花の盛りを越え、雨も去った頃。
 快適に保たれた部屋の中で、彼女は美しく笑った。



 ―――お話したいことがあります、と。
 彼女が告げた時に、予感がしていた。
 嬉しそうで、誇らしげで―――けれどどこか不安そうな茜色がこちらを向いた瞬間。
 だから用意していたモノを渡すのは今だと、そう思った。
 記憶が戻ってから、既に四年の歳月が経った。いつの間にか想いを交わし、そして別れた頃と同じ年齢になってい
 る。
 今年の春は不安や怖れを抱え、そして自分たちを縛ることのない現実に喜びを噛みしめた。
 青々とした緑がまぶしい季節は、嫌いじゃない。この暑さには閉口するが、本格的な夏に比べれば、まだ可愛い
 ものだ。
 大学を卒業した政宗は、短期大学を卒業した幸姫と一緒に暮らしている。
 三月に互いの家に挨拶を済ませた。政宗は今生でも家族とあまり上手くいっていない。特別仲が悪いわけではな
 いが、仕事第一の父親と自分を着飾ることにばかり気を取られている母親とはすれ違ってばかりだ。だからそんな
 彼らに幸姫を会わせるのはあまり気が進まなかった。けれど幸姫の懇願に政宗が折れたのだ。

『それでも、政宗殿のご両親で、家族ですから』

 そう言って笑う幸姫の両親も、どちらかと言えば放任している風で、幸姫は幼い頃から隣家――佐助の家で育て
 られたも同然らしい。兄妹のように育ったというのは過言ではなく、佐助の両親にとって幸姫は娘のような存在だっ
 た。
 認めないわけにはいかないと苦く笑う佐助に幸姫も嬉しそうに笑った。彼にとっては今まで大切に守ってきた花を預
 けるのだ。長い間彼が傍にいたから幸村は幸姫でいられた。

『ねぇ竜の旦那、姫を大切にしてよ。…絶対負の感情で泣かせないで』

 帰り際に言われた言葉を、政宗は胸に留めると決めた。





 蒸し暑さはなりを潜め、雨上りの澄んだ空気に満たされた夜。
 この時期には珍しいほどに昼間の熱を感じさせない、涼しい日だった。
 帰宅した政宗を待っていたのは、幸姫の微笑み。ふわりとした柔らかな笑みが気疲れした心身を労わった。

「―――どうした?」

 夕食も終わり、政宗が首をかしげる。隣に座る幸姫を見つめながら問いかけると、彼女は背筋を伸ばした。
 帰宅してすぐに話したいことがあると言ってきたのだ。なのに夕食後まで引き延ばされて、正直気になって仕方がな
 い。
 言い出しにくいことなのかと思ったが、幸姫の表情を見るとそうは思えなかった。

「…一つ、夢が叶いまする」
「…Ah?」

 緊張しているのか、触れた細い指先が冷たい。政宗の手に添えられたその指を握りこむと、幸姫は茜色の眸を揺
 らした。
 喜びと不安の入り混じった眸はどの時代も変わらず政宗の視線を奪う。言葉を促すように握る力を強くした。

「あの頃叶わなかった夢の続きが、叶いまする…」

 桜の舞い散る中で見た、夢の続き。
 別れを選ぶしかなかった二人にとって、それは叶えたくとも叶わなかったもの。
 そして政宗にとっては忘れたくなるほどにいとおしい記憶。後に知った事実を、想いを抱えながら生きた。
 その夢が、叶う―――。
 幸姫が政宗の手を握り返し、そっと導くその先。まだ何の兆しも見えない薄いそこ。
 触れた瞬間、込みあげてきた熱に政宗は何も言えなくなった。

「昼間にお医者様へ行きました。…あの夢の続きが見られると。そう、知り申した…」

 白い頬を一筋流れる雫。茜色の瞳から流れてきたそれは酷く美しく、儚い。

「ゆき…」
「はい」
「抱きしめて、いいか?」

 真剣な政宗の言葉に、幸姫は満面の笑みを向けた。
 腕を伸ばして細くしなやかな身体を抱きしめる。あたたかな熱がじわりと混じりあい、目頭にも熱を伝えた。
 泣きたいくらいに幸せを感じるのは、初めてかもしれない。

「…男の子でしょうか?それとも女の子?」
「……多分、女だ」
「…どうしてですか?」

 妙に確信に満ちた政宗の言葉に、幸姫が預けていた身体を起こした。
 不思議そうな表情を浮かべる彼女に、小さく笑って見せる。

「俺たちの子どもだろ?なら、最初は女で―――梅がきれいな時期に生まれるんだ」










 一番に知らせるべき相手には知らせた。
 次に知らせるの相手はずっと前から決まっている。
 幸姫は懐妊が分かった数日後、自分の家ではなくその隣の家のインターフォンを押した。
 今から訪ねると連絡していたからか、玄関はすぐに開けられる。

「いらっしゃい、幸姫」
「うむ。邪魔するぞ」

 慣れ親しんだ家だ。幸姫は靴をそろえて上がると、案内される前に和室へと向かった。猿飛家で幸姫が一番よく
 過ごした場所は、佐助の部屋か和室なのだ。部屋には高校に上がってからはあまり入れさせてもらえなくなってし
 まった。佐助が政宗に嫌味を言われるのが嫌だと言ったからだ。
 お気に入りの座布団も、定位置である縁側もそのままにしてある。そのことが嬉しくて、幸姫は笑った。

「なぁに?ご機嫌だねぇ」
「まぁな」
「…その指にはまってる指輪と関係がある?」

 幸姫の細い指。それも左手の薬指に華奢な指輪がはまっている。目ざとく見つけた佐助は目元を緩ませた。
 佐助の優しい視線と言葉に、幸姫が頬をほんのりと赤く染める。

「昨日はめてくれたのだ。…紙切れ一枚でも誓いになるのなら、と」
「…よかったね、旦那」
「ああ。…ありがとう佐助」

 敢えて昔の呼び方をしたのは、あの頃の名残。そして時を経て叶った夢への賛辞。佐助の柔らかな声に、ただ頷
 いた。
 はめてもらった指輪は婚約指輪を通り越して、おそらく結婚指輪だろう。
 いつ準備をしていたのか、幸姫は知らない。けれど差し出してくれた時の甘い笑みは、きっと幸姫だけしか知らな
 い政宗なのだ。彼の藍色の眸が潤んでいた。叶わなかった夢を、彼も叶えたいと望んでくれている。
 遠い昔では考えられなかった幸福が優しく降り注いでいるのを、確かに感じていた。

「結婚式はしないの?竜の旦那は着飾りたいタイプでしょ。それとももしかして姫のきれいな花嫁姿、見せたくない
 とかいうの?」
「まだそこまで話が進んでないんだ。…それに…もう一つ、佐助に言わなければならないことがある」

 開け放った縁側から入ってきた風が幸姫の長い髪を揺らす。陽に透けて紅くも見える髪を目で追うと、晴れ渡っ
 た空が見えた。
 幸せそうに微笑む幸姫の顔には見覚えがある。それは現代(今)見たのではなく―――あの頃に。
 決意と切なさと、強さを秘めたその顔はいつ見せたものだったのか。佐助は不意にその時を思い出した。
 あれは春を過ぎ、夏が猛威を振るい始めた頃。変化しだした幸村に一番に気づいたのは佐助ら十勇士だった。
 あの時の幸せそうな笑みを覚えている。
 佐助は媚茶色の眸を細めて、主の―――今は幼馴染の言葉を待つ。
 この予感が当たればいい。そうしてもっともっと、幸せになればいい。

「子が、宿った。生まれるのは梅の咲くころだろう」
「…そっか。……おめでとう、姫」

 ジワリとこみあげてきた歓喜に声が震える。

「ありがとう」

 抱きついてきた幸姫をしっかりと抱き返す。小さく震えているのはどちらだろうか。
 頬を伝う熱いものに、胸に詰まるくらいの幸せに逆らわず力を込めた。

「佐助がいたから、私は今幸せなんだ。ずっと…どんな時でも見守ってくれてたから…」
「当たり前でしょ。俺様は真田幸村の…姫の忍びだよ。ずっと一緒にいるよ…」

 主が幸せになるところがずっと見たかった。
 泣く姿より、笑ってる姿が好きだった。
 愛しい人を想ってふさぐ彼女にしてやれることは、逢わせてやることと、帰りを待つことだけ。周囲の火の粉をできる
 だけ払ってやることだけだった。
 月には手が届かないと、強欲だと自身を責めた彼女が今、何の憂いもなく笑っている。それが何よりも嬉しいのだ
 と、言葉では伝えきれないほど思う。
 だから言葉の代わりに、佐助は幸姫を抱きしめた。これからもずっと幸せでいてくれることを願って。










 ―――子守唄が聞こえる。
 どこかまだたどたどしい唄。けれど優しくて暖かい声で紡がれるそれを聞くのは初めてだ。
 灯りのない窓辺で幸姫が生まれてひと月ほどになる娘を抱いている。腕の中の赤子は母親の長い髪を握って大
 きな眸で空を見上げていた。

「幸姫、風邪ひくぞ」
「…政宗殿」

 赤子が夜泣きをしたのだろうか、いつの間にかベッドからいなくなっていた妻はこちらを見て頬を緩めた。
 皆に祝福されて生まれてきた子ども。梅の花が綻び始めた頃、産声をあげた。
 近くに寄ると、父親に気づいたらしい赤子が政宗を映す。その瞳の色は、母と同じ茜色。ようやく伸びてきた髪の
 色は父と同じ黒檀。双方によく似た娘は両親を見上げてふにゃりと笑った。

「起きちまったのか?」
「ええ。…すみませぬ、明日も仕事なのに起こしてしまいましたね…」
「No problem. …雪が積もってやがる。どおりで冷え込んでるわけだ…」
「ふふ、寒いのも暑いのも苦手とは。困った父様ですね」

 赤子特有のふくふくした頬をそっとつつきながら幸姫が揶揄する。
 きゃらきゃらと笑うような声を上げた娘に政宗は肩をすくめた。

「今日は満月だったのですね…」
「冬だから空が澄んでるな。月が眩しすぎて星はみえねぇ」

 眩しいほどに輝く月が白い雪をほの蒼く照らしている。
 幻想的な様子の外が珍しいのか、娘は泣きもせずじっと窓の向こうを見つめていた。
 幸姫を抱き寄せながら政宗が赤子を覗き込む。

「なんだ、ご機嫌じゃねぇか。…そろそろ母上を俺に返してくれ。さみぃんだよ」
「まぁ、本当に困った父様」

 夜の静寂にくすくすと密やかな笑い声が響く。すると赤子の大きな茜色が外の景色から政宗に向けられた。
 柔らかな頬に羽のような口づけを落とす。くすぐったかったのか小さな小さな手が政宗の指をぎゅっと握った。
 再び幸姫が歌いだすと、夕空のような眸はゆっくりと閉じられていく。

「Good night.My princess.」

 幸姫が歌い終えるころには小さな寝息が聞こえていた。
 慎重な手つきでベビーベッドに寝かせ、二人で無垢な寝顔を見つめる。
 小さな命が生まれた時、政宗は涙をこぼした。彼にとってあの頃後々まで知らされなかった二人の夢の結晶を抱
 くことは、何よりも叶えたい願いだったから。
 幸村を亡くしてから知ったあの頃とはもう違う。今この腕に両の「倖」を手にしたことの意味は計り知れないほど。
 健やかに眠る我が子に政宗は幸姫を抱きしめながら礼を言う。万感の思いで紡がれた言葉に、幸姫はただ頷い
 て広い胸に顔を埋めた。
 月明かりに照らされながら幸姫がそっと政宗の背に腕を回す。
 そしてふわりと微笑んで、小さく囁いた。

「この子が大きくなったら…」


 ―――聞かせましょう、めぐり叶った「恋」の話を。


 秘密を語るように告げられた言葉に、政宗は頷いて微笑んだ。









      こいがたり
          ―――雫はめぐり、そうして語られてゆく「恋」の話。            











 
 
 
 
 
 
 
 


       このお話を考えて一年。ようやく本当の最後にたどりつけました。
       戦国の世では結ばれることの叶わないだろう二人のことを話にしたのが「こいしずく」で、
       それなら生まれ変わったらどうだろう?と書き始めたのが「こいめぐり」でした。
       最後はどうしてもあの頃叶わなかった、娘のことも入れたいなと思い「こいがたり」が出
       来ました。佐助もようやく肩の荷が下りたのではないでしょうか。

       これでこのお話は終わります。最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。 
       
          2011.08.17 春宵一刻値千金 心はいつでも貴方と共に。