その声を聞いた瞬間、世界が再び色づくのを感じた。








     7days

        ――1days  Because even a dream was good, I wanted to meet.









 ふと意識が戻った。
 身体がひどくだるい。いや、重たいと言った方が正しいだろう。
 それを振り切るように、身体を起こし、頭を振る。
 頬にかかる髪を肩手で払い、緩慢に眸を開けた。

「……は…」

 目を開いたはずだ。
 だが今刹那の目に映るものは、トレミーのあの無機質な壁でも、天井でもない。
 ダブルオーのコックピットでもない。
 ―――そこは、明らかにトレミーや宇宙ではなく、どこかの路地裏だった。

「…ここ、は…?」

 座り込んでいるらしい自身の背に当たるのは、レンガ造りの建物。
 夢でも見ているのかと狼狽するが、それにしてはリアルすぎる。
 おそるおそる立ち上がり、路地を出たそこは―――見覚えがある、そんな既視感。

「なぜ、こんなところに…」

 知っている。ここに自分は来たことがある。
 ここは、この通りは、彼の国。「彼」の家族が眠る墓のある場所。
 そしてきっと彼も眠っているだろう国。彼が愛した、故郷―――アイルランドの郊外だ。
 ライルを偵察しにきたあの町に、刹那はいた。

「どういうことだ…?」

 小さく呟いても、返事が帰ってくるわけがない。
 額に手を当て考え込むが、全く分からない。
 つい先ほどまで、自分はダブルオーのコックピットに、トレミーの格納庫にいたはずだ。だと
 いうのに、なぜ突然アイルランドにいるのだろう。
 咄嗟に脳量子波でティエリアに呼びかけるが、ラインがまるで元々なかったかのようにつなが
 らない。
 よくよく自分の姿を確かめると、ソレスタルビーイングの制服でも、整備していた時の服でも
 なく、地上に降りるときに着用しているものになっていた。
 ―――何がどうなっているのか。
 戸惑いを隠せないまま、途方に暮れていると、周囲はどんどん暗くなっていく。

「陽が落ちる時間か…?」

 時間が知りたくて服のポケットを探るが、端末が見つからない。
 それどころか最低限の賃金すら持っているのか微妙なところだ。
 幸い、自身の服にはいつでも緊急のときのためにと、ソレスタルビーイングから渡されている
 カードではなく、現金が入っている。本当に少しだが、ないよりはましだ。
 刹那は手早く髪をまとめると、ショールを巻く。髪さえ隠せば、男にしか見えない。
 宿をとるほどの金はない。となると、女だとわかるのはまずいだろう。
 こんな身体でも一応は女だ。アイルランドは治安が悪いわけではないが、日が落ちれば危険は
 増す。幸いにもここら辺はパブが多く、朝まで居座っても特に支障はない。
 明日からのことはこれから考えよう。

 ―――なぜ自分がここにいるのかも。








 記憶を頼りに、以前行ったことのあるパブに足を運ぶ。なんとなく以前より小奇麗な気がする
 のは気のせいか。
 ライルと出逢ったそこは、女とわかりさえしなければそれなりに居心地がいい。
「彼」もよくここに立ち寄っていたと聞く。
 どこで何をしていても、思い出すのはたった一人だ。
 今トレミーがどうなっているかだとか、自分がなぜここにいるのかだとか。考えることはたく
 さんあるはずなのに。
 刹那はアルコールのほとんど入っていない飲み物を頼むと、壁際に陣取った。
 耳に心地いい音楽と、人の声のざわめき。ここの空気は陽気で楽しさにあふれている。
 本当は寂しがり屋だった彼が、この場所を好んだのもわかる気がした。

「…これからどうするか…」

 壁に体重を預け、目を瞑る。思わず出てしまうため息は止めようもなく零れ落ちた。
 あまり持ち合わせがない以上、しっかりした食事をとることは出来ない。周囲の人々はほとん
 どが白人で刹那のような小麦色の肌色は多少目立つ。朝まで長居出来そうではあるが、気を抜
 くわけにはいかないだろう。
 それは―――向けられる視線が物語っていた。
 一見中性的な容姿ではあるが、さすがにもう二十歳を超えている。わかる人間にはわかってし
 まうのだろう。
 移動しようかと迷い、テーブルにグラスを置いた時だった。

「君、一人?」

 差した陰に視線だけをそっと滑らせる。
 目の前には二人の男。どちらも顔を赤らめて、ずいぶん酔っていることが窺えた。
 無視を決め込み、顔を背ける。酔っ払いの相手をするなど、スメラギやライルだけで十分だ。
 しかし目の前の男たちが刹那の態度が面白くなかったらしい。

「なぁ、聞いてる?」
「酒場なんだからさー、そんなしかめっ面してないで話しようぜ」

 余計なお世話だ。しかめっ面なのはそういう性格なんだから。
 刹那は30代前半くらいの男たちをじろりと睨みつける。
 男たちは少し怯んだように、伸ばしかけていた手を引いた。
 苛烈なガーネットの眸はひどく目を引くのだと―――誰かが言っていた気がする。

「煩い。俺に関わるな」
「っ…へぇ、美人じゃないか」
「アンタそんななりしてるけど…女だよな?」
「…そんなことお前達に関係ないだろう」

 一人が軽く口笛を吹く。
 美人だなんて今まで言われたこともない。ライルやティエリアには言われた気がするが、そん
 なの社交辞令だろうと本気にするわけがなかった。
 周囲に見た目が整った人間が多かったのも災いしたのだろう。女性らしい美しさに富んだスメ
 ラギやフェルト、アニュー。男性陣もライルやティエリア、アレルヤもそれなりにかっこいい
 と称されるはずだ。
 だから刹那には、自分の外見に自覚がない。スメラギ達が時折不安に思うほどに。

「なんでこんな時間に一人なんだ?」
「ホテルまで送ってくよ?」

 恰好の獲物だと思われているのか―――。
 刹那は頭を抱えたくなるのを堪える。
 確かに女ではあるが、わざわざ自分のような貧相な人間を構わなくてもいいだろうに。
 酔っ払いと言うのは視力も低下するのだろうか。

「ちょっと、聞いてんのか?」

 考え込んでいるすきに、男の手が刹那の腕を掴もうと迫ってくる。
 はっとして身をよじると、怯えていると思ったのか彼らは下卑た笑みを浮かべた。

「俺に触るな」
「そんなこと言うなよ」
「そうそう、一緒に酒でも飲んでさ」

 にやにやと笑う男たちには、何を言っても無駄なようだ。
 あまりエスカレートしないうちに何とか突き放せないだろうか。
 こういった状況に陥ることはほとんどなかった、普段は絡まれても冷静に切り抜けることが出
 来た。けれど今は、心にそんな余裕がない。訳も分からずいきなり目が覚めたらアイルランド
 で、脳量子波どころか端末さえ見当たらない状況なのだ。持ち合わせもないため、金銭的な交
 渉も出来ない。
 いきなりこんな目にあって冷静でいられるほど出来た人間じゃない―――。

「ほら、酒のみなよ」
「っ!」

 睨みつけても意味をなさない。
 腕を掴まれ、壁から離されてしまう。

「放せ!」
「いいじゃん、ちょっとくらい」
「やめろ!」

 周囲の人間もずいぶん酔っているのか、囃したてはするが誰も助けようとはしない。
 当たり前だ。助けて自分が絡まれれば厄介なのだから。
 ぐい、と左右から腕をとられ抵抗を封じられる。酒気を帯びた呼吸が近く、にやけた男たちの
 目に浮かんだ欲の色に背中を冷たい汗が流れる感覚がした。
 ここで事を荒立てるのは良くないとわかっているが、気持ちが悪い。
 刹那は拳に力を入れ、男たちを振り払おうとした。


「なぁ、その子こっちに渡してくれない?」


 その声が、耳に届いたのは刹那が体術をしかける寸前だった。





「なんだ?あんた」

 背後からかかった声に、男たちの動きが止まる。
 刹那も身体が固まったかのように動けなくなった。

「んー?だってさ、その子嫌がってるみたいだし…。無理やりはよくねーよ、おっさん」

 いっそ柔らかい声が毒を吐く。
 きっと微笑んでいるのだろう背後の人物に、刹那の手を掴んでいる男たちがいきり立つ。その
 隙に刹那は腕の自由を取り戻した。

「てめぇ…」
「何言ってやがる。先に目ェつけたんだからお前は引っ込んでろよ」
「困ってる奴見てほっとけねぇもん、俺」

 パブのにぎやかな喧噪の中、その人物の声は不思議とはっきり聞こえた。
 おそるおそる、緩慢な動きで首を振り向かせる。
 こつりとブーツの音を立てながら、若い男が刹那に近づいてきた。

「こんなところで女引っ掛けないでさ、もう家に帰ったら?」

 にこりと微笑む青年を見て、刹那は息を飲んだ。
 思わず目を疑う。今自分は本当に起きているのだろうか。気を失って、都合のいい夢を見てい
 るのではないだろうか。
 青年の翡翠のような眸がこちらを見て瞬いた。驚いたような顔をしたのは一瞬。彼はすぐに表
 情を戻す。

「なぁ、あんただってこんなおっさん達の相手より、俺の方がマシじゃねぇ?」
「っ…え」

 そっと手首をとられ、男達から庇うように引き寄せられた。決して無理やりではない、ちょう
 どいい加減の力で。
 ガーネットを瞬かせた刹那の耳元で男達にわからないように囁きを落とす。

『逃がすだけだから―――信用して』

 ふと笑った翡翠に小さく頷きを返して。刹那は青年に身を預ける。
 彼から香る匂いにタバコは混じっていない。それ以前に、いくら似ていたとしても自分が間違
 えるはずがない。
 混乱しながらも、刹那の手はしっかりと青年の服を握っていた。








 手をひかれるままに、夜道を歩く。
 時折聞こえる喧噪はところどころにあるパブだったり、食事処だったり様々だ。
 けれどそんなことより、前を歩く青年で思考も感情もいっぱいだった。
 そのうち町並みから少し外れた古い建物にたどりつく。アパートの造りになっているそこに迷
 わず彼は足を進めた。

「ここまで来れば大丈夫かな」
「え…」

 やっと歩みを止めた彼はくるりと振り向いてそう言った。
 刹那は放された手にほんの少し寂しさを覚えながらも、目の前の青年を見つめる。
 ―――間違いない。「彼」は「彼」だ。
 刹那の記憶の中と寸分の違いもなく、あの頃のまま。

 亡くしたはずの―――24歳のニール・ディランディが目の前にいた。


「あの、助かった…」
「ん?ああ、気にすんな。普段はさ…別にこんな風に助けたりしないんだけど」
「そう、なのか…?」
「そうなの。でもあのままだと、すげー騒ぎになりそうだったから」

 じ、っとこちらを見定めるかのように翡翠が射抜く。検分されているのはあの時男達に手を出
 そうとしたからか。
 確かに、彼がいくら面倒見がいいからと言って―――そうそう助けはしないかもしれない。刹
 那の戦闘能力を持ってすれば、何とか切り抜けられるはずだった。あの場合は多分、刹那を助
 けたというよりはあの男たちを助けたと取っていい。

「なんかアンタがあんまりにも似てたから、つい」
「……え?」

 きまりが悪そうに頭をかくニールに、首をかしげる。
 ニールは苦笑しながら刹那を見つめた。

「俺の知り合いにアンタみたいなアジア系…ってか中東出身の子がいるんだ。その子が大きくな
 ったらアンタみたいになりそうで」

 ってもそいつまだほんと子供なんだけどな。
 続けられた言葉に、違和感を感じる。「彼」が今目の前にいると言うことは―――ここは過去
 の世界なのだろうか?

「その子は…いくつなんだ?」
「え、ああまだ16歳だよ」
「16―――?」

 ニールの知る刹那は確かに16歳だ。
 まだ女性らしい身体もなければ、髪も短かった。
 ニール・ディランディが生きていて、16歳の刹那を知っている。となれば必然的にここは2307
 年―――?


「で、これからどうする?ホテル取ってるのか?」
「あ、いや…」
「まぁあんな時間にパブで時間つぶしてるみたいだったし、泊まるとこないんじゃねぇかと思っ
 てたんだけどな」
「…いきなりここに連れてこられたんだ。だから何も持っていない」
「ええ?」

 ニールが思い切り目を瞠る。刹那は居た堪れなくなって視線を彷徨わせた。
 自分でもなぜこんなところに居るのかわからないのだ。帰る術も、ない。
 意識を失う前、幽かに聞こえた声はいったい誰のものだったのだろう?
 ぐるぐると思考を巡らせていたから気がつかなかった。ニールが刹那をじっと見つめていたこ
 とに。

「じゃぁさ、行くとこないのか?」

 思考の海に嵌っていたいた刹那を引き上げたのは、落ち着いた声だった。
 目の前で考え込んでしまった内容には問いかけないことにしたらしい。
 顔を上げた刹那に、彼は肩をすくめた。

「すげー困ってるみたいだからさ、深くは聞かないけど…。とりあえず今晩行くとこないならつ
 いてきな」
「え…?」
「あんまりにも似てるから―――ほっとけねぇ」

 くしゃりと革手袋をした大きな手が刹那の頭を撫でる。
 その拍子に巻いていたショールがはらりと解けた。宇宙空間だとふわふわと流れる髪は、地球
 の重力に従って柔らかく細い肩に落ちる。
 ふわりと流れた黒髪に、翡翠が柔らかく細められた。

「ここではそれ、取ってていいぜ。―――おろしてる方が、綺麗だ」
「!」

 誰に褒められても何も思わなかったのに。
 ニールのたった一言で、胸が煩いくらいに騒いだ。
 踵を返して歩き出した彼を追って行くと、アパートの一部屋につく。
 どうやらここは彼が使用している隠れ家のひとつらしい。いつもこの頃はニールが刹那のマン
 ションを訪ねてくるばかりで、彼がどこにいるかなんて全く知らなかった。今思えば、惜しい
 ことをしたと思う。彼が休暇の度に故郷に向かっていることは知っていても、それ以上を知ろ
 うとしなかった自分。もっと、近づいてみればよかった。
 けれど不思議だ。過去の時代に飛ばされたらしいというこの状況で、「彼」がいると言うだけ
 でこんなにも冷静になれる。

「ここは…?」
「今俺が寝泊まりしてるとこ。このアパートは知り合いが管理してるんだ。だからここに来た時
 たまに使わせてもらってる」
「そうか」
「空き部屋ばっかりだからさ、好きに使っていいぞ」
「え?」
「一応この部屋は俺が昨日掃除したばっかりだから使えるぜ。シャワーも出るし、電気も通って
 る」

 外観からは予想も出来ないほど小奇麗にしてある一室に案内される。
 刹那が視線で問うようにすると、彼は苦笑しながら説明してくれた。
 ここへ通したということは、刹那にこの部屋を貸してくれるということだろう。ソレスタルビ
 ーイングのガンダムマイスターがさっき会ったばかりの女にこうも甘くていいのか。
 視線から訝しみに気付いているはずなのに、ニールは笑うだけだ。
 所詮年若い女に何も出来はしないと思っているのだろうか?それとも、彼は「刹那」に気付い
 ているのだろうか。
 戸惑い半分でニールに向き合うと、彼は首を傾げた。

「…アンタは今晩どうするんだ…?」

 この部屋にはかすかだが使用感がある。けれど今まで通ってきたどの部屋にも使われた痕跡は
 見当たらない。
 刹那にここを明け渡して、彼はいったいどうするのだろう?

「…はは、アンタも視線で会話するんだな」
「は?」

 くつくつと笑うニールはソファーを指差して、奥の部屋に消える。
 すぐにひょこりと顔を出した時には手に厚手の毛布を持っていた。
 クッションをソファーの端に置くと、そこに腰を下ろす。

「奥はベッドがある。アンタは今夜そこで寝てくれ。同じ部屋で悪いが…俺はこのソファーで充
 分だ」
「え…」
「女の子を連れこんどいてなんだけど、アンタに何かする気はないから。そんな不安そうな顔し
 なくてもいいぜ?それにアンタ―――素人じゃないだろ」

 急に鋭くなった眼光に、自然と身体が構える。
 翡翠とガーネットがしばし見つめあった。

「裏の人間…だよな?ここぞって時に隙がないし、さっきパブで俺が声かけなきゃ怪我してたの
 あいつらだろ」

 さすが、だ。観察力は彼が一番鋭かったと記憶している。
 座って話す彼の懐には愛用の銃が収まっているのだろう。時折手が微かに反応するのはそのせ
 いだ。刹那だからわかることで、きっと普通の人にはわからない。
 刹那は細く息を吐くと、身体の力を抜いた。彼と一戦を交える気など元からない。気を張るだ
 け無駄だ。
 彼にもそれが伝わったらしい。鋭い翡翠から力が抜けた。

「俺はアンタに何かする気はない。純粋に人助け、ってやつだ」
「…そうか。助かる…」
「ん、素直でよろしい」

 にこ、と笑った彼は立ち上がると手を差し出した。
 首をかしげながらもその手を取ると、ニールがソファーに座るよう促す。

「とりあえず今日はここで休みな。これからのことは明日考えるといい」
「ああ…」
「なんなら、1週間くらいここに居てもいいぜ?」
「1週間…?」

 腰をおろしていまだ立ったままのニールを見上げる。
 彼はすぐ近くにあるキッチンのコンロにやかんをかけながら頷いた。
 電気が通っているという割に、コンロには火がついている。部屋も見渡すと、小さいながらも
 暖炉があった。
 いつか彼に見せてもらったアイルランドの家を彷彿させる部屋だ。
 いつ帰れるかわからない身だから、居てもいいと言われるのは助かるが―――。

「今俺も休暇中でさ。昨日からこっちに居るんだ」
「休暇…?」
「上がくれたんだよ。で、特にすることもないしたまにはのんびりしたくて帰ってきたわけ」

 近づいてくる彼の手には二つのカップ。中にはたっぷりと紅茶が入っていた。
 あの頃はコーヒーばかり飲んでいた気がしたが、そういえば休暇の時はいつも紅茶を淹れてい
 た気がする。
 礼を言って受け取ると、彼が口をつけるのを見てから自分も口を寄せる。もう習慣付いてしま
 った刹那の警戒心に、ニールは小さく苦笑しただけだった。

「もう遅い時間だ。…少しでも緊張は解けたか?」
「…ああ」

 もとよりそう気を張っているつもりはなかったが、ニールは刹那が固くなっていることに気付
 いていたらしい。
 あたたかい紅茶と近すぎない距離での会話は刹那の疲れを自覚させた。身体は疲れていないが、
 精神的な疲労が深い。

「ほら、ベッド行けー」
「…俺がソファーでも…」
「女の子をソファーでなんて寝かせられません。気にしなくていいからあっち使え。あっちの部
 屋は鍵がかかるしな」

 ウインクしながら告げられ、彼が色々と配慮してくれたことを知る。
 女性扱いは正直落ち着かないけれど、くすぐったくもあった。
 小さく礼を告げると、ニールは目を細める。
 部屋に置かれていたアンティーク時計はすでに日付が変わったことを示していた。

「そう言えば忘れてた。…お前さん、名前は?」

 背を向けた時、静かに問いかけられた言葉。
 刹那はゆっくりと振り向いて、躊躇った後答えた。

「……ソラン」
「そらん?」
「ああ…ソラン・イブラヒムと言う」

 彼に「刹那」と告げることは出来ない。
 だから一度も呼ばれたことがない、彼にとっては忌むべきこの名前を告げた。
 きっと彼はまだ知らない。刹那の過去も、この先も。だからほんの少し、今の利己的な想いの
 ために。
 今は使うことのない本名を。

「…へぇ…綺麗な名前だな」
「……ありがとう」

 社交辞令とは少し違うニュアンスだと思うのは、刹那の思い込みだろうか。
 ニールは発音を確かめるように何度か教えた名前を呟く。

「そらん…ソラン。発音あってるか?」
「ああ」
「よし、じゃぁソラン!俺はニール。ニール・ディランディだ」

 ―――知っている。
 そう返すわけにもいかず、刹那は泣いてしまいそうな自分を窘めた。
 コードネームを名乗るのだろうと思っていた。なのに彼が紡いだのは彼の本名。
 今ここで、自分が刹那であることをばらすわけにはいかない。だから、一度も顔を見て呼べな
 かった―――けれど何度も呟いた名前を舌に乗せる。

「…ニー、ル」
「ニール、だ。ソラン」
「……ニール」

 掠れたような、小さな声しか出なかった。
 けれど呼んだ瞬間、彼が嬉しそうに笑った気がした。

「おやすみ、ソラン」
「ああ…おやすみ、ニール」



 そっと閉じたドアの向こうに彼がいる。
 刹那はじわりと浮かんでくる熱を振り切るようにベッドに横になった。
 目覚めたら、この邂逅は夢だったのだと嘆くことになるかもしれない。
 けれど。

「ニール…!」

 目をきつく瞑って、刹那は彼の匂いの残るシーツに顔を埋めた。
 朝が来なければいいと。そう願うのは初めてだった。

















  Because even a dream was good, I wanted to meet.    ―――夢でもいいから、逢いたかった。






 
 
 
 
 
 
 
 

       タイムトラベルチックな24歳ニールと21歳刹那の物語が始まります。
       どうしても書きたかったお話なので、書くのがとても楽しいです…。
       もう逢えないと思っていた人と再会して、感情の豊かになった刹那が
       どうしていくか。まだ手探りではありますが、お付き合い頂ければと
       思います。

          2010.03.09  その名前を呟いてきたの。