二人は向き合った。

「―――誕生日、おめでとう刹那」
「刹那、おめでとう」
「おめでとう、刹那」
「…おめでと」

 ティエリアが告げる。
 フェルトが、アレルヤが、ライルが。クルーたちが皆嬉しそうに口ぐちに祝いの言葉を告げる。
 スメラギは刹那の横に立つと、そっと化粧を施した頬に触れた。

「おめでとう、刹那」
「スメラギ…」
「今日をこうして迎えられたこと、本当に嬉しく思うわ。あなたがいなきゃ、私達は進めなか
 ったもの」
「そんなことは」
「あるわ。だからね、今日はみんなであなたのお祝いがしたかったの」

 優しい茶色の眸が、細められる。
 ―――母のようだ。年はそこまで離れていない。けれど慈愛を含んだ視線に、漠然とそう思っ
 た。

「さぁ、私達からはここまで。ミッション、続行するわよ!」

 ぱちん、と魅力的なウインクをして、スメラギは刹那の肩を押した。
 ライルとアレルヤが心得たとばかりに手を差し出す。

「お手をどうぞ、お嬢さん?」
「刹那、お祝いはまだ続くよ」
「っ、なに…!?」

 無重力の通路を手を引かれながら進む。
 先導するかのように先を行っていたティエリアは、振り返って悪戯っぽく口角を上げた。

「僕たちの考えた―――キミへのプレゼントミッションだ」








 連れて行かれた先はガンダムが収納されている格納庫だ。

「おー、待ちくたびれたぞ」

 イアンが整備していたらしい小型船から顔を出す。
 それに寄りかかっていたラッセも軽く手を上げた。
 二人は刹那を見て軽く目を瞠る。

「しっかし…化けたなぁ、刹那」
「…似合ってるぞ」
「さすがはティエリア、ってとこかー?」
「元がいいからな。ドレスを選ぶのは簡単だった」

 満足そうに笑う紅玉は刹那から離れない。
 確かに刹那のために誂えたかのようなドレスや、靴。アクセサリーの類も、決して安ものでは
 ないだろう。
 一体いつの間に準備したんだと本当に疑問だ。
 きっと聞いたところで、すぐに答えてはくれないだろう。

「それよりイアン、準備はいいか」
「おう、いつでもいいぞ」

 小型船をこつん、と叩いてイアンが頷く。
 ラッセが視線を受けてそれに乗り込んだ。

「刹那、すぐ乗り込んでくれ」
「え?」
「君には今から地球に降下してもらう」
「…は?」

 思わず目を瞠った刹那を、アレルヤがひょいと抱える。
 そのまま小型船の座席に座らせられ、あれよという間に、トレミー2を出発してしまった。








 地球の時刻は、現在16時。
 トレミー2からの道中、何度もラッセにどこに行くのかと尋ねても、明確な答えをくれなかっ
 た。
 ただ、着けばわかるとだけ。
 これほど着飾られて、向うのだから何かのパーティだろうか?しかし最近のミッションでそん
 なものが入っているという情報はない。それに今日は刹那の誕生日だ。自分では忘れていたけ
 れど―――。
 リニアステーションまで到着すると、ラッセは別の迎えが来るから、と刹那を残していってし
 まった。

「…まったく」

 なんなんだ、と悪態をつくも緩む頬を押さえることは出来ない。
 純粋に、嬉しかった。皆が刹那の生まれた日を祝おうとこうして準備をしてくれたのが。
 昔は特に何の感慨もなく過ごしてきたのに、CBに入ってから生まれた日がどういうものかを教
 えられた。
 歳を重ねたことを喜ぶものだと、そう言ったのは誰だっただろう。
 刹那はそっと微笑むと近くの壁にもたれかかった。

 ここはユニオンのリニアステーションだ。様々な人が行き交い、誰もが楽しそうに笑っている。
 ―――この風景が壊れることのないように。そのために戦うのなら、いいと思える。
 いつかすべてが終わって、平和の中で生きることが出来るのなら、自分もあんな風に笑えるだ
 ろうか。

「刹那」

 ふいにかけられた声に、反応が遅れてしまう。
 壁から離れて視線を彷徨わせると、思った以上に近くにいた。

「…あ…」
「悪い、待たせ過ぎたな」

 困ったように笑った男は、刹那の前にまっすぐ立つと、白い手袋に包まれた手を取った。
 そっと唇が寄せられる。
 あまりにも画になるその仕草に、近くを通っていた人々が足を止めた。
 彼はチャコールグレイのドレススーツに身を包み、深い緑のスカーフタイをしている。
 上質なそれを着こなした彼は、宝石のような碧の眸を細めた。

「―――刹那、綺麗だ」

 甘く名を呼ばれ、頬に熱が上がった気がする。

「ニール…」
「ああ、迎えに来た」

 いまだ取った手は放さないまま。
 彼は芝居がかったように―――優雅に一礼した。

「さぁ、参りましょうか。お姫様」

 周囲から漏れるため息などものともせず、ニールは刹那の手をひいてリニアステーションを後
 にした。





 煌びやかな、けれど品のいい一室。
 ホテルマンが案内したのはそんな部屋だった。

「ここは…」

 戸惑ったように足を止めた刹那に、ニールは苦笑する。
 無理もない。ミッションでもこんな上質な部屋に来たことはないのだから。
 けれどここに入ってもらわなければ意味がない。
 ニールは眸を揺らす刹那の手を強く引いた。

「っ、ニー…!」
「おっと、とにかくおいで」

 ヒールの高い靴を履いているのだ。足元は心もとない。
 少しふらついた刹那を抱きとめて、促す。
 ホテルマンに視線を送ると、彼らは心得たとでも言うように一礼して去っていった。

「ニール…訳がわからない」
「ん?ティエリア達から何も聞いてないのか?」
「…プレゼントミッションだと…」
「ん」
「だが、こんなところに来るなんて」

 腕の中の刹那が戸惑いを隠せないまま言い募る。
 少し興奮しているのか、ガーネットの眸が潤んでいた。
 それを綺麗だと思いながら、額に軽く口づける。
 思わず、と言ったように固まった刹那を見下ろして、ニールは口を開いた。

「刹那、今日は何の日だ?」
「…俺の、誕生日…」
「そうだ。だからさ、みんなで何をあげようか考えたんだ」

 詳細を考えたのはスメラギとティエリアだ。ニールも色々と考えていたが、今年は彼らの案に
 乗ることにした。
 皆が刹那のために何かをしたかった。だからこういうプランになったのだと種明しをする。

「俺はちょうど地上に降りてたから、そのまま待機。驚いたぜ?急にこんなスーツ送られてき
 て」
「…え?」
「ティエリアがさ、お前を着飾るから楽しみに待ってろっていうんだもん」

 俺がドレスを選びたかったのに。
 子供のように唇を尖らせるニールに、刹那の身体からようやく力が抜ける。
 抱きとめた身体を離さぬまま話を続けた。

「マイスターはお前のドレスとか靴とかを調達する係。んで女性陣はメイクとか。イアンとラ
 ッセは送迎の準備。みんな当日までお前にばれないように、って結構楽しみながら準備進めた
 んだよ」
「…全然気がつかなかった」
「ははっ、なら大成功だな」

 悪戯っぽく笑う彼は子供のようだ。
 今年30を迎えたくせに、こういう時は本当に楽しそうにする。
 刹那もつられるように微笑むと、ニールの腕の中から抜け出した。

「これから何が起こるんだ?」
「とりあえずは、食事と行きますか」

 ニールがそういうと、タイミングをはかっていたかのようにドアが開く。

「準備が整いました」
「ああ、ほら刹那」
 
 差し出された手に自分の手を重ねると、彼は手慣れたようにエスコートをする。
 前を歩くボーイに大きなガラス窓のある部屋に案内された。真っ白いテーブルクロスがかけら
 れた上に、豪華な料理の数々が乗っている。
 感嘆のため息を吐いた刹那を座らせると、ニールはボーイに何か囁く。

「ニール?」
「今日は誕生日だろ?」
「?」

 すぐにわかるよ、と言われた通りそれはすぐに知れた。

「ワイン…?」
「そう。んな顔しないで飲んでみろよ」

 おそらく年代物なのだろう。そうそう飲めるものではない。
 酒はあまり嗜まないため、刹那がほんの少し顔を顰めると、そっとグラスを掲げる。
 深い赤のそれは刹那の眸の色とよく似ていた。
 ベリルの眸に促されるままに、ゆっくりと口に含む。

「意外とイケるだろ?ミス・スメラギがさ、お前のために選んだんだよ」
「スメラギが?」
「成人のお祝いは出来なかったから、だとさ。酒に関しては詳しいだろうし、刹那でも飲める
 ようなのにしたんだろ」
「…帰ったら、礼を言う」
「ああ。きっとさ、みんなお前が笑ってくれるだけで満足だと思うよ」

 ニールが微笑んで、グラスをテーブルに置いた。





 料理はどれも美味で、見た目でも味でも刹那を楽しませた。
 食後にはイチゴをふんだんに使ったケーキが出され、それも綺麗に食べた後。
 今夜はこのままこの部屋で過ごすのだと聞かされ、今は二人でベッドの上だ。
 ニールは自分以外が選んだ服はもう十分だと、手早く刹那から衣服をはぎ取った。
 彼曰く、選べなかった分脱がせるのはやりたいと真剣に言うので、呆れて好きにさせている。

 ―――久方ぶりだった。ミッションで会えなかったのだ。
 以前はもっと長く―――それこそ彼の生死が不明だった時期は年単位で会えなかったのに。今
 はほんの少し会えないだけでひどくさみしいと思う。
 傍に居たい。触れたい。
 誰かに特別な感情を抱くことなどないと思っていたのに。
 もしも。もしも今度彼と離れることになったら、自分は生きていけるのだろうか。
 答えはまだ、でない。だけどひとつだけわかっているのは、そうなったら今度こそ、自分の感
 情は死を迎えるのだろうということ。

「刹那、何考えてる?」
「…何も」

 熱のひいた身体を優しく抱き寄せられて目を伏せると、柔らかく触れてくる唇。
 頬に、額に、瞼に。羽根が触れるかのように降りてくる。

「なぁ、刹那」
「なんだ?」
「実はさ、まだ俺からのプレゼント用意してないんだ。お前は特に物欲もないし、こうしてみん
 なに先越されちまったし」

 情けなく眉尻を下げた顔で、ニールが囁く。
 刹那は少しだけ考えるそぶりを見せたあと、ゆるく首を横に振った。

「プレゼントはいらない」
「ん…?なんでだ?」
「モノはいらない。ただ…」
「何?」

 刹那は白いシーツの上に投げ出していた手を、影の出来た白い頬に伸ばす。
 そっと頬や、ブラウンの髪を撫でながら彼を見つめた。
 ニールの真摯なベリルはただただ刹那だけに注がれている。それがひどく幸せで、ゆっくりと
 微笑んだ。
 欲しいものなど、なかった。ただ失わないだけで精一杯で、何かを得ることまで考えられなか
 った。
 けれど今、ほんの少し余裕が出来たからか―――誰もが甘やかしてくれるからか、欲深くなっ
 てしまったようだ。

「刹那…?」

 促すような、強請るような。そんな声でニールが呼ぶ。
 首に腕をまわして目を伏せると、彼は心得たかのようにキスをくれた。
 触れるだけのキスは欲を含まない。愛情を示すための、優しいもの。

「ニール」
「うん?」
「……しあわせになりたい」

 小さな呟きは、静寂に包まれていた部屋に小さく響いた。
 間近にあるベリルが瞠られる。

「刹那…?」
「今すぐじゃなくていい。でも、いつかアンタと…みんなと、しあわせになりたい」

 幸せは壊れやすくて繊細で。
 だから手にするのが怖い。
 愛することも、愛されることも知らなかった自分には、過ぎたものなのだろう。
 けれど望んでもいいのなら。血に汚れてしまった自分をいとおしんでくれる人たちがいるのな
 ら。
 欲しいと願う。

「刹那…」

 静かなガーネットに、その言葉がなんの飾りもなく放たれたことを知ったのだろう。
 ―――しあわせになりたい。
 それはきっと誰もが思うことなのに、誰も刹那に教えられなかったもの。
 それを今、この日に刹那が望んでいる。

「ああ…そうだな、刹那」

 ニールはひどく嬉しそうに笑うと、細い肩を抱く。

「俺もお前としあわせになりたいよ…」

 この醜くも美しい世界で逢えたのだから。
 逢って、恋をしたのだから。
 ニールの答えに、刹那は満足そうに目を細めた。

「いつか…きっとだ。アンタの望む幸せを見たい」

 不意にこぼれた涙が、柔らかなオレンジの灯りに煌めいた。
 見つめ合い、唇を重ねる。つないだ手に力が入った。

「誕生日、おめでとう…刹那」
「ありがとう、ニール」

 囁きは口づけにとけて、吐息は静寂の中に落ちた。



 今日の良き日に、あなたが隣に居ること。
 愛を知って、笑いあえる距離に居ること。
 いつか必ず来る「しあわせ」に想いを馳せて。







          Spin tears

          ―――あなたと紡いでいくしあわせの日を。














 
 
 
 
 
 
 
 


       遅くなりましたが、刹那誕生日おめでとう。ブログでちょろちょろ書いていましたが、
       やっと完成です。ニールが出るまでが長かった…。
       誕生花のディモルフォセカを背景にしてみました。フェルトが育ててたらいいなぁ。
       みーんなでお祝い!と迷ってこういった形になりました。本当におめでとう、刹那!

          2010.04.25 誰よりも愛しく思う一日。