あの日、一度だけ手にした幸福を、今も忘れられずにいる。
 互いに捨てられないものが大きすぎた。この乱世では一度手を放してしまえば、二度と掴めないことを知って
 いたのに。

 こんなにも恋しくて堪らないのに、それはこの手をすりぬけた。










     こいしずく   ― 有明の月 ―










 その少女は、出逢った頃の“彼女”によく似ていた。
 違うのは髪の色と口調。そして、手にした武器。
 けれどまるであの頃の彼女がそこにいるかのように、同じ笑い方をする。

『政宗殿』

 散る桜と、おぼろげな月の夜。
 あれからもう何年も経っているというのに、あの頃の姿の彼女は目を閉じるだけですぐに現れた。
 はにかむように笑い、初で純粋で、強いのに儚くて。甘いものが好きで、酒が苦手で。
 彼女を構成するそのすべてが、いつの間にか愛しくて堪らなくなっていた。

 母親との確執がトラウマになっているのは自覚していた。家のためと娶った妻や側女も鬱陶しくてならない。
 女など大嫌いだった。自身の見てくれや権力に惹かれてなびく姿に吐き気すら覚えた。
 けれど―――彼女だけは違った。
 初めて出逢ったのは戦場で、その今日をそのまま表したかのような苛烈な紅に目を惹かれた。
 武田信玄の懐刀。まさかそれが姫武将であるなど、誰が思うだろう?
 さらしと胸当てでうまく隠していたようだが、その細い身体は紛れもなく女のものだと気づいた瞬間、残念に思
 った。
 けれど戦場で刀を交える度、その印象は変わった。信玄のためならその身がどうなろうとも厭わず、女として生
 まれたことを憎むようにして戦場を駆ける姿が危なっかしくて。
 ―――目を離してはいけない気分になって。
 小十郎の目を盗んで遠駆けに出たあの日、偶然見つけた場所で彼女に出くわした時は本当に驚いた。
 そこが彼女の気に入りの場所で、どちらも城を抜け出してきていることもあり出逢ったことを内密にすることにし
 た。








 初めて見た女性らしい姿も、気まぐれに持って行った菓子に目を輝かせる姿も。
 すべてが新鮮で、そして安らぐ時間だった。

「…アンタ、そんな座り方してるとせっかくの着物が汚れるぞ」
「え?」
「それ、結構上物じゃねぇか」
「……そうなのでござるか?」

 すっかり秋の装いになった山で、政宗は久しぶりに幸村と逢った。
 しばらくは戦の予定もなく、今年は民も安心して農作が出来ると喜んでいる。
 政宗も息抜きにと馬を駆り、ここへ来た。しばらくすると彼女もひょっこりと現れ、今は彼女が持参した団子をつ
 まみながら紅葉狩りをしている。
 自身の着物を見下ろして、首を傾げる幸村は本当に知らなかったらしい。
 彼女が纏っている蘇芳の色をした着物は明らかに質のいいものだ。しかし地面に直接腰をおろしているせい
 で、せっかくの着物も砂埃がついている。

「む、これを汚してしまったか…。佐助に怒られる…」
「……アンタなぁ…」

 困った、と眉尻を下げた少女は無造作に着物の裾を払う。ちらちらと見え隠れする足首のあたりが目に毒だ。
 その姿に、政宗は小さく嘆息した。本当に彼女は自分の周りにいる女とは正反対だ。
 先ず女はめったに外には出ない。その上着物で馬に乗るなど言語道断。地面に座り込むことも嫌がるだろう。
 なのに幸村はそれを平気で行う。彼女からしてみれば、戦に出ている身だ。地面に腰を下ろすことも日常茶
 飯事だろう。逆にいちいち気にしている姿が想像つかない。

「まったく…女物は疲れるでござる…」

 はぁ、と深いため息とともにそんな言葉が滑り出てきた。
 政宗の視線に気づいたのか、彼女は困ったように微笑んだ。

「普段は袴を着ているのです。某は武士…女の身形では舐められることもありますれば。…ですが戦のない時
 くらいは女物でもいいだろうと、着ないと着物が可哀想だと女中たちが言うので」
「まぁな。確かに肥やしにしちまったら着物は傷む」
「でも…某にはこのような綺麗な着物は似合わぬ」
「そうか?」

 自嘲するように笑う姿に、眉を寄せた。似合わないと言う割には寂しそうな目をしている。
 紅は彼女に一番似合う色だ。戦場であの翻る色を見た瞬間、目を奪われたのだから。
 今も色味は違えど、着ているのは赤の着物。落ち着いたそれは紅葉に埋もれてしまいそうだ。
 ―――いっそ彼女こそがひらりと舞う葉のような。

「そういうカッコも悪くないと思うぜ?…どんな姿でも、アンタが真田幸村だってことに変わりはねぇんだし」
「…そうでござろうか…」

 じっと自身の着物を見つめながら呟いた声には、困惑と羞恥、それからほんの少しの歓喜が混じっていたよう
 に思う。
 照れたように頬を染める幸村が「女」に見えた。政宗が嫌悪する嫉妬に狂い、女の身を強調してみせる奴らよ
 りよっぽど美しい「女」。
 幸村の髪にひらりと紅葉の葉が落ちた。深い紅が栗色の上を流れるように滑りゆく。
 政宗は目についた大きい葉の紅葉をそっと彼女の髪に挿した。茜色の眸を瞬かせる少女の頬も紅葉のようだ。

「ほら、やっぱアンタには紅がよく似合う。…綺麗だ」

 本心からそう思って告げたのだが、彼女はからかわれたと思ったらしい。顔を背けられてしまった。
 けれど真っ赤に染まった耳が紅葉の下に垣間見えて、政宗は口元を笑みの形にする。

「…伊達殿は女子の扱いになれていらっしゃるのだな。某のような者にまでそのような…」
「An?別にそんなつもりはねぇよ」

 不満げに頬を膨らまして、上目でこちらを見てくる幸村は本当に可愛らしかった。戦場で「紅蓮の鬼」と呼ばれ
 る彼女ではなく、そこいらに居そうな少女だ。
 髪に挿した紅葉が秋の風に揺らされる。くるくる回りながら落ちる葉が積もりゆくように、政宗の胸の内にも積も
 っていた。
 ああ、いつの間にか紅がこの身をじわりと染めていく。
 彼女のような者が傍にいれば、自分はきっと何があっても笑っていられる気がした。
 けれど同時に決して手に入らないということも理解していた。幸村は武田の臣、欧州を統べる自分とはいつ刃
 を突き立てあってもおかしくはない。
 誰かを想うことが哀しいだとか、苦しいものだと初めて知った。







 
 夢の終わりは出来ることなら、来なければいいと願っていた。
 信じてもいない何かに願いたくなる程度には。

「―――竜の旦那」

 夕闇の迫る逢魔が刻。
 燃えるような橙の髪を揺らして、音もなく現れた忍びは静かに政宗の前に降り立った。
 どこか真剣な目に時が来たことを悟る。

「……武田のオッサン…いや、信玄公は」
「書状にあった通り…つい先日逝ったよ」
「あの一方的な文が書状だってか。…あれはそんなんじゃねぇだろ」
「…俺は何が書かれているか知らないよ。けど…俺の主が泣いているからここに来た」
「主…真田が……あいつは今後どうするんだ?…武田を継ぐのか」

 信玄亡き後、武田をまとめていける者は幸村くらいしか思い当たらない。
 そう問うと、彼は視線を足下に下げた。

「旦那は武田を継がない」
「What?」
「…そういう約束だった、から…」
「約束……?」

 頷いた忍びは拳を固く握る。苦い物を噛んだかのような、そんな顔。
 いつも飄々とした雰囲気の彼がこんなに感情をあらわにするなんて。
 視線で問いかけると、迷ったように口を開いた。

「大将とお父上との約束なんだ。…大将が倒れたら旦那は女に戻るって」
「…女に戻る…」
「真田の血を残すために、嫁いで子を成すのが旦那の役目になるんだ。だからもう…戦場に戻ることは出来な
 いかもしれない」
「Why is it…?」

 幸村が戦場からいなくなる―――。そして誰かに嫁ぐ?
 何の冗談だと激昂しかけて、とどまる。
 よくよく考えてみれば、彼女は「女」だが真田を統べる者だ。いつそうなってもおかしくはなかったはず。
 こんな年まで嫁がなかった方が不思議だ。その理由がこの約束だというのか。

「ねぇ、竜の旦那。…真田の旦那には好きな人がいるんだ」
「は…?」
「俺はそのこと、知ってたけど止めなかった。こんな世の中で結ばれるわけないのわかってたから、傷つく前に
 終わってほしかった」

 唐突に話し始めた猿飛に、政宗は眉をひそめる。
 けれど真剣な目に、口を挟めそうもない。

「でもさ、あの子が泣くんだ。いっつも気丈で笑ってて、弱音も滅多に吐かないのに…その人が恋しいって泣く
 んだ」

 猿飛の射すくめるような、それでいて懇願するような色の眸が政宗を真っ直ぐに見る。
 その相手が羨ましい。そう思って俯いた。
 何故急に自分にそんな話をするのか。いや、なぜ信玄が他でもない自分に文をよこしたのか―――。
 そんなことがあるわけないという思いと、そうであればいいと思う気持ちがせめぎ合う。
 戸惑ったまま顔をあげる。もし幸村の想い人が信玄に知れていたら。

「…簡単に触れられないくらい、好きになってくれたんでしょう」

 ああ、すべて知られているのか。
 図星をさされて固まった身体をのろのろと動かした。
 空はすでに薄暗い。春と言えど、奥州はまだ寒い。そんな中で胸の内はひどく熱かった。

「…ああ………そうだ」

 肯定してしまえば、湧き上がる想いにどうにかなってしまいそうだ。
 逢っている時は手を握ることすら出来なかった。
 触れたら―――すべてが泡沫のように消えてしまいそうで。
 初めて女に触れるガキのようで、そんな自分に嫌気がさした。
 けれどあの笑みを間近で見て、名を呼ばれて。それだけで胸が満たされる。

「女なんか憎いくらいだってぇのに…あいつだけは愛しいって思う」
「竜の旦那…」
「笑っちまう…。俺はあいつが欲しくて堪らなかったのに同じくらい恐かったんだよ」

 大切なものはすべてこの手をすり抜けてしまう。だから幸村も同じではないかと思った。
 誰にも抱いたことのない感情。時間が止まればいいとすら思う、二人だけの世界。
 あの場所では自分も「奥州筆頭」ではなく、ただの「伊達政宗」と言う名の男だった。

「…明日の晩、旦那は桜を見に行くよ」
「…桜…」
「旦那のお気に入りの場所に、大きな桜の木があるんだって。きっと最後になるから目に焼き付けてくるって言
 ってた」

 政宗の脳裏に仕方がないとでも言うようにそっぽを向く幸村の姿が浮かぶ。
 二人だけで花見をしようと約束をした。彼女の好きな甘味を用意する代わりに着飾ってきて欲しいと頼んだ。
 驚いたような顔をしていた。それから唇をとがらせた仕草は照れている時の癖。
 頷いてくれた時は安堵して思わず笑ってしまった。
 あの約束を彼女は覚えていてくれたのだ―――。

「…猿飛、頼みがある」
「何」
「…明日の晩幸村と二人だけで話をさせてくれ。一晩でいい…夜が明けたら、終わる夢でいい」

 朝日にとけてしまってもかまわない。露となって消えていい。
 その時だけは一人の男として、彼女の傍に立ちたい。

「……わかった。アンタのためじゃない…俺の大事なお姫様のためだから」
「ああ。充分だ…」

 恩に切る、と頭を下げた政宗に、忍びは姿を消した。
 消え去る直前、彼が憐憫と安堵の入り混じったひどく優しい目をしていたのは、見間違いだろうか―――。






 おぼろげな春の月が、窓から柔らかい明かりを差し込ませる。冷える外気は熱を持った肌に心地よかった。
 とろりと融けたような茜の眸がぼんやりと彷徨って、政宗を見つける。途端にふにゃりと相好を崩す様はひどく
 可愛らしい。

「…幸、大丈夫か?」
「ん…政宗殿…」

 何も纏っていない胸元に幸村が頬を寄せる。
 栗色の髪を片手で梳きながら、寒くないようにしっかりと抱きよせた。

「…幸は倖せすぎて泣いてしまいまする…」

 陽が昇る前にはこの腕の中の身体と二つに分けなければならない。
 それが堪らなく切なくて、政宗は抱く力を強めた。
 せめてこの手が離れるまでは倖せに溺れたままでいたかった。

「…泣くな。アンタは笑ってろ」
「…では政宗殿、そんな顔しないでくだされ」

 そっと伸ばされた細い指が政宗の頬を撫でる。
 労わるような、そんな手つきだった。決して柔らかくはないし、白くもなければ傷も多い。けれどあたたかく、優
 しい手。
 遠い記憶の向こうにある、何も知らなかった頃に傍にあったぬくもりによく似ていた。

「夜が…明けなければいいのにと。初めて思う」
「私もです。幼子のように時が止まってしまえばいいと…」

 泣き笑いの顔でそう小さく呟く幸村をきつく抱く。
 愛しすぎて、苦しかった。








 ―――幸村が死んだ。
 政宗がそれを知ったのは、夏を過ぎた頃のことだった。あのいつも共にいた忍びを連れ、死地に旅立ったと。
 亡骸をこの隻眼で見ることは叶わなかった。それ以前に聞いた瞬間は目の前から光が消えたほどに衝撃を
 受けた。認めたくなかったのかもしれない。あの眩しいまでの紅がこの世にもう無いのだと言うことを。
 彼女のものは、手元に何一つ残っていない。

『あなたは忘れてしまって』

 これまでにないほど美しく、儚く微笑んだ彼女は最後にそう願った。
 彼女につながるものはこの記憶だけしかない。その他のものを、赦してはくれなかった。

「……Ha…。この手で逝かせることも赦しちゃくれねぇんだからな…」

 どれだけの年月が過ぎたのだろうか。その間に何度も何度も思い出した。
 あの朧月の夜の夢を。桜を見る度、紅葉を見る度、脳裏を支配するのは鮮烈な紅。
 笑った顔が好きだった。太陽のような、明るくすべてを照らしてくれそうな笑顔。
 誰よりも愛しい女だった。名ばかりの幾人もの妻などいらない。彼女だけが欲しかった。
 苦しく、切なく、泣いてしまうほどに愛したのは一人だけ。きっとこの命が尽きるまで、政宗の胸から彼女が消
 えることはないだろう。

「…悪いな、幸…。忘れられるわけ、ねぇだろ…?」

 互いに捨てられないものが大きすぎた。
 感情より優先しなければならないもの、背負っているものがあった。
 一夜の夢にするしか。あの頃の自分にも幸村にも出来なかった。



「―――政宗様、重長です」
「ああ。入れ」

 すらりと開いた襖の向こうに、父親より柔らかな面差しの男が控えている。
 その後ろには少女が身を強張らせていた。まだ幼さを脱していない年頃の少女だ。政宗はそれが誰だかす
 ぐにわかった。
 叩頭しているため、顔は見えないものの纏う雰囲気が―――よく似ている。

「殿、仰せの通り連れてまいりました」

 重長が気遣わしげに見やる先の少女は、その視線を受けてちらりと政宗を見た。
 ああ―――よく、似ている。

「Hey.顔あげな」
「…はい」

 すっと背筋を伸ばして座する姿は、一輪の花のよう。
 真っ直ぐにこちらを見てくる臆することのない眸は、彼女と同じ茜色だった。

「…What is your name?」
「は?…えっと」
「ん、名前は何だ?って聞いてんのさ」

 南蛮語は苦手で、と呟きながら困ったように微笑むところもそっくりだ。
 その姿に思わず笑うと、少女も緊張を解いたようだった。

「阿梅と申します」
「…その頃の生まれか?…アンタ今いくつだ?」
「数えで17になりました。梅の咲くころに生まれたので、母が名付けたと聞いています」
「そうか…幸村が」

 出逢った頃の彼女と同じ年。
 髪の色はあの明るい栗色ではないものの、眸や面差しは母親似のようだ。
 よく似ていると言うだけで、こうも胸をつかれるとは思いもしなかった。
 それからは時折職務の間に顔を合わせる程度に呼び寄せ、幸村や育った上田の話を聞いた。少女の話は
 政宗の胸中を和ませてくれた。





 夜風に薄紅が翻る。
 酒を口にしながら桜を見るのは、既にこの時期の習慣となっていた。
 桜を見るとあの夜を思い出す。
 今夜は重長とその妻となった阿梅も呼んで、共に夜桜見物をしている。先程近くで見たいと言い、阿梅は庭
 先に降りていた。
 ひと際強い風が吹き、桜の花弁を攫う。

「『―――殿』」
「!!」

 手にしていた杯を落とすところだった。
 思わず瞠った隻眼に驚いたのか、阿梅が心配そうな顔で駆け寄ってくる。

「大殿様、如何なさいましたか?」
「―――何でも、ねぇ」
「そうですか…?」

 不安げな阿梅に笑いかけてやると、安心したようにまた桜のもとへ行く。
 幸村、と呼ぶところだった。桜を背にこちらを向いた少女があの日の幸村にあまりにも似ていたから。
 もう彼女はいないと言うのに、いつまでたっても自分はあの夢に心が捕らわれたままだ。
 自嘲するように笑い、酒を煽る。喉をやいたそれに息を吐くと、阿梅がゆっくりと戻ってくるところだった。

「満足したのか?」
「はい。この庭の桜もとても美しいのですね。…けれど私、本当はどうしても見てみたい桜があるんです」
「…What?」
「母が…話してくれたことがあるんです。人生で一度だけ、これ以上ないほどに人を愛したことがあると。その
 人と最後に見た桜が一番美しかったと」

 阿梅の言葉に、政宗は小さく息を飲んだ。

「春の…北の桜が咲くころに一度だけ…。これは誰にも言うなと言われていましたが…母亡き今、母の好敵手
 であった大殿様にでしたらかまわないでしょう」

 秘密にしてくださいね、と前置きをした少女はそっと座ると語りだす。
 母である幸村が寝物語に話してくれたという「恋」の話を。


「私は父を知らぬのです」

 唐突な言葉に、政宗は首をかしげる。少女の父親は幸村が嫁いだ小山田であるはずだ。なのに知らぬとは
 どういうことだろうか。訝しむ視線に気づいたのか、阿梅が困ったように微笑んだ。

「母は私を身籠ったまま小山田様のもとへ嫁いだのです。小山田の父は母の不義理を許し、あまつさえ私を自
 身の子として育てると母に誓ったそうです。私から見ても両親は仲睦まじく、後に生まれた弟妹もみな平等に
 愛してくれました。…両親の間にあったのは愛というより同志と言った方が納まりがいいように思います」

 確かに母は夫を愛していたのだろう。けれどそれは恋情ではなく、佐助や十勇士達に抱いている情と同じも
 のだったように思う。
 幼かった自分にすらわかるほど、「父親」の話をする時の母は美しかった。
 雪が溶け桜のつぼみが膨らみだすと、切なそうに薄紅を見つめて。そっと呟かれる声は小さくて何を言ってい
 るのかわからなかった。父も佐助もそんな母に何も言わなかった。

「毎年桜の時期になると、母が樹を見ながら誰かの名を呼んでいました。佐助に一度だけ問いかけたことがあ
 るのですが、明確な答えはくれませんでした」
「…幸村は、お前の父が誰だか話したか…?」
「いいえ。ただ…私を“竜玉”と呼んだだけで」

 幸村が娘に与えたその言葉の意味がわからないほど、政宗は無知ではない。
 手から滑り落ちた杯に、阿梅が慌てるそぶりを見せた。しかし政宗にはもう割れた杯のことなどどうでもよかっ
 た。
 目の前で幸村の話をする少女が何者か、一瞬で理解した。
 少女の年齢と生まれ月を聞いた時に気付くべきだった。梅の咲くころに生まれたというのなら、計算は合う。

『政宗殿』

 幸村の声が聞こえたような気がした。
 桜の花びらがあの日のように視界を塞いでいく。
 それは愛しい女の涙も熱もすべて奪って置いてなお美しい。
 何も残っていないと思っていた。実際にこの手には何も残っていなかった。
 ―――なのに何の因果だろうか。

「…忘れられるわけ…ねぇだろ…!」

 こんなにも重要なことを隠して、そしてそのまま逝ったのか。
 別れた日の冷えた指先を思い出す。
 あの日、この少女は宿ったのだ。幸村の胎に。
 竜玉と称された娘は、紛うことなきあの日の名残り。夢が形を生したのだ。

「―――幸…!」

 傍に阿梅がいることも忘れて叫ぶように名を呼んだ。
 真実は時にひどく残酷だ。たった一度の「倖」で彼女は政宗の一部を手に入れたのだ。
 互いの手をとることが出来なかった。何も残らなかった。そのはずだった。
 けれど今、自分の目の前には確かにあの日、二人で見た夢の証が在る。

『政宗殿』

 記憶の中で彼女が微笑む。
 二度と抱きしめることの叶わないところへ行ってしまった今になって、政宗にとって残酷で幸せな事実を突き
 付ける。
 未だ胸の奥に根付いた幸村への恋情が胸を焼くようだった。
 ―――出逢わなければよかったとは、思わない。けれどこんなに想われて、証を残されて。
 愛しすぎて、苦しい。恋しくて堪らないのに、もう触れるどころか、姿を見ることすらできない。
 どんなに想っても、愛してももうあの夢は帰ってこないのに。

「大殿様…?」

 不安げな声にはっとした。
 射干玉の髪や、ちょっとしたところが確かに―――。
 揺れる茜色の眸が政宗を映す。眸の中の政宗はあの頃より確かに年月を重ねた姿をしていた。

「悪い…阿梅。取り乱しちまった」
「いいえ…」
「すまない…けど頼む。一度でいいんだ…抱き締めさせてくれねぇか」

 驚いたように瞠られた茜色が揺れたのは一瞬。
 けれどすぐに何かを悟ったかのように、そっと伸ばされた手は彼女と同じ武人の手だった。
 細い身体を抱きしめる。躊躇いがちに背に回った腕が着物を掴むのを感じて、きつく目を閉ざした。
 きっと知らせるつもりはなかったのだろう。けれど何かの時に目にする機会があればと、重長に預けたと言うと
 ころか。

「大殿様…?どうなさいました…?」

 泣いていらっしゃるの、と。幼子のような声が耳元でする。
 酒に酔ったか、桜に惑わされたか―――。政宗の隻眼からは、一筋熱いものが伝っていた。
 ぎこちなく背を撫でる手が優しくて、しばらく娘に身を預けた。







 奥州の秋は短い。
 けれど今年は夏が終わりを告げた頃に一斉に木々が色づいた。
 彼女の髪を彩った紅が主張するかのように政宗の目に入る。
 ひらりと流れてきた葉が、部屋に舞い降りた。

「…幸せだった、か」

 あれから阿梅は何も問うことはしなかった。しかしあの茜色の眸は何か悟っているのだろう。
 少女の口から語られる幸村は確かに幸せそうだった。
 時折夢に見る、あの春の夜の約束。生まれ変わって共に生きることのできる日まで、あとどれくらいかかるのだ
 ろうか。

「忘れちまえば…俺はアンタを傷つけたり泣かせたり、しねぇのかもな」

 畳に落ちている紅を拾い、指先でくるりと回す。
 それは秋の冷たさを孕んだ風に流されて、政宗の手から離れていった。
 紅の欠片はすぐに紛れてわからなくなってしまう。
 ―――いっそ忘れてしまえば、この息苦しさから解放されるのか。
 脳裏に映る紅を消し去るかのように、政宗は視界を閉ざした。













 
 
 
 
 
 
 
 


       今来むと 言ひしばかりに 長月の 有明の月を 待ちいでつるかな
                            (古今和歌集691 素性法師)

       竜玉とは、月のことだそうです。けど、ここでは竜=筆頭、玉は子どものこと。つまり竜の子ども
       →政宗の子どもだというつもりです。幸村はちゃんと娘に父親のことを話していたのです。
       夢で終わるはずだったのに、現実子供が残ったら…。結構衝撃なんじゃないかなーと。

            2010.10.18 くるくると落ちて積もるのは、君によく似た紅の葉。