傍にいることが出来れば、それでいいと思っていた。それ以上を望むことは出来ないと。
 誰かを想うのは苦しくて切なくなる。けれど笑った顔だとか、触れられたときのぬくもりだとか。手放せないものがある
 から、人は想い続ける。

 そして募ったそれは時に―――忘れたくなるほど。










     こいめぐり   ― 花影 ―










 校庭の木々が寂しくなってきた。紅葉はもう地に落ちて土へと還るのだろう。
 これから冬に向かうこの時期は、あんなにも鮮やかだった葉もすべて土に還してしまう。
 渡り廊下の片隅で地面に落ちている紅を見つめる。なんとなく物悲しい気分になるのは、きっと長く彼に逢えてい
 ないからだ。姿をたまに見かけることはある。けれど話すことはない。
 あの秋の日以来、視線が合うことも―――ない。
 ため息を吐き出しそうになるのを堪える。何も言わず逃げたのは自分だ。彼が何を思ったかは計り知れないが、良
 い印象を持たなかっただろうことは確かだ。
 紅葉を髪に挿してくれた時、あの日の彼と重なって見えた。だから思い出したのかと思ったのだ。けれど彼の眸には
 その様子はなく、自分の強欲さに呆れた。
 思い出さなくていいと言いながら、誰より思い出してほしいのだ。政宗に相対するたび、心の底で哀しみが沈殿し
 ていく。
 言ってしまいそうになる。―――どうして忘れてしまったの、と。

「幸姫」

 呼ばれて視線を向けると、眉を寄せた元就がドアを開けた状態で待っていた。
 そう言えば移動の途中だったと、止まっていた足を慌てて動かす。

「すみませぬ…」
「いや、問題ない。…大丈夫か」

 声に心配そうな色が混じっていた。
 気を使わせてしまって、申し訳ないと思う。けれど同じくらい嬉しくもあった。
 元就は幸姫が何を嘆いているか知っている。そのせいか、彼に対してひどく敵愾心を持っているようだ。

「もう、諦めるということは出来ぬのか」

 ぽつりと呟かれたそれに、軽く目を瞠る。
 元就の切れ長の眸が幸姫をじっと見つめていた。
 彼女の言いたいこともわからなくはない。いつ思い出すか―――もう思い出さずに散るか。それは誰にもわからな
 いのだ。いつまでも政宗を想い続ける自信はあるが、想いが返ってくる確証はない。
 幸姫はそっと息を吐く。白いものが混じってきた。これから冬に向かう証拠だ。

「諦めることが出来たら…きっとこんなに苦しくはないのでしょうね」
「ならば…」
「けれど、出来ぬのです」

 元就の言葉を遮るようにして幸姫が言った。
 振り向いたその顔はひどく儚い。茜色の眸が諦めたように、けれど幸せそうに細められた。

「私のすべてが…魂があの人を求めているから。あの方以外には誰もこの胸の内に住まわせることは出来ません」

 口元は小さく笑みを浮かべてすらいる。そっと自身の胸を押さえた幸姫は元就を見て困ったように首を傾げた。元
 就の唐茶色の眸には悲哀が色濃く映し出されている。

「……そなたは馬鹿だ…」
「そうかも、しれませんね」
「馬鹿もの…」

 少し小さな手が伸ばされ、冷たくなった幸姫の手を掴む。
 ほんのりとあたたかなそれに涙が出そうになった。
 始業のチャイムが鳴っても、二人はそこに立ちすくんだままだった。












「政宗」

 呼び声に視線だけを投げやると、空色の隻眼が細められた。
 授業中のはずなのに、なぜここにいるのだろうか。そう思う政宗も移動教室なのをいいことに、教室でサボっている
 のだが。
 ドアに寄りかかるようにして立っている悪友は不機嫌そのものだ。それでも本を閉じることもなく、ため息をつく。
 元親は自分たち以外に誰もいないことを確認すると、政宗の前の席に腰を下ろした。

「お前、何やってんだ?学校に来てんのはいいけどよ…」
「オベンキョウしてるに決まってんだろ。単位やべぇんだよ」
「今更だろ?俺がききたいのは―――お前が今手にしてるやつのことだ」

 その言葉に、政宗は小さく肩を揺らした。元親が指差した先には、先程まで政宗が見ていた本がある。
 自分たちの通う学園のパンフレットだ。高校と大学はエスカレーター式で、試験に通りさえすれば大学部に進むこ
 とが出来る。いつでも見学に行ける上に、学部やコースも大体知っているのが普通だ。わざわざパンフレットを
 チェックする必要はないはず。
 空色の訝しげな視線に、政宗は舌打ちをして目を逸らした。

「大学には進む。けど、多分すぐアメリカ行くぜ」
「は?」
「ウチの大学、交換留学制度あんだろ。それ使ってあっちに行く。…夏にはもうあっちだ」
「わざわざ大学の枠使わなくても、お前自分で行けるだろ」
「親父のいいようにはさせたくねぇし…家の金使う気もねぇ」

 噛みしめるかのような声は、低い。
 政宗が家族と上手くいっていないことは、前々から何かと噂になっていた。知り合った頃にはすでに一人暮らしをし
 ていたのだ。面談や行事に親が来るということはなく、代わりに後見人だという強面の男が来ているのを見ている。
 前の世でも彼の忠臣だった男が今も傍にいることにはなんとなく安堵を覚えた。
 右目は事故だと聞いているが、どのような事故だったのかは知らない。ただ、母親が絡んでいるという噂だ。
 元親は机に肘をつくと、政宗をじっと見つめた。

「なぁ…それ、留学のこと…。幸姫は知ってんのか?」
「……なんであいつに言う必要があんだよ」

 苦いものを噛んだとでも言うような政宗に、やっぱりな、と思う。
 傍から見れば政宗の気持ちは丸わかりだ。自覚もしているだろう。この男が躊躇うなど、珍しい。
 それだけ想いが深いのか、怖気づいているのか元親にはわかりそうもなかった。
 ただ、哀しい想いを抱えて欲しくはない。友人として、そう思う。

「なぁ、政宗」
「…なんだ」
「幸姫に逢ってから、お前変わったぜ。いつもつまんねぇって顔してたくせに、あいつと逢ってからは楽しそうにして
 た。…だからお前はあいつと離れるべきじゃないと思う」

 もっと欲しがればいい。欲しいものは欲しいと強請ればいい。自分ならそうする。
 そういう意味を含めた言葉に返ってきたのは、逸らされた藍色の眸だった。

「―――手にはいらねぇモノを欲しがるのは、嫌なんだよ」
「政宗」
「わざわざフラれに行くなんてCoolじゃねぇこと…してたまるか」

 舌うち交じりに滑り出た言葉は、彼の恐れだ。
 幸姫の出す答えがもうわかっているとでも言うように語る政宗に元親は眉をひそめる。

「お前、本当にそれでいいのか?…逃げるのかよ」
「逃げてるわけじゃねぇ。ただ…あいつに泣かれたくないだけだ」

 政宗は自嘲の笑みを浮かべると、席を立った。
 机に広げていたものを手早く片付けると、鞄を手にドアへ向かう。帰るつもりらしい。
 軽くあげられた手に、彼がもうこれ以上話す気がないのだと知った。
 元親はその背を見つめながらため息を吐く。

「―――後悔するようなこと、するなよ」

 その小さな呟きが、静まり返った廊下にやけに響いた。
 政宗が顔だけ振り向き、元親を見やる。

「幸姫とのことは、俺が口出しするようなことじゃねぇけど…俺はお前に後悔して欲しくねぇぞ」
「…意味わかんねーこと言ってんじゃねぇよ」

 真剣な空色の眸に気圧された藍色は、険を含んだ視線で睨み返す。
 睨みあいは長くは続かず、政宗は踵を返した。
 元親の言葉が、やけに耳に残る。それがどんな想いで語られたのかは、知らぬままに。










 いつの間にか雪が降り、一晩で外が銀世界に変わってしまった。
 そんな冬の最中、幸姫はあの図書館へと向かっていた。
 吐く息が白く流れる。赤いマフラーに鼻先まで埋めるようにして歩く。ブーツの先が雪で湿り、足先をひどく冷たくし
 ていた。
 幸姫の携帯電話に連絡があったのは二時間ほど前だ。
 知らない番号だった。けれど予感がした。

『三時にあの図書館の前で。―――話がある』

 たったそれだけを告げて切れた電話。
 けれど充分だった。あの人の声を間違えはしない。
 いつの間に携帯電話の電話番号を変えていたのか、教えてもらえなかったことに少なからずショックを受けたが、呼
 び出されたことに不満はない。それどころか久しぶりに逢えることが嬉しかった。
 あの秋の日のことを謝りたかったのに、それすら出来ないままだったから。
 訝しげな佐助の視線を背に、幸姫は携帯電話を握り締めて家を出た。雪に足を取られて歩きにくい。けれど足
 を止めたら、もう進めないような気がした。

「…あ…」

 時間よりずいぶん早いのに、黒いコートに身を包む人影が見えた。もう葉のない楓の樹の近くに、久方ぶりに見る
 彼が立っている。
 はらはらと舞う雪が別れた春を思い出す。どんよりした空を仰ぐ姿は、そこだけ時が止まって―――周囲から切り
 取られたようだった。
 さく、と雪を踏みしめる音が響いた瞬間に、彼はこちらを見る。

「…幸姫」

 藍色の隻眼を細めた顔は、どこか穏やかだった。

「政宗、先輩…」
「悪いな、急に呼び出して」
「いえ…お久しぶりです…」

 一定の距離を保って立ち止まる。これ以上傍に行くと、なぜかいけない気がした。
 口を開かないまま、こちらを見つめてくる藍色に耐えきれなくなり、幸姫は視線を彷徨わせる。

「携帯電話の番号、変えたんですね」
「Yes. 今の番号知ってんのは元親と小十郎…俺の後見人とアンタだけだ。他の奴らには教えてねぇ」
「え…どうして…」

 彼の携帯電話には、彼も顔を覚えていないというような女性や、あまり素行のよくない仲間のアドレスがたくさん
 入っているのだと、いつか元親から聞いた覚えがある。
 それらすべて破棄してしまったのだろうか。
 幸姫が困惑しているのがわかったのだろう、政宗はふと笑みを見せた。

「…自由になるため」

 静かな声に目を瞬かせる。
 どういう意味なのか計り知れなくて、口を開こうとした時だった。

「アメリカに行くことにした」

 政宗の口からこぼれた言葉に、身体が固まった。
 ぎしり、と音がしそうな首を恐るおそるあげる。―――彼は微笑んだままだ。
 何も言えずにただ見つめていると、政宗は幸姫の方へ一歩近づく。

「大学の留学制度使って、夏からアメリカだ。留学の期間は一年間だが、帰ってくるつもりはねぇ。…その前に、どう
 してもアンタと話がしたかったんだ」

 雪が舞う。まるで花びらのように。
 あの日は月の綺麗な夜だった。月明かりに照らされたあの人の顔がひどく綺麗なのに哀しそうだった。
 大きな手が幸姫の頬に伸ばされる。白い肌色の手は竹刀を握ってきたからか、性別の違いか、やはり節がある。
 けれど綺麗な手。優しく、それでいて壊れ物を扱うように触れてくる手は冷たい。
 顔をあげさせられた先にある藍色の隻眼が幸姫だけを映していた。

「俺はアンタが好きだ」

 薄い唇から何も飾らない言葉が贈られる。
 大きく瞠った茜色に、彼は何を思ったのか切なそうに目を細めた。

「アンタに好きな奴がいることは知ってる。忘れられない奴がいるって、アンタが告白された時に言ってたの聞いちまっ
 たんだ。だから言わずにいようと思った。けど…どうせもう逢わないなら、踏ん切りつけようと思ったんだ」
「まさ―――」
「アンタが誰を好きでもいい。ただ、知っておいてほしかったんだ。俺がアンタを好きだって」

 幸姫が言葉をはさむのを嫌がるようにして、彼はそう言い含めるように紡ぐ。
 口を引き結ぶと政宗が苦笑した。どこか困ったようなそれは、初めて見た顔かもしれない。

「答えはいらない。…悪い、泣かせるつもりじゃなかったんだ」

 政宗の長い指が幸姫の頬をくすぐった。
 ほんのりとあたたかな雫がその指にはついている。ようやく幸姫は自分が泣いていることに気付いた。
 彼から視線を逸らしたくないのに、視界がぼやけて何も見えない。落ち着こうとして息を吸うと、冷たい空気が肺に
 沁み渡った。

「政宗、どの」

 何か返したいのに、涙が邪魔をする。
 胸を奔流する想いを言葉に出来ない。
 頬を離れようとした手を掴むと、驚いたように強張られた。

「わた、し…私、は」
「…ゆき」

 誰かを好きになったのはこれが初めてだ。そして―――終わりだろう。
 魂が叫ぶ。目の前の人が恋しいと。愛しいと。なのにどうして結びつかないのだろうか。
 きっとどんなに好きでも、目の前にいる彼の心には届かない気がした。
 ―――もう、心が疲れてしまった。

「どうか…どうかご息災で」
「ゆ、き…」
「あなたが幸せならそれでよかった。…私のことは忘れてしまっていいのです」
「…幸姫…?」

 涙はもう枯れてしまった。そのかわりに浮かぶのは凍てついた笑み。
 政宗の手を取ったまま、幸姫は微笑む。

「そうでしたね…願ったのは私。だからもう、いいのです…」
「何を…」

 困惑を浮かべた政宗の手をそっと放す。するりと放れたそれはすぐに凍てついた空気にさらされて冷たくなった。
 赤く色づいた痛々しい目元をそのままに、微笑む少女は美しい。
 その顔を、どこかで見たことがあるような気がした。
 しかし記憶をたどる前に幸姫は頭を下げると何事かを囁いて、駆けだした。

「―――幸姫!!」

 囁きは政宗の耳に届かなかった。けれど唇の動きでわかってしまった。
『さよなら』それから『すきだった』と、彼女の唇は確かにそう動いた。
 追いかけようとした足は、雪に縫いつけられたように動かない。そのうち栗色の髪は視界から消えてしまった。

「Shit…!」

 きつく握り締めた拳は、彼女の涙と頬のぬくもりを未だ残していた。
 泣かせたいわけではなかった。ただ一縷の望みを持っていたのだ。
 幸姫が政宗に応えをくれる。けれどそれを聞いてしまったら先に進めなくなる気がして。
 だから遮った。答えはいらないと言って、逃げた。
 その後の彼女の顔が脳裏にこびりついたように、残っている。
 あの顔は、何かを諦めたものだった。

「なんであんな顔すんだよ…」

 政宗は手荒に髪を掻きあげ、舌打ちをする。
 幸姫が残した足跡が、ゆっくりと降る雪に消されていった。










 荒い息のまま、幸姫は自分の家ではなく隣の家のドアを開ける。

「―――幸姫?」
「さすけぇ…っ!」

 ドアの音に気付いた佐助がリビングの入り口から顔をのぞかせた。
 いつもと変わらぬ風体の彼に、耐えていたものが崩壊するのを感じる。靴も脱がぬままに腕を伸ばして、彼の胸に
 顔を伏せた。

「姫…?何、どうしたの…」

 慌てたようにこちらを窺いながらも、抱き返してくれる腕はあたたかい。
 先程枯れたと思った涙がぶり返すのを感じて、幸姫は更に顔を埋める。
 ため息一つ零した後、佐助は冷たい背中を軽く叩いてやった。
 取り乱した様子の幼馴染がすぐに話せる状態ではないことなど、見ていればわかる。

「姫、とりあえずあがって?…何か飲んで落ち着こうか」
「…っ、う…」

 返事は言葉にならなかったが、頷くことで了承を告げた。



 何度も入ったことのある佐助の部屋は、特にこれといった特徴があるわけではない。
 忍びの時の習性からか、物を多く持たないようにしている彼は、服も部屋もシンプルだ。
 そんな部屋の真ん中で幸姫は目を赤く腫らしたまま、マグカップの中身を啜っていた。
 甘いカフェオレが冷えた身体を癒す。思わずこぼれた吐息に、佐助の目が緩んだ。

「…落ち着いた?」
「ああ。…すまぬ」
「いーえ。ねぇ、どうしたの?…出ていく前の電話、関係あるんでしょ」

 優しく微笑んでいながらも、媚茶の目は真剣だ。
 幸姫はカップの中を見つめながら唇をかむ。自分でも心がざわめいていて、上手く説明できそうもなかった。
 けれど何も言わなければ、その分佐助を心配させてしまう。
 躊躇った後に、幸姫は口を開いた。

「電話は…政宗殿からだった」
「え…竜の旦那?」
「話がある、と。それで思わず飛び出したんだが…」

 まさかあんな話をされるとは思わなかった。
 彼の方から逢いたいと言ってくれただけでも嬉しかった。だから一言謝りたいと思っていた。あの秋の日のことは、嫌
 だったわけじゃないと告げたかった。
 けれどこちらからは何も話させてはくれなかった。

「政宗殿は大学に上がったら夏にはアメリカに行くそうだ」
「へぇ?留学するんだ?…まぁあの人は昔から外国に興味津々だったしねぇ」
「―――もう、こちらへ帰ってくる気はないと」
「……え?」

 きょとんとした佐助を見ぬままに、幸姫は虚ろな目を窓の外へと向けた。
 雪が静かに街を白く染めていく。全てが白に染まる冬は美しいけれど、静かすぎて恐ろしい。
 政宗の静かな藍色を思い出す。あの眸に混ざっていたのは、諦めだった。

「あの方は一方的だ…!私の答えはいらないというから、私はあの方に何も告げられなかった…。告げさせてはくれ
 なかった…!」

 自分も慕っているのだと、そう告げたかった。
 なのにそうさせてはくれなかった。この手を取ってはくれなかった。
 それが辛くて寂しくて哀しくて、苦しい。

「やっと…やっと出逢えたのに…!どうしてこの手はいつも月に届かない…!」
「姫」
「もう嫌だ。こんなに苦しいのはもう…!」

 月のような人だと思った。太陽ほど強い光を発するわけではないのに、そこに燦然と輝く様が。ほの蒼い光が、月
 のようだと。―――手を伸ばしても届きはしないところも似ていると思った。
 けれどこの時代に生まれ落ちて、もう一度逢えて。やっとこの手を伸ばすことを許されたと思ったのに。あの日交わ
 した約束が叶えられると思ったのに。

「政宗殿…!」

 また手の届かない所へ行ってしまう。
 彼は幸姫の答えをいらないと言った。帰ってくるつもりがないということは、もう逢うつもりがないということだ。待つこと
 すら許してくれないのだ。
 あの日、確かに自分は彼に忘れて欲しいと願った。報われないと思っていたはずの想いが通じて、それだけで幸せ
 だった。妻になることは許されない。彼にも自分にも背負うものがあり、それから逃れることなど出来はしなかった。
 だからこそ、忘れて欲しかった。
 けれど彼は約束をくれた。だから幸姫はそれを抱いて生まれたのに。

「私はいつの間に、こんなに強欲になってしまったのだろうな…」

 小さく呟くと、窓から目を離す。瞬きをした拍子に涙がこぼれた。
 膝に落ちたそれは布に吸い込まれ、瞬く間に見えなくなる。
 それをじっと見つめていると、伸ばされた腕に身体を引き寄せられた。
 持っていたマグカップから、中身がこぼれる。思わず放してしまったカップはフローリングの床に転がり、大きな音を立
 てた。

「強欲なんかじゃない…!姫はただ、恋をしただけだ…」
「佐助」
「俺様はずっと傍で見てきたんだ。姫がどんなに竜の旦那のこと想ってたか知ってるよ!だから、だからそんな風に泣
 かないでよ…!」

 ずっと傍で幸姫を支えてくれていた佐助が、泣きそうな声で言い募る。
 きつく抱きしめてくる腕は、ずっと変わらない優しさと慈しみが込められているのがわかった。
 あまりにもあたたかい腕の中で、幸姫はただ泣いた。幼子のように。

「…ありがとう…」

 泣いて泣いて、ようやく涙が止まった頃。枯れた声でそう告げると、佐助も涙をにじませた目で笑ってくれた。









 しつこいほどに鳴る携帯の着信に、政宗はベッドに伏せていた身体を起こした。
 今日は土曜日で、予定は特にない。だから怠惰に過ごそうと決めていた。なのに何度も何度もかかってくる電話
 にいい加減辟易している。
 この番号を知っているのはほんの数人だけだ。後見人の男とは、業務連絡のような電話しかしない。こんなにもし
 つこくかけてくるとしたら、着信の相手はおそらく悪友の方―――。
 出なければ、これからも延々かかってくるだろう。
 政宗は舌打ちと共にわめく携帯電話を手に取った。

「Hey,元親!Is noisy from morning!!」
『出るのが遅いわ、この戯けがぁ!!』

 通話が繋がり、文句を言うとすぐに怒鳴り返された。
 しかも元親の声ではない。

「What is it…?」

 着信の相手は確かに元親だ。しかしこの声は彼の幼馴染で、幸姫の友人のもの。
 寝起きの頭に混乱をきたす電話に、政宗は眉をしかめた。

「毛利…?」
『そうだ。だがそれはどうでもいい!今すぐ出てこい!』
「はぁ?Why are you?」

 どこか焦燥の濃い声は、普段の冷静な彼女からは程遠い。
 訳がわからず首を傾げていると、電話の向こうで代われ、と聞き慣れた声がした。

『政宗か?』
「元親…何なんだよ」

 いつものちゃらけたような態度ではなく、どこか硬い声色に怒りは鎮まる。
 数秒の後、元親は静かに言った。



―――幸姫がいなくなった、と。













 
 
 
 
 
 
 
 


          花影(かえい) … 月の光などによってできる花の影
       みんなで筆頭の尻を叩こう、の巻(笑)好きだけど動けないってのはみんな辛い。
       幸村はずっとただ一人を想っているのに政宗の誤解ですれ違ってしまうこの状況
       に疲れてしまいそうだな、と思ってこんな展開にしました。
       「こいめぐり」は次のお話で終わりを迎える予定です。どうぞ最後までお付き合い
       をお願いします。

          2011.06.06 手の届かないあなたの光を頼りに、私は。