剣を構えて、対峙する。
 この瞬間が、何よりも好きだった。彼の隻眼が自分だけに向く、この瞬間。
 愛しいはずなのに同じくらいその首が欲しくて堪らなかった。
 きっとその想いは彼も同じだった。愛しているのと同じくらい、相手を討ち取りたかった。

 それでよかった。だってその苛烈な想いは、互いだけに抱くものだから。










     こいめぐり   ― 花氷 ―










 静まり返った道場は、独特の汗臭さがある。
 力を入れているとだけあって、この学園の道場は広い。そして幸姫が足を踏み入れたこの場所こそ、実力も
 由緒もある剣道部の道場だった。
 今日は休みなわけではない。中は静まり返って入るものの、身を切るような気で満ちている。
 竹刀を構えているのは学園きっての猛者である、剣道部部長。対峙するは―――。

「It is early for 100 years to beat me. you see?」
「く…」

 人を馬鹿にしたような話し方も、幸姫の苦手な英語を使うところも、あの頃のまま。
 面をつけて顔が隠されていても、その立ち姿ですぐに知れた。
 ―――ああ、竜がそこにいる。
 つまらなそうに試合を終えてしまった彼は、面を取るとすぐに部室へと行ってしまった。
 試合は当然、彼の勝利。部長は彼の威圧的な気に圧されてしまい、手も足も出なかったようだ。隻眼だろう
 が、彼の強さの前ではそんなハンデは関係ない。
 着替え終えた彼はつまらなそうな顔で口を開いた。

「俺に勝てるような骨のあるやつがいたら、もっとここにも顔出してやるよ」

 まぁ、そんな奴そうそういねぇだろうがな。
 鼻で嘲笑うかのようにそう言い捨てると、彼は出て行ってしまった。
 幸姫はその背を見送って嘆息する。
 自信家なところも、少々自惚れのあるところも―――自嘲的なところも、変わっていない。
 あの剣の腕も、健在のようだ。見ているだけで、自分の血が騒ぐくらいに。

 三年生にとっては高校最後の大会である、高校総体。学園の剣道部はもちろんインターハイに毎年出場し
 ている強豪だ。
 しかし今年はどうやら雲行きが怪しいらしい。何でも戦力の要であった三年生が一人、練習中に怪我をして
 しまい、試合に臨めなくなってしまったというのだ。そこで白羽の矢が立ったのが、彼――政宗だった。
 聞くところによると、幼い頃から武術をたしなんでおり、特に剣術は全国レベルだとか。生徒は部活動に必ず
 参加することが学園の規則のため、席だけは剣道部にあるが、練習や試合に出るとこはほぼないに等しい。

「出てもらわなければ、今年の団体戦の全国制覇は臨めないかもしれないな…」
「そんな…」
「伊達が出てくれさえすれば…」

 先輩たちが困りきった顔で話している。
 女子部ではなく、男子部のマネージャーとして剣道部に入った幸姫は肩を落とした彼らにかける言葉が見つ
 からない。もし自分が男なら、喜んで代わりに出ただろうが―――。
 幸姫とて、幼い頃から昔の名残か剣道と槍術を嗜んでいる。そこいらの男には負けない自信があるし、正直
 なところ、先輩たちより腕は立つだろう。政宗と戦ったらいい試合になるかもしれない。
 そこまで考えて、幸姫はそっと道場を抜け出した。






 まだ近くに居てくれることを願い、幸姫は周囲を見渡す。
 校門の近くまできょろきょろしながら向かっていると、白いシャツの背中を見つけた。

「伊達先輩!」

 大きな声で呼ぶと、面倒くさそうに首だけが振り返る。
 幸姫の姿を目に留めた政宗は、駆け寄ると露骨に眉をひそめた。

「…アンタ、さっき道場に居たよな」
「はい。マネージャーをしておりますゆえ」

 体操着姿の幸姫が頷くと、納得したかのようにため息をついた。
 ゆっくりと向き直り、ズボンのポケットから出した右手を額に当てる。片方だけの藍色をじっと見つめると、彼は
 仕方なさそうに口を開いた。

「で、俺に何の用だ?先に言っておくがどんなに頼まれても試合には出ないからな」
「…ですが先程おっしゃったこと、お忘れではありますまい」
「…あ?」

 何のことだ、とでも言うように細められた眸に笑って見せる。
「彼」と同じ魂を持つのなら、きっと乗ってくれるはずだ。
 幸姫は真っ直ぐに彼を見つめて仁王立ちした。

「先程、先輩は自分より骨のあるやつがいたらもっと道場に来てくださるとおっしゃった。だから―――私と勝負
 してください」
「…What is it?」

 訝しげにこちらを見る藍色に不敵に微笑む。

「私も剣の道を通ってきた者。ろくに鍛錬もこなさぬ様な輩に負ける気は致しません」
「んだと…?」
「私がお相手しましょう。…あなたが私より格段に強いとおっしゃるのなら、部活にいらっしゃらずともかまいませ
 ん。あなたが勝てばの話ですが」
「女の身で俺に勝とうなんざ―――」
「やってみなければわかりませぬぞ」

 さあ、賽は投げられた。
 笑みを崩さない幸姫に、政宗もにやりと笑う。その好戦的な笑みには見覚えがあった。

「Ha!そこまで言うんなら俺に勝ってみやがれ!」
「―――望むところ!!」

 二人はそのまま睨みあい、次いで道場へと歩き出した。






 再び静まり返った道場には、固唾をのんで見守る剣道部の面々。
 そして真ん中で向かい合う二人の姿があった。
 緊張感とぴりぴりとした殺気が道場を支配している。威嚇の声すらなく、正眼の構えのまま動かない。
 試合の形を明確にとっているわけではないため、審判もいなければ防具も付けているのは小手と胴、垂。面
 はない。手に持っているものも竹刀ではなく木刀だ。
 ―――動いたのは、ほぼ同時だった。
 木刀のぶつかり合う鈍い音が響く。鍔迫り合いをする二人の表情は、楽しげで。叫ぶような声と仕合ながら
 笑う様はどこか異様で。
 決着はそう後のことではなかった。幸姫がほんの少し木刀を構えなおそうと視線を逸らした隙を突く形で、政
 宗が一本取ったのだ。
 ぴたりと喉に突き付けられた木刀に、幸姫が息を吐く。

「…参りました」

 ゆるりと構えを解く姿に悔しさはない。
 しかし政宗は眉をひそめて舌打ちをした。

「…アンタ、本当の得物はなんだ?剣道もしているみてぇだが、違う」
「…ええ。本来は槍術を嗜んでおります。得手は二槍です」
「やっぱりそうか。…どっかやりにくそうだと思ったぜ」

 肩をすくめた政宗に、幸姫が困ったように微笑む。決して剣の腕が立たないわけではない。けれどやはり魂が
 覚えているのか、槍の方が手によく馴染んだ。

「結局私が負けてしまいましたね」

 やはり彼は強い。
 ため息をつきながら言うと、政宗が近づいてきた。つい、と顎を取られ上向くと、綺麗な貌が目前に迫ってい
 る。
 思わず眸を瞬かせると、彼は口角を引きあげて笑った。

「It is an interesting guy.」
「…え?」
「気に入ったぜ。…アンタ、一年だよな?前に元親といた…」
「はい。…真田幸姫です」

 藍色の眸と茜色の眸が混じり合う。
 懐かしい色だ。この眸を近くで見つめることが好きだった。こうしてまた、それが叶うとは思わなかったから胸が苦
 しい。彼もそう感じてくれればいのに―――。
 数秒だったのか、もっと長かったのか。政宗は幸姫から手を放すと部長の方を向いた。

「…試合、出てやるよ」
「え…」
「ただし練習にはあんま来れねぇ。…俺も色々やることあるしな」
「あ、ああ!試合に出てくれるだけでも充分だ!」
「練習来た時にはアイツ、借りるぜ。…マネージャーにしておくのはもったいねぇ腕してやがる」

 ちらりと流し見られた幸姫が首を傾げると、部長も納得したかのように苦笑した。

「彼女は武田道場で何度か見かけたことがあるんだ。…確かお館様の直弟子だよ」
「へぇ…?あの武田信玄の…」

 それなら腕が立つわけだ。武田道場は学園から少し離れた山にほど近い場所にある、代々続く武道場であ
 る。師範の武田信玄は名の知れた武道家だ。武を極めたいものはそこに通うものが多い。そんな場所で稽
 古をしてきたとなれば、強いのも頷ける。
 政宗がますます楽しげに笑いながら木刀を手に取った。

「とりあえず―――I will play a game once again.」
「…次は負けませぬ」

 好戦的に微笑みあう二人を、誰も止めはしなかった。










 季節がめぐるのは早い。
 蝉がけたたましく鳴きはじめたのをきっかけに、一気に空は夏模様に変わってしまった。
 陽射しが眩しい。

「…It is hot…」

 だるそうに中庭の木陰に懐く政宗に、目を瞬かせた。
 外に居るだけでじわりと出てくる汗は多少不快だ。けれど眩しい季節は嫌いではない。

「夏だなぁ!」
「…嬉しそうですね、元親先輩」
「おう!夏といえば海だろ?俺様の領域だぜ!!」
「うぜぇ」

 暑さに既に負けそうな政宗とは真逆に、元親は楽しげだ。
 その元気の良さに、幸姫は思わず苦笑する。
 夏はどちらかといえば好きだ。全てが生きているとでも言うように輝いているから。
 制服も既に夏服に変わっている。今まで来ていた冬服と違い、白いシャツに常盤色のスカートはあまり自分
 には似合わないけれど。
 幼馴染はそんなことはない、と言うけれどどうにも苦手意識はぬぐえなかった。動きやすいのはいいが、短いゆ
 えに捲れるのが難点だと思う。スカートの端をもってため息をつくと、政宗と何やら言いあっていた元親が幸姫
 の方を向いた。

「なぁ、お前もそう思うだろ!?」
「はい?申し訳ない、聞いておらず…」
「だーかーらー!季節の中では夏が一番だって話だよ!」

 どうやら元親はうんざりしている政宗に夏の良さを語っていたらしい。幸姫は苦笑しながら口を開いた。

「私も夏は好きですよ」
「だろ!」
「ですが…一番好きな季節は春なのです。…桜の花に、思い入れがあるから」

 最後の逢瀬を過ごしたあの季節が、幸姫にとっては特別だ。春になる度、桜を見る度彼を探した。
 大切な思い出を語るかのような幸姫の目に、事情を知る元親が口を閉ざす。ちらりとうかがった藍色には何
 の変化もない。

「…桜が好きなのか?」

 小さな声で問うてきた政宗に、幸姫は微笑み返す。

「ええ。桜には何かと縁があるんです。…大切な、思い出も」
「へぇ?俺もまぁ嫌いじゃないが…。俺はどれかって言えば秋が好きだな」
「秋ですか?…どうして」

 幸姫が理由を聞こうとした時、その声にかぶさるように昼休み終了の合図が聞こえる。
 次の時間、教材の準備を任されているのだという元親は、二人を置いて先に戻ってしまった。
 まだ話していたかったのに、と思いながらも立ち上がる。スカートを軽く払ってはりついた芝を落としていると、同
 じように立ち上がった政宗がじっとこちらを見ていた。
 首を傾げると、藍色の眸がそっと細まる。

「アンタ、赤が似合うな」
「…え?」
「夏服も似合わないわけじゃないが…なんかアンタは“赤”のイメージがついちまった。―――アンタには紅がよ
 く似合う」
「…っ」

 それは、前世(むかし)にも聞いたセリフ。
 何も覚えていない筈なのに、目を細めて笑う仕草も言葉の調子も、すべて同じ。
 やはり彼は彼で、何も変わらないのだ。幸姫が好きになった、彼のまま―――。
 思わず言葉に詰まると、政宗は口の端を引きあげて笑った。

「俺が秋が好きな理由はな、アンタの桜と同じだ。…紅葉が頭から離れねぇ」

 夢に出る。とそう小さく囁いた政宗は足早に校舎へと行ってしまった。
 残された幸姫はその背を茫然と見送る。

「…夢」

 それは元親が言っていたあの夢だろうか。その中で、共に過ごした日々を夢にみているのだろうか。
 忘れてしまうことで、彼が幸せになるのならそれでいいと思っているのに。

「某は誠に…欲深い」

 唇の端から零れ落ちそうになった嗚咽を飲み下す。
 耐えきれず自嘲気味に笑って一筋だけこぼした涙は、汗と混じって地面へと消えた。










「花火大会?」
『そうだ。…あの馬鹿ものがそなたも誘って行かないかと…』

 高校生の夏休みは思った以上に忙しかった。課外の多さにも辟易したが、部活の忙しさにも目が回るほど。
 幸姫の所属する剣道部は八月の半ばにインターハイが終わり、政宗が優勝という形で幕を閉じた。
 出場を嫌がっていた政宗は、だからと言って負けるのは納得いかないと幸姫と共に他のメンバーを鍛え、自分
 も団体戦と個人戦にちゃっかり出場した。
 そうして三年生は引退し、すぐに引き継ぎやらが行われ道場で政宗と逢うこともなくなって数日。あっという間
 に八月も残すところあと十日ほどになっていた。
 まだまだ日中は暑い。けれど夕方にはほんのりと暑さは和らぐ。そんな日のことだった。
 夏休みの間は幸姫が部活で忙しく、元就や友人と遊ぶ暇はあまりなかった。だから珍しく元就からかかってき
 た電話は素直に嬉しい。
 電話口でも幼馴染に対する不遜な態度は変わらないようだ。悪態をつきながらも共にいるのだから、もう少し
 素直になればいいのにとも思う。元就からの電話は明日、学校の近くで行われる夏祭りに行かないかというも
 のだった。

「そう言えば、今年は祭りなど行ってないような…」

 なにぶん忙しかったのだ。課題もまだ多少残っている。
 けれど花火には心惹かれるし、友人が一緒なら両親も何も言わないだろう。

「行くのは元就と元親殿?」
『ああ。…もしかしたら伊達も誘っているかもしれぬ』
「…政宗殿も」
『仮にも受験生だ。あまり期待は出来ぬが…』
「……元親殿は大丈夫なのか?」

 この時期は大学を受験する三年生にとっては遊んでいる暇などないのでは。そういう意味を込めて問うたのだ
 が、元就は知らない、と一言で切り捨ててしまった。
 なんにせよ、明日は祭りに行く。幸姫はいつものように幼馴染の家へ向かった。








 太鼓の音がする。時折混じる笛の音も、夜の神社に響き渡った。
 人込みでなかなか思うように進めない。はぐれてしまいそうで、幸姫は必死に足を動かした。
 いくら勧められたからと言って、浴衣を着てきたのは間違いだったかもしれない。
 祭りに行く、と元就からの電話の後すぐ幼馴染に話した。「浴衣を着ていきなよ」と彼が出してきたのは、艶紅
 色の綺麗な浴衣。何でも和裁にハマっているらしい彼の母親が用意してくれていたらしい。今年は着れない
 かもしれないと話していたところだったそうで、今日の昼過ぎから帯の色や下駄、簪などを用意して待ち構えら
 れていたのだ。
 せっかくの好意だと着てきたものの動きにくい。昔と違って、日常的に下駄をはくわけでもないから、鼻緒がす
 れてほんの少し足が痛む。けれど立ち止まるわけにもいがず、四苦八苦していた時だった。

「―――オイ」

 頭上からかけられた低い声に、はっとする。
 提灯のぼんやりとした灯りの中でも、見間違えることのないその容貌。眉を寄せた顔にびくりと肩を揺らすと、
 ため息と共に手を差し出された。

「…あの…?」
「いいからほら、つないどけ。…せっかく綺麗なカッコしてきたのに人込みに揉まれちゃたまんねーだろ」
「大丈夫で―――」
「Do not tell a lie. 意地っ張りだな、アンタ。…人の行為には甘えとけ。You see?」
「は、はい…。では、すみません…」

 大きな手に、自分のそれを重ねる。節くれだっている長い指が幸姫の手をしっかり掴んで引き寄せた。
 目を瞬かせると、政宗が面白そうに覗きこんでくる。

「やっぱり浴衣も紅なんだな。―――よく似合ってる」

 言われた途端、顔が熱くなった。つないだ手と、その言葉に心が大きく音を立てる。
 思わず俯くと、楽しそうに笑う声が聞こえた。

「…からかわないでください。…伊達先輩の周りにいる女子のように、慣れているわけではないんですから」
「An?心外だな。俺は本気だぜ?」

 くつくつと笑いながら言われても、説得力はない。
 思わずむくれると、政宗はつないだ手をそのままに歩きだした。
 相変わらず、女性の扱いの上手い人だと思う。今も校内に限らず浮名を流しているのだ。幸姫はそっと政宗
 の背中を見上げる。いつだって自分の前を歩いていた人だ。強い憧れを抱いた。そしていつの間にか恋に落
 ちた。決して結ばれないとわかっていながら―――。
 小さく吐き出したため息は、喧噪にかき消えた。





 後ろをちょこちょことついてくる後輩の足取りがたまに乱れることに気付いたのは、歩き出してすぐだった。
 艶紅色の浴衣を着て現れた幸姫は、制服とは違い新鮮で。妙に落ち着かない気分にさせられた。
 今まで何人もの女の浴衣姿なんて見てきたのに、どうして彼女にだけ、こんなにも目が吸い寄せられるのだろ
 うか。
 思えば二度目に会った時もそうだった。こちらを挑発してきて道場で対峙した時、言いようのない高揚を感じ
 た。全身に紅い焔を纏ったような、そんな女。
 幸姫に会ってからは女たちと遊ぶ回数が減った。彼女は放課後になると部活へ行くぞと探しにくる。昼休みも
 元親の幼馴染と共に訪ねて来ては物怖じせずに声をかけてきた。ただ欲求を満たすためだけにつきあってきた
 女たちとは全く毛色の違う少女は、時折ひどく愁いを帯びたような顔をする。
 いつも笑っているくせに、不意に見せる表情が目を奪う。いつの間にか彼女を見ている自分がいた。
 遊ぶより部活に出る時間が増え、学校に来るのが苦痛ではなくなった。煩いだけだと思っていたクラスメイトや
 教師も、最近では鬱陶しくなくなってきた。
 全て幸姫に逢ったからだ。そう思うと妙に面映ゆいような気分になる。それと同時に、胸に迫るのは確かな
 熱。今まで誰にも抱いたことのない感情は政宗を混乱させた。

「いたっ…!」

 小さな悲鳴と、軽い振動が背中を襲う。
 首だけで振り向くと、栗色の頭が政宗の肩下にぶつかっていた。どうやら人にぶつかられ、よろめいたらしい。
 ふと下を向いた時に、浴衣のすそから出ている足を引きずっていることに気付いた。

「…真田?」
「あ、すみませぬ…」

 慌てて離れようとする細い身体を軽く支えてやると、顔が上がる。
 茜色の深い眸の中に自分が映っていた。つないだままの手に、じわりと熱がこもる。
 目が、離せない。離したら、行ってしまう。もう二度と逢えなくなる―――。目の前に、急にあの桜吹雪が見
 えた気がした。夢の中の女の顔が一瞬クリアになった気がして、無意識に手に力がこもる。

「…ま…伊達先輩…?」

 戸惑いを含んだ声に、夢の女は消え去った。
 目の前にいるのは後輩の少女で、ここは学校近くの神社だ。深い溜息を吐きながら開いた手で顔を押さえ
 る。

「あの…」
「ああ、悪い…。何でもねぇ。それよりアンタ、大丈夫か?」
「へ?」
「さっきから足、引きずってんだろ」

 確信をもって問うと、明らかにしまった、と言う顔をする。素直な表情に吹きだすと、拗ねたように顔を背けられ
 た。

「こっち来いよ。流石に絆創膏は持ってねぇがハンカチくらいならあるからよ」
「え、いえ、そんな」
「だから人の行為には甘えろって。さっきも言っただろ」

 ほら、と手を引くと渋々ついてきた。人込みを抜け、近くの石段に座らせる。
 鼻緒ですれたのか、赤くなった足は皮がめくれて痛々しい。これでよく今まで我慢して歩いていたものだと思
 う。
 神社の手洗い水で濡らしたハンカチを当ててやると、小さな呻きと共に細い足がはねた。武道をしている者特
 有の硬くなった足の裏に手を添え、沁みるとわかっていながらも患部に巻いてやる。

「ハンカチ…」
「An?」
「汚れてしまいますよ」
「別に気にしねぇよ。アンタの足の方が大事だろ」

 靴を履いているからか日に焼けていない足は白く、夜の闇に浮かび上がったかのよう。結んでやった青いハンカ
 チがちょうど足にとまった蝶に見えて、倒錯的だった。

「私のせいで、元親先輩たちとはぐれてしまいましたね」
「そんなん、あとで電話でもしとけばいいだろ。それにどっちかってぇとこの方がよかったかもな」
「…え?」

 見上げてくる茜色に口の端をあげる。

「あいつらだって案外二人きりってのも悪くねェかもしれないだろ」
「…そうかも、しれませんね」

 小さく笑った幸姫はそのまま夜空を見上げた。
 そろそろ花火の上がる時間だ。今から移動するにも、あの足では辛いだろう。ここはちらほらとしか人気はない
 し、空を遮るものも特にない。花火を見るには案外適した場所かもしれない。
 政宗がそう思っていると、幸姫が小さな歓声をあげた。

「あ!あがりますよ!」

 夜空で開く前の微かな音。ひゅるひゅるとあがっていく細い光。次いで大輪の花が咲き誇った。

「伊達先輩!ほら!」
「見えてるって。ほら急ん立ち上がんな、転ぶぞ」
「大丈夫です!」

 幼子のように歓声をあげる幸姫に半分呆れながらも、政宗も空を仰ぐ。
 次々と上がる花は夏の風物詩にふさわしく美しい。ふと隣が静かになった気がして視線をやると、幸姫が目を
 細めて花火を見ていた。
 ―――またあの顔だ。時折見せる切なそうな顔。何かを思い出すかのような、泣きだす手前のような。

「…真田」

 呼んだ声は花火に消されてしまい、幸姫まで届かない。

「―――ゆき」

 はっとしたように向けられた茜色は驚愕を浮かべている。
 けれどすぐに切なげに、寂しげに。けれど幸せそうに、笑った。

「はい。なんでしょう…政宗先輩」
「…悪い、呼びたくなったんだ」
「…そうですか…」

 もう一度微笑むと、幸姫は再び空に目を向ける。
 その横顔を見つめながら、今度は声に出さずに呟いた。

『幸姫』

 妙に舌に馴染むその名前。
 先程の笑みの意味が知りたい。幸姫が切なげな笑みを浮かべる時は、決まって自分がその視界にいる。
 初めは気のせいだと思っていたが、確信した。


 花火が終わるまで、政宗は幸姫を見つめていた。











 
 
 
 
 
 
 
 


          花氷(はなごおり) … 中に花を封じ込めて作った氷のこと

        2話目はやっと二人が絡みました。やっぱり剣道かなぁ、と思って部活も絡めてみたり。
        ひとつの話にひとつの季節を絡めるつもりなので、時間の経過が早いです。時系列が
        わかりにくかったらすみません。「こいしずく」の話が前提なのでそちらを読まないと「?」
        な部分があるかもしれませんね。…そちらを読んでくださると嬉しいです。
        次は秋。やっと彼を出せる…はず!

          2011.03.06  想いを閉じ込めて、ただ見つめている