誰よりも幸せに笑っていて欲しい。
 周囲を明るく照らしてくれるかのような、そんな笑みを見たあの日から、いつもそう思っていた。
 誰よりも幸せになって。苦しいことも、汚いことも全部引き受けてあげるから。だからどうか、この子だけは。

 小さく瞬く光が、彼女の道を照らしてくれるように。強く願った。










             花守









 初めて出逢ったのは、彼女がまだ幼い頃。
 大きな茜色の眸と、所々跳ねた栗色の髪。身体つきもまだ性別を感じさせないような、そんな頃。
 父親である昌信に連れられてやってきた幼子が背負っていたものはそう容易いものではなく。笑顔の裏にたく
 さんの苦しみを抱えたまま成長していく姿を、誰より近くで見てきた。
 そして、「彼女」は武将として名を馳せるようになり、一人の男と出逢う。
 ―――予感はしていた。

『あの方は、誠に強い…!』

 楽しそうに、悔しそうに。その男を語る彼女は生き生きとして。
 信玄に出逢った時とは違う、その眸の輝きにその予感はどんどん大きくなっていった。けれど同時にあり得ない
 とも思っていた。
 男は北――奥州の覇者。たかが一介の武将にそう長くかまってはいられない。だから戦場でどんなに楽しそう
 に戦っていても、二人の間に何かを感じても、それが男女の仲に当てはまるなど、想いもしなかった。








 城の中から、主の気配が消えた。

「あー…まぁた抜け出しちゃったんだね」

 困ったなぁ、と呟きながらも佐助の顔は笑っていた。何せこれが初めてではないのだ。
 それに昨晩、何やらちらちらと視線を送ってきたり、愛馬に会いたいなどとこれ見よがしに話している幸村を見
 ている。
 あれは抜け出すと言っているようなもの。きっと部屋に行けば書置きのひとつくらいこっそりと残されているのだろ
 う。それもまた、いつものことだ。
 佐助にとって幸村は大切な主であると同時に、手のかかる妹のようなものだった。

「今日はどこまで行っちゃったのかなぁ…」

 彼女の強さはよく知っているから、深く心配はしない。けれど無事に帰ってくるまでは油断も出来ない。
 そっと主の部屋を覗くと、やはり文机の上に「少し出てくる」との書置き。今日は確か珍しく朝から女物の着物
 を着ていたはずだ。―――あの姿で馬に跨ったのだろうか。
 幸村は真田家の「次男」だ。生まれ持った性別は女だが、彼女が生まれた頃、真田は少々騒動が起こって
 おり「娘」が生まれたのでは都合が悪かったらしい。そのため幼名も男のものだったし、元服もすませている。
 血の汚れが来るまでは本当に少年のようだった。けれどそれはあんまりだと、城の女性陣がよく嫌がる幸村を
 ものともせず着飾ってみたり、作法を教えてみたりしている。
 佐助は幸村の性別はどちらでもよかった。ただ幸村が「真田幸村」であれば。
 時折彼女は思い出したかのように女に戻ることがある。普段は誰よりも武士らしく、男前だ。けれど戦のない
 時、所在なさげにしている姿は「少女」でしかなかった。
 城にいれば始終誰かの目がある。女であることを厭うけれど、ただの「幸村」に戻りたい。そんなときがあること
 を知っているから、城を抜け出して息抜きすることを強く咎められないでいる。

「夕刻には探しに出るとして…団子でも用意してあげようかな」

 たまには一日十本にプラス二本くらいは許してあげようかな、などと考えながら佐助は部屋を後にした。
 その日、帰ってきた幸村の様子がいつもと違うことには気がつかなかった。








 季節は巡り、秋が来る。
 緋色の欠片がひらひらと染めていく。錦の模様を描くように、織られてゆくのは地面や川だけではなかった。

「ああもう、旦那ってばなんでこんなに着物汚しちゃうのさ!」
「う、すまない…」

 耳があったら垂れているだろう。そのくらいしょんぼりして見せた幸村は、既にいつもの袴姿だ。
 昼間身に纏っていた着物の裾は、何をしたのか砂埃でまみれている。腰のあたりも汚れていたから、恐らくは
 地面に直接座ったのだろう。

「まったくもう…。しかもこの着物、最近信幸様にもらったやつじゃない…」
「む…あ、兄上にはくれぐれも内密に…!」
「はいはい、わかってるよ」

 幸村の兄、信幸は帰ってくる度に美しい着物を持ってくる。
 それは彼が妹を溺愛しているからでもあり、武将として過ごしている彼女が「約束」を反古しないようにとの圧
 力でもあるのだ。
 こんなことをしなくても、幸村は約束を破るはない。だから今、こんなに辛そうなのに―――。
 ふと、幸村の手元に赤いものが見えた。

「…旦那?それ、どうしたの」
「え?」
「手に持ってる…楓の葉だよね?ずいぶん綺麗な紅だね」

 普通のものより少し大きめの葉は、幸村の手の中で鮮やかにその存在を主張した。

「…ああ。とても、綺麗だろう…?」

 ふ、と口元をゆるめて笑う姿に佐助は目を瞠る。
 きっと幸村は気付いていない。自分が今、どんな顔で笑っているのか。どんな声で話しているのか。

「…それ、イイ人に貰ったの?」
「―――」

 頬を上気させた姿こそが答えだ。
 視線を泳がせながらも、小さく頷いた幸村はまさしく恋する乙女。
 昨晩想いを寄せるのもおこがましいと語った人を、本当に深く慕っているらしい。
 叶わないとわかっていても、もう止められないのだろう。傷つく前に終わって欲しいけれど、情の深い幸村にそれ
 は期待出来ない。

「…よかったね、旦那。それ、せっかくだし栞にしてあげるよ」
「…ありがとう、佐助」

 きっと幸村もわかっている。月には手が届かないことなど。
 けれどせめて泣かないで欲しい。儚い恋に破れても、時代の波に圧されても、また笑って欲しかった。





 春の月は霞みかかってぼんやりしている。
 けれど今夜の月は妙に明るくて美しかった。さぞ、夜桜に映える月だろう。
 佐助は城の門に背を預け、目を伏せた。

『逢いたい』
『政宗殿に逢って…伝えたい』

 愛しい、愛しいと涙が語っていた。
 信玄が身罷り、幸村は半年後には輿入れが待っている。
 その前に、想いを告げさせてやりたかった。その想いが叶おうが叶うまいが、先行きは変わらないけれど。
 幸村の話を聞いて、想う相手を知った。驚きはしたが、すぐに納得できた。
 戦場であれだけ互いしか見えていなかったのだ。そんな二人が戦場以外で逢ったとしても、惹かれあわない筈
 がない。
 恋に臆病なのはお互い様。ましては政宗には背負うべき大きなものがある。幸村以上に、彼には自由などな
 かっただろう。

『あいつだけは愛しいって思う』

 信玄が死の際に届けさせた書状が気になり、政宗の意思を確かめるためにも昨夕奥州へ出向いた。
 彼は幸村の輿入れ話を知るなり、整った顔を歪めた。その様子に、佐助は彼もまた彼女を愛しているのだと
 気づく。
 大切すぎて触れるのが怖かったと言った。大切なものはみな手からすり抜けるのだと。
 ―――そこに想いがあるのなら、遂げさせてやりたい。
 だから伝えた。彼女がいつもの場所に行くこと。そして政宗の願いに、頷いた。
 あんな泣き顔が見たいわけじゃなかった。

「…帰ってくるときは笑ってたらいいけど…」

 それは難しいかもしれない。けれど泣いていなければそれでいい。
 今頃二人もこの月を見上げているのだろうか―――。
 もし信玄が生きていれば、幸村は政宗に嫁ぐくらいは出来たのかもしれない。けれど身分や彼女の性格上、
 嫁いだところで待っているのは苦悩だけだろう。
 きっと彼は幸村を愛し、守ろうとする。だがそれだけでは駄目なのだ。

「…出逢わなかったら…よかったとは思わないんだろうな…」

 主はそれほど弱くはない。
 柔軟で、意志の強い彼女のことだ。深く愛せる人に出逢ったことを、後悔などするわけがない。
 自分にできるのは、帰ってくる主を待つことだけだ。他に出来ることは―――ない。



 明け方、朝もやの中帰館した主の顔は涙の痕が残っていたものの、確かに幸せそうだった。
 まだ少女のようだった雰囲気は艶めくものに変わり。濃い桜の気配と、微かな愁いを纏った幸村は「女」になっ
 ていた。

「ありがとう―――佐助」

 彼女は出逢った頃の無垢な笑顔にも似た、そんな笑いを浮かべていた。








 月日はめまぐるしく過ぎていく。
 あの夜からとうに十数年も経ったのだ。

「佐助――!」

 日の下で艶やかな黒髪を揺らしながら駆けてくる少女に笑いかける。
 手には今年初めて見る薄紅の花が握られていた。
 着物で走るなど、主の幼少のころにそっくりだ。

「お姫様、走ると危ないよ」
「大丈夫よ!私、今年でもう12よ?」
「尚更走っちゃダメでしょ。もう12…子供じゃないんだから」

 大きな茜色の眸が見上げてくる。頬をふくらまして反論するところもそっくりで。思わず噴き出すとそっぽを向か
 れた。
 普通の娘よりもきっと硬いだろう白い手が差し出してくる枝を受け取る。少女はじっと桜を見つめると、ゆっくり
 顔をあげた。

「…ねぇ佐助」
「何?」
「…母様は…どうして私を産んだの?」
「……どうしたの、急に」

 憂うような眸は、不安げにこちらを見ている。
 促すように視線を合わせてやると、少女はようやく口を開いた。

「…だって母様はお慕いする方がいたんでしょう?もう逢えない人との子供なんて…辛いだけじゃないのかと思
 って」
「…阿梅姫の母上は辛そう?」
「……いいえ。私を見る時の目は、とても優しいわ」

 少女――阿梅は淡く微笑んだ。その笑い方は、「彼」に似ている。口の端をあげるような、そんな顔は。
 あの一夜が明けてしばらく、幸村の身体に異変が起きた。
 一番最初に気付いたのはやはり佐助だった。だからその理由にも、すぐに思い当たったのだ。
 初めは堕胎するようにと進言するつもりだった。他の十勇士たちも同じ意見だった。夢にするはずだった一夜が
 実を結んでしまったら、事だ。何より幸村はもうじき婚儀を控えた身―――。胎に子があるなど、到底許され
 ることではない。
 けれど子があると知った時のあの顔を見たら、佐助には何も言えなくなった。

『―――私の竜玉』

 腹を押さえて花が綻ぶように微笑む。
 慈しみと愛にあふれた笑みは、ただ宿った子どもをいとおしむもの。

 ひとつくらい、何か手に入れたっていいじゃないか―――。

 志半ばで尊敬する師を亡くし、初めて愛した人とは想い合いながらも別れて。想い、偲ぶものがあってもいい
 じゃないか。それが愛し合った結晶なら―――なおのこと。

「幸村様は小さい頃からいろんなものを亡くして、いろんなものを諦めてきた。…だからね、ひとつくらい欲張っ
 ても赦されると思ったんだ。姫を産んだのは幸村様の唯一の我儘だよ。望んで手に入った…たったひとつがあ
 なただ」

 幸いにも幸村の夫となった人物は胎の子の存在を受け入れてくれた。
 今の時世、子どもは宝だと笑って。だから幸村は今もこうして穏やかに過ごしている。

「母様のお慕いする方は…桜の人は、誰?」

 無垢な眸が問いかける。けれど告げるべき答えは、自分が言うことではない。

「…阿梅様は真田幸村の子で、あの人の大事な竜玉。…姫様の母上は月に住む竜に恋をしたんだ」
「え?」
「…いつか、知る日が来るかもしれないね」

 血は争えない。両親によく似て聡明な子どもは、自身に流れる血が誰のものか悟る日が来てしまいそうな気
 がする。それもまた縁だ。
 ただ、この子が幸せであって欲しいと願うのは、佐助も同じだった。


 数年後、幸村は秘密裏に文を書いた。
 佐助に届けさせたその文の行先は―――伊達政宗の腹心、片倉重長のもとへ。
 そして阿梅は幸村の死後、彼のもとへと身を寄せることとなる。





「…ここまで、かな」

 血を流しすぎて、今にも黒く染まりそうな視界が鬱陶しい。
 幸村は―――阿梅を重長のもとへと無事連れて行けたのだろうか?
 大切な大切なお姫様。
 彼女を主と決めた日から、ずっと傍にいた。
 絶対に彼女より先に逝きたい。そうして次の世でもまたあの子の傍であの子が幸せになるところが見たい。
 生まれ変わっても、彼女が「あの人」に逢うまで―――守って見せるから。

 だから、どうか。










 目を開けると、間近に大きな夕日の色。思わず瞠目する。
 いつの間にか眠っていたらしい自分の真上から覗きこんでいるのは幼馴染だ。
 彼女も驚いたのか、数度瞬きをした後にこりと笑う。

「佐助?もうすぐご飯だけど…」
「…もう、ビックリしたじゃない…」
「あ、すまない。ぐっすり寝ているからどうしたものかと思って」

 疲れてるんだな、と頭を撫でてくる仕草に苦笑した。
 7つほど年の離れた幼馴染は、もう15歳になったと言うのにひどく幼い。“あの頃”と何も変わらない容貌で笑
 っている。

「今日はな、受験が終わったからおばさんがケーキを買って来てくれたんだ」
「へぇ、よかったね。…相変わらず甘いもの大好きなんだから」

 何も変わらない。変わったのは時代と場所だけだ。
 自分たちを取り巻く人も、関係も、何も変わらない。
 佐助は普通の家庭に生まれた。小学生になったころに空き家だった隣家に若い夫婦が引っ越してきた。しば
 らくしてその家には家族が増えた。
 栗色の、まだ生えそろっていない髪をした赤ん坊。初めてその眸を見た瞬間に、何もかもを思い出した。

『佐助』

 どこか遠くで自分を呼ぶ声がする。

『…おかえり、“旦那”』

 そして「ただいま」。
 小さな赤ん坊を前に泣きだした佐助を見た大人たちは驚いていたが、そんなことはどうでもよかった。
 また廻りあえた。それだけで十分だ。
 そうして幼馴染と言う関係になって15年。少女は今年の春、高校へ入学する。

「入学式、楽しみだねぇ…。俺は一緒に行けないけど、その日はあんまり忙しくないから帰ってくるの待ってるよ」
「ああ。……やっと、あの人に逢える…」
「うん…覚えてると、いいね…」

 茜色の眸を期待と不安で揺らす少女の背中を軽く叩いてやる。
 ―――彼女は生まれた時から自分を知っていた。それはすなわち、記憶があると言うことだ。
 そしてずっと探していた。前世で別れた「あの人」を。
 見つけ出したのは偶然だった。佐助の通う大学の付属高校に彼によく似た人物がいて、見に行ったのだ。そし
 て今、惹き合わせようとしている。

「約束が…叶うだろうか…」

 期待と不安に茜色の眸を揺らす少女に、佐助は笑いかけた。

「大丈夫だよ。…例え何があっても、俺は姫の味方でいるから」
「…ありがとう、佐助」

 それは心からの言葉だった。
 今度こそ、幸せになって欲しい。
 もう身分も何も関係のないこの時代で、好きな人と結ばれて欲しい。



 桜の綻ぶ、季節の前触れのことだった。









 
 
 
 
 
 
 
 


         あまり補足になっていませんが、「こいしずく」の佐助の視点です。
         佐助にとっての一番はとにかく「幸村」であって、誰よりも近いからこそ見えてくるものもある
         のではないか思って書いてみました。
         彼のイメージは兄であり、母親。もしかしたら本当は政宗にだって渡したくなかったのかも。
         この話は、これから書く予定の「こいめぐり」へと続きます。よろしければそちらもお付き合い
         頂けると幸いです。

               2010.10.28 どうかどうか、君が笑っていますように。