「―――旦那!!」

 焦ったような忍びの声がした。
 次の瞬間、焼けつくような痛みを背と腹に感じて。
 意識はそのまま真っ白な闇に飲まれてしまった。










     いちしの花









 ふと意識が浮上した。
 ゆっくりと起き上がると、戦場に居たため泥だらけ血だらけだろう身体には何の汚れもない。それどころか戦装束で
 すらなかった。
 不思議に思うが、周囲も見慣れぬところだ。ただひたすら白い世界。何もなく、ただ一面真っ白い。

「ここは…どこなのだろうか…」

 自分は戦場に居たはずだ。そして迂闊にも背後を許し、それから―――。
 身を斬られる感触を思い出し、幸村は小さく息を吐いた。おそらく自分は負傷し、そして―――。

「まったく…何をしているのだろうな、私は…」

 嘲笑しながら立ち上がる。どこも痛くないし、不調は感じられなかった。
 まさかこんなことになろうとは思ってもみなかった。倒れる時は絶対にあの人がそこに居るのだと疑いもしなかった。け
 れどそれは叶わず、今自分はうつつを離れようとしている。思わず口からため息が吐き出された。
 これからどうしたものか、とあたりを見渡していると、遠くに何かぼんやりと明かりが見える。訝しみながらもじっとそれ
 を見つめた時、吸い寄せられる感覚に襲われた。










 次に目を開けた時、そこは見慣れるほど見ているわけではないが、確かに知っている場所だった。
 美しく整った庭が望める城の一角。訪れた時はここで試合をして、それからお茶をごちそうになったこともある。
 今は夜なのか暗くてよく見えないが、ここは「彼」の居る場所だ。
 何故こんなところに居るのだろうかと、自分でも不思議に思う。けれど足は勝手にぼんやりと障子に透けた彼の部
 屋へと動き出した。
 ―――会ってどうするのだというのだろう。こんな夜更けに訪れてきっと不審に思われる。
 けれどどうして自分かここに居るのか、なんとなくわかっていた。

『竜の旦那、もうすぐ結納するんだって』
『…え?』

 数日前に聞いた話を思い出し、苦笑する。思った以上に、その言葉は胸を抉った。
 彼は奥州を統べる主、自分は一介の武将。その差は歴然としていて、本来ならば言葉を交わすこともそうそう許
 されるものではない。
 忘れていたのだ。彼と過ごす日々があまりにも楽しくて。戦場で逢えば好敵手として刀を交わす。上田や奥州の
 屋敷で逢った時にはそんなもの関係なく談笑しあう。そんな時間に慣れすぎていた。このままそんな日々がずっと
 続くのだと、どこかで思っていたのだろう。
 だからその話は今ある形が不自然なのだと、幸村に知らしめた。
 彼にはやるべきことがある。自分にももちろんあるけれど、彼と同等などとおこがましい。彼はこれから名家の妻を
 娶り、どんどん先へ進むのだろう。
 真田の家からは放り出され、信玄のためにしか戦えない自分とは大違いだ。
 その瞬間、もう傍にはいられないのだと思い知った。それがどうしようもなく辛くとも、一応は女の幸村が彼と親しく
 することは出来ない。
 それが数日前のことだ。すぐに北条との戦が始まり、それどころではなくなったはずだった。

「こんな様…情けないな…」

 所詮、自分も女だったのだ。彼が妻を娶ると聞いただけで動きが鈍るとは。気づきたくもなかった想いに気付くと
 は。叶わない想いなど、抱くだけ無駄だと言ったのは誰だったか―――。
 自嘲の笑みを浮かべながらも、身体は素直だ。ほんのりと灯りのもれているそこには「彼」の気配。幸村は深く息
 を吐くと障子の前に腰を下ろした。


「―――Who is it?」


 久しぶりに耳にする声に胸がざわめく。警戒している誰何の声に幸村は囁くように名を応えた。
 驚いた気配と、足音。急に開けられた障子に思わず目を瞠る。顔をあげた先では彼も藍色の眸を瞠っていた。

「真田?なんでこんなとこに…?来る予定だったのか」
「急な来訪、申し訳ござりませぬ」
「かまわねぇよ。んなとこ座ってねぇでこっち来い」
「忝い」

 こんな時間に尋ねるなんて、不審にもほどがあると自分でも思うのに彼はいつもの調子で迎えてくれた。幸村が他
 愛もないことを話し出すと、彼はいつものように口の端を引きあげて笑ってくれる。それが嬉しくて堪らない。
 優しい橙色の灯りの下で幸村は政宗を見つめた。彼が妻を娶れば、もう気軽に幸村を訪ねてくることもなくなるだ
 ろう。もし訪ねてきても、逢えない。自分はそこまで強くはないから。彼の口から妻の話が出てしまえば、きっと耐え
 きれない。みっともなく女の性を晒すのだろう。それだけはしたくなかった。

「そういや、北条が動き出したって聞いたぜ」
「はい。某も戦に出まする」
「I see.今回は邪魔しねぇよ。俺もちょっとやることがあるんでな」
「そうですか。…某が打ち負かして見せますれば、伊達殿は…御自分のなすべきことをしてくだされ」

 ―――やること、なすべきこと。ああ、それ以上言わないで欲しい。政宗の口から現実を突き付けられたくはない
 のだ。自分の弱さに辟易する。
 胸に込み上げてきた痛みから目を逸らした時だった。もう夜も更けようと言うのに、バタバタと響く足音が聞こえてき
 た。

「政宗様…!」

 右目である小十郎が珍しく慌てている。政宗ははっとしたように背筋を伸ばして障子越しに目を向けた。

「Hey,どうした小十郎。Coolじゃねぇなぁ」
「今しがた偵察をしていた忍びから伝令が在りまして…!」
「Ah?なんだと?」
「それが、武田の戦で真田が―――!」

 告げられた言葉に、部屋ごと空気が凍りついた気がした。先程まで部屋を満たしていた橙色の灯りすら、急に冷
 えてしまったかのように。

「な、に…言ってんだ小十郎…?真田は…」
「背と脇を斬られ、重症…もう、危ういと…」

 大きく瞠られた藍色の眸が先程まで話していた幸村を見る。
 その視線を受けて、幸村は小さく微笑んだ。

「ああ…知れてしまいましたか…」
「さな、だ…」
「先程まで出ていた戦で、不意をつかれてしまったのです。…某はどうやら、その傷が元で―――」

 死んだようです、と。その声は静かに響いた。
 話している内容と穏やかな表情はあまりにも似合わなくて、政宗は顔を歪める。
 困ったように首を傾げた幸村がそっと目を伏せた。

「目が覚めたら、真っ白な世界に居ました。そこで不意に思ったことが在ったのです」
「思ったこと…?」
「はい、おそらくそれが某の未練だったのでしょう」

 いつもの暑苦しさはどこに行ったのか、ただ淡々と話す幸村に愕然とする。目の前に居るのは確かに政宗の知る
 真田幸村なのに、まるで別人のようだ。
 そう思い至ってすぐに、戦場以外での彼女のことをあまり知らないのだと自覚する。好敵手だと互いに思っていて
 も、戦場を離れれば奥州を統べる筆頭と武田に仕える武将。その開きは大きい。
 政宗にとって、身分などそう気になるものではなかった。特に幸村の存在に、そんなものは関係がなかった。性別も
 考え方も、何もかも違うのに不思議とそれを感じさせないものがあったことも事実だが。

「未練って…」
「某も、人の子だったということです。今際の際になってようやく、自分のことが分かるのですから」

 ふ、っと吐息のこぼれる音がした。真っ直ぐに政宗を射抜く視線に覇気はない。ゆるりと細められた茜色はほのか
 な明かりを受けて揺らめく。

「某の最後の願いを、叶えてはくださらぬか…?」

 蝋燭の灯りだけしかない部屋の中、幸村は淡く微笑んだ。あまりにも儚いその表情に、息を呑む。あの生き生きと
 した輝きはなりを潜め、ただただ消えてしまいそうなその姿に、小十郎の話は本当なのだと理解せざるを得なかっ
 た。

「最後の願いって…なんで…俺に…」

 政宗が呆然としたまま問うと、幸村は困ったように泣きだしそうに顔を顰めてしまう。
 膝の上できつく握られた手が痛々しくて、思わず手を伸ばした。―――その手が触れることはなかったけれど。
 ぎゅ、っと噛みしめられた唇が、白い。それがますます幸村がもうこの世に居ないのだと知らしめる。


「……一度でいいのです。抱き締めてくださらぬか」


 小さな声が、静かな部屋に響いた。
 告げてすぐ、幸村は俯いてしまう。しかし握られたままの手と、噛みしめた唇と、縮こまった細い身体に冗談で言っ
 ているわけではないのだとわかる。
 震える肩を見て込み上げてきた衝動のままに、政宗は幸村をかき抱いた。

「顔を見て告げるのは…どうしても出来ませぬ。申し訳ありませんがこのまま聞いてくだされ」

 肩のあたりから囁くような声が聞こえる。らしくないと思う。幸村のこんな大人しい様子が。いや、元々彼女は戦場
 以外では物静かだった。太陽の光が良く似合うのに、月のぼんやりとした光も良く映えるような。苛烈なようでいて
 身を弁えている女だった。そしてそんな二つの姿を見る度、政宗は目で追う自分をもらしくないと思っていた。

「伊達殿」
「…なんだ?」
「斬られた瞬間、思ったのは貴殿のことだった」
「Why…?」

 互いに顔は見えない。けれど何故か彼女が笑っている気がした。

「最期に見るのは、貴殿がよかった。…某は―――私は、貴殿をお慕いしておりました。だからどうしても最期に貴
 殿にお逢いしたかった」
「――――っ」

 思わず抱く手に力が入る。体温を感じさせない身体に恐怖を思えた。
 こうしてこの腕の中に居ると言うのに、彼女はもうこの世にいないと言うのだ。

「黙ったまま対峙していたわけではありませぬ。…私もこうなるまで自分の気持ちに気付かなかった。でも貴殿に触
 れられなくなると思うと…!私の欲ばかり押し付けて申し訳ございませぬ。けれど、でも…」

 涙交じりの声に胸がかき乱される。
 きつく抱きしめているはずの細い肢体は徐々にその輪郭を失っていくようだ。どうしようもない焦燥感に、政宗はき
 つく目を瞑る。

「逝くな」

 ようやく絞り出せた声はかすれていた。けれど政宗の背に回った腕の感触に幸村の耳に届いたことを知る。
 ―――まだ、ここにいる。

「逝くな、言い逃げなんて許さねぇ…!」
「っ…もう、し、わけ…ございま、せぬ…」

 力の入った身体が、小さく震えている。泣くのを堪えているのだ。
 抱く力を緩めて幸村の顔を覗き込むと、茜色の眸が潤み、たちまち雫は溢れだした。
 泣く姿を見るのは初めてだった。笑っている姿、怒っている姿ばかりを見ていたから、知らなかった。こんな風に頬を
 赤く染めて幼子のように泣くだなんて。けれど嗚咽はこぼさない。人に涙を見せずに育った者特有の泣き方だ。
 そんな様子が切なくて、政宗は噛みしめられた色のない唇を己のそれで塞いだ。
 もう曖昧な幸村の身体は冷たさも暖かさも感じない。けれどその涙の味ははっきりとわかった。

「逝くな…!」

 ほとんど懇願に近い声で言う。
 口づけに驚きすぎたのか、見開かれた眸に顔をしかめた自分が映り込んでいる。政宗は目を開けたまま再度唇を
 塞いだ。
 焦点が合わずぼやけて見える茜色は、夕日を切り取ったかのよう。その美しい紅が愛しかった。夕日は幸村を思
 い出す。もうすぐ闇が迫る前に、ひと際美しく輝く様があたたかくて好ましいと思った。
 唇が離れる度に告げられそうになる別れを聞くまいと、何度も何度も唇を塞ぐ。
 このままこの腕の中に捕まえていれば消えないのではないかと、そんな考えが頭をよぎる。けれどそんな想いを嘲笑
 うかのように幸村は儚くなっていった。

「…伊達殿、」

 ふわりと、ひどく嬉しそうに泣きながら浮かべられた笑みは今まで見た中で一番美しかった。

「……さな、だ…?」

 ―――ありがとう、と。動いた唇に言葉を返す前にその姿は跡形もなく消えてしまう。
 不意に闇が濃くなったような気がして、政宗はふらりと立ちあがった。勢いよく障子を開け放つと、控えたままの小
 十郎が驚いたように目を瞠る。

「ま、政宗様…!?」

 辺りを見回しても、そこには闇があるだけだ。今まで幸村を抱きしめていたことが嘘だったかのように、何もない。振
 り返った部屋の中もいつもと何ら変わりはない。
 政宗はきつく拳を握ると、足音も荒く駆けだした。背後から咎めるような小十郎の声がしていたが、それにかまって
 などいられなかった。

「失ってたまるか…!」

 あそこまで言われて、黙っていることなど出来はしない。
 紅い花に、夕日に、あたたかな篝火に。重ねていた想いは自分だけのものではなかったのだから。














 白い闇が晴れた。
 何度か瞬きをすると、ようやく視界がはっきりとする。
 ―――ここはどこだろうか。ゆっくりと首を巡らせると、見覚えのある室内に寝かされていることがわかった。
 どうやら自分は死にそこなったらしい。
 身体を動かそうと試みるが、重くて痛くてどうにもならなさそうだ。唸っていると、慣れた気配が近くに現れた。

「あ!目が覚めたんだ」
「うむ…佐助か…」
「もー、マジでヤバかったんだからね!旦那、四日間も眠ってたんだよ…」
「そんなにか!?」

 目を瞠ると、佐助がそっと頭を撫でてきた。大きな手は不安と安堵が入り混じった視線と共に優しく触れてくる。そ
 ういえば気を失う寸前、彼が叫んでいたのだと今更ながらに思い出した。きっと幸村が目覚めるまで、気が気では
 なかったのだろう。
 心配をかけて申し訳ないと思う。けれど本当に自分は死んだのだと思っていた。だからこそ、あんな―――。

「どうやら都合のいい夢をみていたようだ…」
「へ?」

 痛む身体をゆっくりと起こしてもらう。どこもかしこも包帯が巻かれていて、自身の恰好に苦笑した。背中を斬られ
 ているため、仰向けに出来なくて大変だったとこぼされる。心配の裏返しのように小言を漏らす佐助はテキパキと
 幸村の身だしなみを整えた。

「あのね、旦那。いい加減どうにかしてもらいたいんだよね」
「え?」
「旦那の手当てがやっと終わったと思ったら、すんごい形相で乗り込んできたんだよ。それからず――っとそこにはりつ
 いてる人、どうにかして欲しいの!右目の旦那も頭抱えちゃったし!」

 佐助の話していることが何のことかさっぱり分からず首をかしげる。すると障子の向こうに人の気配を感じた。
 黙って入ってきた人物に思わず目を瞠る。

「ほら、旦那目が覚めたんだし入ってもいいよ。俺様大将に旦那のこと知らせてくるけど、くれぐれも大人しくしててく
 ださいねー」

 むっつりと無表情で敷居をまたいだのは、政宗だった。
 城や屋敷でくつろぐ時と同じ―――あの夢のような時間と同じ簡易な袴姿で布団の近くに座る。俯いたまま胡坐
 を組む彼にただ驚いた。佐助の気配が去って、しんと重い沈黙が横たわる。

「あ、その…伊達殿…?」

 耐えきれなくなった幸村がおそるおそる呼ぶと、彼はようやく顔をあげた。
 傷ついたような藍色の眸に思わず手を伸ばす。

「―――アンタは夢にするつもりなのかよ」
「え…?あ、の」
「I do not forget it.アンタが言ったこともアンタとしたことも!……俺はアンタが本当に死んだのかと思ったら、どうに
 かなりそうだった」

 伸ばしていた手を掴まれた。自分よりも一回り以上大きな手は冷たい。発熱しているのだろう幸村の体温を差し
 引いても冷たすぎる。そっと握り返すと傷に障らないよう引き寄せられた。じわりと互いの体温が融けあっていく中、
 政宗が口を開く。

「俺のこと、好きだっていうのはマジか?」
「……そ、れがし…嘘をつくのは苦手でございまする…」
「I see. なら、武田のオッサンに話をつける」
「は?」

 首を傾げると、いつものように不敵に微笑んだ政宗が幸村を覗きこんできた。

「アンタを閻魔に渡すくらいなら―――俺が貰う」
「はい?」
「俺より先に逝くのも他の奴にやるのも嫌だ。そのくらいなら俺が貰うってんだよ」

 軽く唇に触れた熱に目を瞬かせる。何を言っているのだろうこの人は。大体もうすぐ嫁を貰うのだと言う話ではな
 かったか。
 混乱する幸村をよそに、政宗は労わるように唇を落とす。くすぐったいそれに意識が霧散され、考えられなくなって
 いった。

「…アンタは俺のものにならないって諦めてた。けど、同じ気持ちなら遠慮はしない」
「同じ…気持ち?」

 本当にわからないのか、きょとんとしている幸村の耳元に囁くように告げてやる。
 腕の中の身体がピクリと跳ねて、ほんのりと暖かさを増した。
 政宗は信じられない、という茜色の眸に笑いかけて紅く色づいた唇を己のそれで塞いだ。

「I love you. 幸村」
「―――私も…!お慕いしております…」

 唇を離してすぐ囁くと、眸にいっぱい涙を溜めた幸村があの太陽のような笑みを浮かべて返してくる。
 腕の中の重みと暖かさに深く幸せを覚えた。全てが満たされる感覚を互いに感じる。
 もう冷たさを抱くことがないようにと、ただ願った。

















       ついったーでこんなの書きたいと話したら評判(?)よかったので書いてみました。
       幽霊、というかこの場合生霊ですかね?な幸村が筆頭に逢いに行くお話。
       筆頭はもともと幸村が好きだったんですけど、嫁に来いって言っても頷かないだろうな、と
       諦めてたんです。嫁の話はあくまで噂。
       題名の「いちしの花」というのは彼岸花のことです。花言葉もちょうどいいかなぁと。
       
         2011/10/08 「葉は花を思い、花は葉を思う」