本当に望むものは、この手に抱きしめることは出来ないと。そう知っていた。
 この乱世ではどうあがいても思い通りになんてならないから。
 
 けれど、それでも。この想いだけは、抱きしめていてもいいでしょう?










     こいしずく   ― 朧月夜 ―










 初めて彼の人を目にしたのは、戦場だった。
 空よりも深く、鮮やかな蒼に魅入られるように。
 あの日から記憶の始まりにはいつもあの蒼が脳裏から消えなかった。
 彼を表す言葉は一言で言うのならば「竜」だ。北の覇者、奥州筆頭。―――独眼竜。
 片目は幼少のころに失くしたのだと聞いた。そのせいで母親に疎まれたことも。彼の口から弱音らしきものを聞
 いたのはその話をしてくれた時だけだ。
 奥州を統べる彼とは好敵手―――いずれ倒すべき相手。甲斐武田のために、いつかは屠るべき相手。そ
 れだけのはずだった。
 けれど妙な縁から戦場以外で会うようになり、気付いてしまった。

 自分がいつの間にか、彼の人に心を奪われていることに。
 きっかけは何だっただろうか。もしかしたら、初めから堕ちていたのかもしれないけれど。








 時折上田を抜け出してよく遠駆けに出かけていた幸村には、気に入りの場所があった。
 そこは生い茂る気が周囲を囲む中で、中心がぽっかりと空いた広場のようになっていた。近くには川が流れ、
 木漏れ日が気持ちの良い場所で、何かにつけて愛馬を駆ってくるのが日常と化していた。
 その日も、幸村は佐助にだけこっそりと言い置いて城を抜け出していた。
 もうすぐ春が来る季節。雪も溶け、数々の木々の中でも桜の樹が蕾をふくらませている。
 ―――このまま戦などなく、こうしてのんびりと過ごせたら。
 雪解けを待って起こる戦が迫っているのを知りながら、その時はそう思った。戦になれば人がまた死ぬ。自分と
 て何人も殺し、自身もいつどうなるかわからない。
 それでも武田のために戦うのはどちらかと言えば喜びだ。
 ―――女であるこの身を何度厭うたことか。15を過ぎたあたりから、やはり差は出始めた。それでも鍛錬をひた
 すらにした結果、そこらの兵になど負けはしない。けれど限界はある。
 槍が振るえなくなったら、いや、信玄に何かあれば自分の役目は戦に出ることではなくなるだろう。それは父親
 との約束でもあった。
 時が来たら、自分は女に戻る。そうして家のために嫁ぎ、子を生さねばならない。
 それはどうしようもないことで、今こうして戦に出ているのはひとえに信玄と真田の家のおかげだ。いずれ来ると
 わかっている。けれど、本当は―――まだ。

「まだ…某にはわからぬな…」

 誰かを苦しいほどに想った事など、まだない。恋などしたことがない。
 城の女中たちが楽しそうに話す内容も、その女中たちを可愛いと思いはするが、自分に置き換えることは出来
 ない。
 そんなこと、考えられないと言った方が正しいか。
 いつか自分も苦しくて泣きたいのに、幸せだと思うような恋をするのだろうか。

「いや…その前に生き残るのが先決か…」

 もしくは、恋を知る前に誰かに嫁ぐか。
 この乱世で恋など出来るものか。あの前田夫婦は別として。ましてや自分のような女として半端な者には無縁
 だろう。
 自分がこんなことを考えるようになるなんて、滑稽だ。戦場では虎の若子だの呼ばれていて、年頃の女らしさ
 など欠片もない。それどころかこんな傷だらけの身体で―――。

 佐助にも言えないような悩みは、城にいる間は全く浮かばないのにここへ来ると頭を擡げる。
 変装も兼ねて女物を着ているからだろうか。今日は薄紅の着物に身を包んでいる。城のものは似合うと言うが、
 自分では違和感しかない。
 自身を見下ろしてため息をついていると、不意に人の気配がした。
 槍の代わりに持っている護身用の小太刀を抜く。気を張り詰めて周囲を見渡していると、近くの木々が音を立
 てた。

「…え?」

 ガサリ、とひと際大きな音を立てた方に目をやると、意外な人物がそこにいた。
 戦場より少々くすんだ青い羽織は上品な藍色。驚いたように瞠られた眸の片方は眼帯で隠されている。

「…伊達、政宗…殿?」

 確認するかのように口に出した名前により、彼の存在がより現実味を増した。
 答えるように彼も名を呼んできた。

「こんなところで会うとはな…。真田幸村」

 口の端をあげて笑う姿は、戦場でよく見かけるもの。
 腰に差しているのは二本の刀だけで、いつものように六爪と呼ばれるものではない。
 それでも、そこにいるのは紛れもなく独眼竜と渾名を持つ伊達政宗自身だった。

「何故…貴殿のような方がここに……」
「An?ちょっと息抜きに遠駆けしてたんだよ。適当に走ってたんだが…まさか人が、しかもアンタがいるとは思
 わなかったぜ」
「某も…驚き申した…」

 けれど言われてみればここは上田と奥州―――彼のいる米沢城からほぼ真ん中くらいではないだろうか。
 周囲は樹や緑だけ。血臭もなく、ただ緩やかな時間が流れるこの場所が幸村は好きだった。
 だからかもしれない。もとより戦場以外で戦う気など毛頭なかったが、警戒を解いた自分に政宗が驚いたのが
 わかった。
 小太刀をしまい、着物が汚れるのもかまわず芽吹き始めた桜の樹の下に座り込む。

「…ここは某の気に入りの場所。争いも何も持ち込みたくはありませぬ。…こちらも城を抜け出して来た身。貴
 殿もそうであろう?」
「…まぁな。小十郎に見つかりたくはねぇ」
「ならばここで会ったことは内密に。幸村も誓って誰にも言いませぬ」
「……I see.」

 隻眼を瞬かせた政宗は、座り込んだ幸村に小さく笑った。
 其れは戦場で見せるものとは違う、楽しげな笑み。
 幸村が初めて見た、彼の一面だった。また彼も女の姿に戻った幸村を見るのは初めてだった。

 それから時折、申し合わせたわけではないのにそこで会うことがあった。
 戦場ではない場所で、二人だけで過ごす。話すことは自身の納める国のこと。
 幸村の知らない奥州の姿。そして政宗の知らない甲斐や上田の姿。
 季節がいくつか巡っても、二人の話が尽きることはなかった。







「…旦那、楽しそうだね」

 久しぶりに時間が空くとわかった夜のこと。
 主が明日抜け出すだろうと踏んだ佐助が、縁側で月を見上げる幸村に苦笑混じりで呟いた。
 いつからか、彼女が抜け出す前は少しだけ落ち着きがないことに気づいた。いつも騒がしくはあるが、幸村は
 それなりに機転が利くし思慮深い。
 けれどずっと使えているからか、彼女の感情は手に取るようにわかった。

「明日出掛けるんでしょう?そろそろさ、俺様にはどこに行くか言って欲しいんだけど」
「すまぬ…。いくら佐助でもそれだけは教えられない」
「なんでさ?」
「…あの場所は某が…私に戻れる場所だから」

 男として生きてきた主が「私」という一人称を使うことは滅多にない。
 其れは感情が高ぶった時か、彼女が「女」に戻る時。

「………そっか、じゃぁ聞かないよ。…そこは危なくないんだよね?」
「ああ。滅多に人も立ち入らない場所故に、狙われる危険はない」

 すまなそうに眸を揺らす幸村に、それ以上は聞けなかった。
 嘆息して笑ってやる。あからさまに安堵した姿に、少しだけ意地の悪いことを言ってやることにした。
 
「危険がないならいいよ。…でも旦那?どこの誰と逢引きしてるのかしらないけど充分に注意はしてよね」
「あっ…逢引き!?」
「そんな顔してんだもん。イイ人との逢引きじゃないの?」

 月明かりでもわかるほど顔を真っ赤にした幸村が、視線を空へ向ける。
 今日は待宵月。明日にはかけることのない望月が空に浮かぶのだろう。佐助も倣うように月を見上げた。

「…好い人…では、ない。某には手の届かない…それこそ月のようなお方だから」
「身分の高いお人なの」
「それもある。想いを寄せることなど…某にはおこがましい…」

 それこそ月を望むように。手が届くはずのない人なのだと淡く笑う。
 月明かりに浮かぶ白い顔は、否定していても恋を知った女の貌だ。
 これまで信玄のためだけに生きてきたと言っても過言ではない主が初めて見せる姿。この世で彼女の恋が叶
 う可能性は万に一つほどだろう。
 それでも初めてだろう恋に口を出すほど野暮にはなれなかった。
 出来るなら、どんな形でもいい。幸せになって欲しかった。








 ―――戦国の時の流れは、容赦などなく。
 
 武田の長として甲斐を統べてきた信玄が病に倒れたその時、幸村は槍を手放した。
 もう、これまでだと―――。

「…佐助」
「…俺様は最後まで旦那と一緒にいるよ。旦那が“幸姫”に戻っても、俺様の主はアンタだけだ」
「……ありがとう。…すまない…」

 武将として立つとともに、信玄や真田の者たちと取り決めたことがある。
 出来る事なら、そんな日が来なければいいと願っていた。信玄が天下を統一し、自分も一生武将でいられる
 のだと。
 いつ誰が消えるともしれないこの乱世で、そんな甘い夢を見ていた。―――見ていたかった。

「出来る事ならずっと…このままでいたかった…」

 幸村の小さな呟きに、佐助は何も答えられなかった。
 取り決めの席には、佐助も同席を許されたから内容を知っている。
 幸村にとっては何より辛いだろうその取り決め。
 ―――信玄が身罷った時は、速やかに武将としての務めを降り、「姫」として嫁ぐこと。子を産み、育てる間は
 決して槍を握らないこと。真田の血を絶やしてはならない。
 亡き父の願いでもあると知った時、了承するしか道はないのだと知った。抗うには重い願いだ。

「結納は半年後だそうだ。…相手はお館様が兄上と相談してお決めになったらしいが…」
「大将が決めた相手なら、きっと大丈夫だよ」
「そう、だな…」

 日課だった鍛錬をしなくなった腕は徐々に女のそれに変わる。
 今までは遠いところにあった現実が一気に押し寄せてきたようだった。
 もう長くあの場所へも行っていない。

「あの方と逢うことも、もう叶わなくなるのだな…」

 空より深い蒼が目を閉じるだけでこんなにも鮮やかに甦るというのに。
 次の桜は共に見ようと二人で決めたのに。
 奥州の春は少々遅い。あの場所の桜の樹も奥にあるせいか上田の花より遅く開く。
 桜に合う着物を着て来いと、彼は言った。そのかわりに美味しい酒と団子を用意するから目を楽しませろと。
 笑う隻眼に仕方がないふりをして了承した。本当は嬉しかった。着飾った自分が見たいと言われて、女として
 の自分がひどく喜んでいた。
 いくらそちらの感情に疎い自分でも、自覚している。この感情こそが、「恋」なのだと。

「伝えることなど出来はしないとわかっていたが…苦しいものだな…」

 結婚は家同士のつながりだ。兄が真田を出て徳川についている以上、男として生きてきた幸村が上田を継ぐ
 ことになっている。だから然るべき相手と婚姻を結び、真田のために生きなければならない。
 いつか来るかもしれなかった未来が、目の前に腰を下ろしただけの話。

「…旦那…?」
「…決着をつけることも叶わなかったか…」
「え…」

 思わずこぼした呟きに、佐助が目を瞠る。
 そういえば、結局誰に逢っているか話したことはなかった。
 まさか敵将に逢っているなど思いもよらなかったことだろう。戦場では必ず殺し合いをしていた相手だ。そんな
 者に恋情を抱いていたなど―――。

「旦那が逢っていたのは竜の旦那だったわけ…」
「…ああ。…愚かだと思うか?愛しい相手に槍を向けていたことを」
「……いや…。なんか納得しちゃった」

 思いもよらぬ返答に、訝しげに佐助を見やる。
 彼は橙色の頭を無造作に掻きながら、苦く笑った。

「結局旦那はずっと竜に全部奪われてたんだねぇ…。戦場でも、そうじゃない時も…旦那の中にはあの人しか
 いなかった」
「…戦場以外では手が触れたことすらないぞ」
「…そっか。じゃぁそれだけ竜の旦那もアンタが好きだったんだね」

 幸村と政宗が出逢って三年ほどになろうか。二人でけで逢瀬を交わしていた期間も同じくらいあったはずなの
 に、一度も触れ合ったことがないという。
 それはただ敵将同士だからとか、そんな理由ではない気がした。
 戦場での二人を一番近くで見てきたのも佐助だ。だからこそ、わかる。

「一番愛しいものほど…触れなかったりするんだよ。旦那だってそうだったんじゃないの」

 大切で壊したくないものほど、手を伸ばせない。
 触れたら消えてしまう気がする。

「佐助…」
「うん?」
「あの方は…政宗殿は、ずっと優しかった」
「…うん」
「いつも某の話を聞いてくれて、時にはいろんなことを教えてくれた。ただ…傍にいて、触れられずとも傍にい
 るだけで幸せだと思った」

 それこそ、月のように。ただただ手を伸ばすだけで。決して届かないとわかっていたからこそ。

「あの方にはすべきことがあって、某にも捨てられないものがある。いつかは終わるとわかっていたけど、まだ…
 あの方の傍で何も知らずに笑っていたかった…!どちらかが燃え尽きるまで、剣を交わしていたかった…!!」

 真田幸村としてなら、それが叶う。けれど「幸姫」では叶わない。
 戦場で、あの場所で。逢えるのが嬉しかった。剣を交わすのも、話をするだけでもよかった。
 ただ共に在りたかったのだ。
 けれどもうそれは叶わない。幸村は真田を捨てられない。ましてや信玄や父の最期の願いを反古には出来な
 い。

「……旦那」

 崩れそうになる膝と零れ落ちそうになる涙を必死で耐えていた幸村は、強い力で抱き寄せられた。
 目の前には忍びの装束。ゆっくりと撫でられる髪と背を一定のリズムで叩く大きな手。
 幼い頃、泣くのを堪えている幸村に彼がよくしていてくれた慰め方。
 そっと顔をあげると真剣な目をした佐助が幸村の肩を掴んだ。

「我儘言いなよ」
「…え?」
「俺様はさ、旦那に…幸姫に幸せになって欲しいから。だからね何がしたいか言ってよ」

 ―――何がしたいのか。この状況下で幸村がしたいことなど叶うはずがない。
 けれど真剣な佐助の目に、想いと共に涙があふれた。

「逢いたい」
「…うん」
「政宗殿に逢って…伝えたい」

 彼には重荷になるかもしれない。
 けれど最後くらい、自分を許してもいいのではないかと。
 月を欲しがって泣く子どものように、ただ優しい腕の中で静かに涙を零した。





 桜が咲き誇る。
 春特有のぼんやりとした月が闇にほのかな灯りをともす。
 夜にここへ来るのは初めてだった。城を抜け出すしても夕方には帰るようにしていたから。
 昨晩どこかへ出かけていた佐助が戻ってくるなり小助を幸村に化けさせた。そしてあの場所へ行くようにと意
 味ありげな笑みを浮かべて言った。訳がわからなかったが―――ここの桜を見たかったから、行くのに異論は
 なく。新しく作ってもらった樺桜の着物を着て、馬を駆った。
 共に見ようという約束は叶わないだろう。けれどなんとなく―――予感がしていたのかもしれない。

「真田」

 ざわめいた桜の花びらの間から、鮮やかな蒼が見える。
 振り返った幸村の目に映ったのは、淡い光に照らされた一人の男だった。

「―――ま、さ…むね殿…」
「Yes, is so」

 彼はいつもの飄々とした表情ではなく、時折見せる真剣な眸を覗かせていた。
 こちらへ歩み寄ってくる足取りには何の迷いもなく。
 伸ばされた手は、幸村のそれを掴んで引き寄せた。

「何故…?」
「…猿が来た。…アンタがここに来るから、逢いに行ってくれと」
「佐助が…?」
「……甲斐の虎が…武田のオッサンが死んだってのはマジか?」
「―――っ!」

 瞠目して政宗を見上げると、彼は痛々しそうな目で幸村を見ていた。
 信玄の死はしばらく隠すようにと言われていたのに、何故佐助は話してしまったのだろう。
 何も答えられずにいると、政宗は懐から一通の書状を出した。
 目の前で開かれたそれには見覚えのある筆跡が並んでいる。

「それは…?お館様の書状…」
「ひと月ほど前に届いた。俺が甲斐を攻めようが関係ねぇと」
「え…」
「だが…お前を殺してくれるなと、ここにある。…オッサンが死んだら、アンタは家のために嫁ぐって決まってた
 んだってな」

 びくりと肩を震わせてしまう。
 彼に知られているなんて、青天の霹靂だ。
 顔をあげられずにいると大きな手が伸ばされるのが視界の隅に入った。

「―――あ…」

 節のある大きな手が幸村の頬を包んだ。
 刀を握っているもの特有の硬い皮膚。六本もの刀を操る手なのに、触れてくるそれはひどく優しい。
 初めてだ。こんな風にただ触れるだなんて。手をひかれたのすら、戦場以外では先程が初めてなくらいで。
 瞠目していると、間近に彼の深い藍色の眸が見えた。

「I forgot it…。アンタにも生さねばならないことがあるんだよな…」

 幸村は武田の臣で、上田を統べる真田の主だ。幼いころからそのためだけに男として育てられ、子を産むた
 めだけに女として扱われる。
 それを嘆いたことはないはずだった。―――隻眼の竜に出逢うまでは。
 見つめてくる藍色が痛ましげに見えるのは、気のせいだろうか。
 いや、きっと気のせいなどではない。互いに絶対に見ないふりをしていたけれど、抱いていた想いは同じのは
 ずで。
 交わす視線が言葉より深く熱を伝えていたのに。
 だからこそ、伝えられなかった。明確な言葉にしたら全てが壊れてしまうと知っていたから。
 けれどもう、これが最後なら―――許されるだろうか。

「…政宗殿…」

 頬にあてられたままの手に、そっと自分のそれを重ねる。
 同じくらい硬くなった手は、幸村の誇りだ。けれど同時に物悲しくもある。彼の周りにいる「女性」との違いが顕
 著になるから。
 それでも今触れることに迷いはなかった。

「某は…“私”は、半年も待たず輿入れいたしまする。相手はまだ知りませぬが、お館様の選んだ相手に異存
 など申せませぬ」
「……ああ」
「幼き頃より何れはこのような日が来るとわかっていました。兄が徳川にいる以上、真田のために私が血を継が
 ねばならぬこと…。そのために嫁ぎ、子を生すこと」

 そうだ。わかっていた。彼とて同じだろう。奥州の筆頭として、既に妻のある身だ。妻だけではなく、子も既にい
 ると聞く。
 女が嫌いな彼が、幸村を認めてくれた。だからそれ以上を望んではいけない。
 ―――女として、傍にいることは出来るわけがない。一介の将でしかない自分は彼にふさわしくない。

「ですが…私は貴殿に出逢ってしまった」
「…ゆき、」
「妻に、だとか…傍に置いて欲しいとは思ったことがありませぬ。ですがほんの少し…少しでも私を愛しく想って
 くださるならどうか―――」

 逸らすことのできない眸が熱い。
 斬り捨てられる覚悟で紡いだ言葉は、最後まで告げる前に迫ってきた精悍な顔に吸い込まれた。

「Shit!」

 ぐ、っと腰を引き寄せられる。そして広い肩に頭を押し付けられ、目を瞬かせた。

「俺が女嫌いだって知ってるな?」
「はい」
「だから俺はアンタを女として見たくなかった。…けど、こうしてここで逢っている間、俺はアンタを女としてしか
 見れなくなっちまってた」

 苦しげに語られる言葉は真剣で、幸村を抱き寄せる手には強い力がこもっている。
 そっと身じろぐとふわりと香る彼の香の匂い。上品なその香りに顔を埋め、深く息を吐いた。

「少しなんてもんじゃねぇ…俺はアンタしか愛しく想えない」

 ああ、佐助の言うとおりだ。お互いに怖くて触れられなかった。こんなにも心は近くにあったのに。
 優しい竜が愛しくて泣いてしまいそうだ。

「……ずっと…お慕いしておりました…」
「I knew. …幸村」

 雲間から出た月が二人の影を長く伸ばす。
 桜の花びらが狂ったかのように舞う中で、影はひとつに重なった。








 どれほど想っても、愛しても、実ることは絶対にないと知っていた。
 けれどこの日を幸村は一生忘れないだろう。こんな幸せな日を。
 ―――出逢って、恋をして。そしてたった一度だけ結ばれた。初めて触れ合った肌も、ぬくもりも一夜の夢。

「…桜が散ってしまいますね…」
「……ああ」

 絡ませた指は互いにひどく冷えていた。
 視線は交わることもなく、ただ雪のように舞う花びらを見つめている。
 この手を放せば、もう二度と繋がることは叶わない。

「…政宗殿」

 小さな呼びかけは二人だけにしか聞こえないだろう。けれどそれで充分だった。
 答えるように視線が交差する。
 幸村は込み上げる涙を飲んで、そっと微笑んだ。
 別れの時は、笑っていようと決めていた。涙を見せることは出来ない。

「幸…」
「どうか、ご息災で。…奥州がこの先も栄えますよう。…奥方様と御子と……幸せに過ごしてください」
「幸」
「あなたの幸はここで消えまする。…だから忘れてしまってください。次にお逢いするのはきっと戦場…。その
 時の某は―――真田幸村にございます」

 仕方のないことだ。自分たちは背負った柵も何もかも、捨てることなど出来ないのだから。
 互いに譲れない、大切なものを抱えている。―――身動きもとれないほどに。

「幸はあなたにこの世で出逢えたこと…愛せたことを一生誇りに思うでしょう。ですがあなたは忘れてしまって」
「幸!」

 桜が舞う。
 二人を引き離すかのように。
 互いの姿すらかき消されそうな、花びらの吹雪。
 その中で、幸村は確かに笑っていた。

「これは私の…女としての意地にございまする」

「女」としての自分は全てここに捨てていく。この逢瀬を最後に、この夢は覚めてしまうのだ。
 何も残すことは出来ない。自分を思い出す縁(よすが)など、何一つ。

「…愛しています、政宗殿。きっと…きっとどの世でも私は貴殿をお慕いするのでござろう」

 桜の花びらが、互いの姿を隠す。
 まだ繋がったままの指先だけが、互いの存在を示していた。
 少女から女へと変わったその人が微笑む。
 それははっとするほど美しく―――儚いものだった。

「……幸」
「はい」

 言われっぱなしは性に合わない。
 政宗は手繰り寄せるように、細い腕をとった。
 風に煽られた栗毛を指ですくう。―――忘れることなど、出来るものか。何があっても、幸村だけは。
 その思いを胸に、髪の間から覗く耳に唇を寄せ、囁いた。

「今生では最後なんだろう?…ならば約束する。来世では必ず、俺はお前を手に入れてやる」
「!」

 目を瞠った幸村の唇に、自身のそれをそっと重ねる。
 視界が互いの眸だけしか映せない距離で、再度囁いた。

「必ずだ。どんなに姿や形が変わっても、お前を見つけて今度こそ離れない」

 ―――共に生きよう。

「…は、い…。政宗殿…!」

 潤んでいた茜色の眸から一筋だけ零れ落ちた雫は、地面に吸い込まれ消えていった。
 筋をたどるように頬と目尻を舌で追う。
 ほんのり赤く色づいた目元が、痛々しくも美しかった。
 巻き上げる春の嵐に流れたのは、一体どちらの涙だったのだろう―――。

 二人で交わしたそれは、確かな約束だった。またいつか、出逢うための。










 たどたどしい唄が聞こえた。
 佐助は小さく微笑んで声を辿る。気配は消さず、足音はしっかりと消して。
 深く積もった雪が月の光を集めてほの蒼く光る。

「…風邪ひいちゃうよ?」

 囁くように声をかけると、縁側で雪を眺めていた背中が小さく揺れた。
 背に流れている艶やかな栗毛がさらりと波打つ。
 ずいぶん伸びたものだと思う。ひと房以外はざんばらだったのに、今はずいぶんと落ち着いていた。

「…お姫さまは眠った?」
「ああ。…ふふ、この子はどうやら月の方が好きらしい」
「…旦那と…いや、姫と一緒だね」
「そのようだ」

 振り向いたその人の腕の中には、まだ生まれてひと月ばかりの赤子が眠っている。

「髪の色…黒なんだねぇ」
「眸は某と同じ茜色。…あの方の血をひいているのだ、将来はきっと美しくなろう」

 嬉しそうに、けれどどこか切なげに笑う姿は戦場をかけていた頃の主とはずいぶんかけ離れている。
 その顔を見るたびに、佐助の胸には小さな痛みが走った。
 あの日、逢瀬を仕向けたのは佐助だったが、未だにこれでよかったのかと自問するときがある。
 彼と一夜を過ごした幸村の胎には命が宿っていた。気づいたのは婚儀の準備が始まったころのこと。月のもの
 が来ないこと、食の好みの変化―――。女中より先に佐助ら勇士が気づいた。
 婚儀を間近に控えた女の胎に子があるなど、赦されることではない。けれど幸村があまりにも幸せそうに笑うか
 ら、堕胎させる選択は出来なかった。
 夫となる相手と話しあい、胎の子は生まれ月をごまかして育てることが決まった。幸村の夫となる人物は、幸村
 を確かに愛し尊敬さえしている。身籠った子どもごと幸村を大切にしてくれると言った、奇特な人物だ。
 そうして結納を済ませた幸村は如月の静かな夜に赤子を産み落とした。
 その時の主の幸せそうな笑みを、佐助は生涯忘れることはないだろう。それほどに美しく―――儚かった。

「なぁ、佐助」
「何?」
「…この子は幸せになれるだろうか」

 ゆるりと赤子をゆすりながら、幸村がぽつりと呟く。
 生まれた赤子は決して本当の父親を知る日は来ないだろう。そして父親である竜も、子の存在を知ることは
 ない。
 男児でなくて、まだよかったと思ってしまったのは―――幸村の驕りだ。

「…なれるよ、きっと」

 眠る嬰児のふくふくとした頬をそぅっと撫でて、佐助が答えた。
 力強いその言葉に、顔をあげる。

「なれるに決まってるじゃない。だって―――この子は姫の…姫と竜の子だよ?」
「佐助…」

 いつか腕の中の赤子は己の中に流れる血を憎むかもしれない。乱世の波に圧されてしまうかもしれない。
 けれど不思議と、この子は大丈夫だと思える。それは彼の人の血を受け継いでいるからだろうか。
 穏やかに眠る嬰児はまだ何も知らない。思い通りにならない世の中のる痛みも、幸せも。胸を焦がすような恋
 すらも。

「いつか…」
「うん?」
「いつかこの子に聞かせることが出来ればと思う。…恋の、話を」

 叶うことはなかったけれど、確かに手にした証。
 もうすぐ桜の季節がやってくる。愛しくも切ない季節が―――。
 そっと見上げた月は、静かな夜を蒼く照らしていた。













 
 
 
 
 
 
 
 


        もろともに あはれと思へ 山桜  花よりほかに 知る人もなし
                         (小倉百人一首66 前大僧正行尊)

        戦国のこの時代に、この二人が結ばれるのは難しいだろうな、という妄想から始まったこのお話。
        時間が跳びまくっているので読みにくいかと思いますが、少しでも何か感じていただければと思い
        ます。幸村は20歳前後のつもりです。旦那さんは小山田さんなんてどうでしょう?

            2010.10.01 焦がれた月のようなあなた。