「確かに恋だった」様の無防備なきみに恋をする5題








     2.眠るきみに秘密の愛を





 5時間目始業のチャイムが鳴った。
 スガタは自分の席からクラスを見渡す。そしてある一点を通り過ぎようとしたところで―――金色の眸を瞬かせた。
 窓際の席が一つ、空いている。後ろから二番目のその席は、紅い髪の少女が座っているはずなのに、今はいな
 い。
 スガタがワコの方へ視線を向けると、ワコもきょろきょろと周囲を見回していた。そしてスガタの方を見ると、困ったよ
 うに首を傾げる。

「…タクト君、いないね?」

 小さな声だったが、スガタの耳にははっきりと聞こえた。スガタが頷くと、ワコが近くの席の生徒たちにタクトのことを聞
 く。けれどどうやら誰も彼女の姿を見かけていないらしい。
 今日はそれぞれに用事があって、三人で昼食を共にしなかった。たまたまこういった日があるとタクトはいなくなるこ
 とがある。どこへ行ったのか誰も知らないというのだ。
 言い様のない不安がこみあげてくるのを振り払うように、スガタは音を立てずに席を立った。気づいたワコに視線を
 向けられ、一度頷く。彼女は心得たとでも言うように小さく手を振ってくれた。
 幸いにも、教師はまだ来ていない。スガタはそっと教室を出た。








 天気のいい日だ。
 こんな昼下がりはスガタといえど眠くなる。小さな欠伸をひとつこぼして、校舎を散策し始めた。
 授業が始まっているため、静まり返った校舎には教師のかすかな声が聞こえる程度だ。ゆっくりと歩きながら目立
 つはずの紅い髪を探す。
 保健室にも立ち寄ったが、保険医はタクトを見ていないと答えた。

「まったく…どこに行ったんだか」

 思い当るところは大体見て回ったつもりだが、見つからない。思わずため息をこぼす。
 旧校舎にある部室が思い当たる最後の場所だ。
 夜間飛行と名付けられた演劇部の部室なら、きっといるだろう。部員以外誰も立ち入らない場所だし、恰好のさ
 ぼり場所のような気がする。以前はここでタクトを見つけたのだったと思い返し、肩をすくめた。
 小さな音を立てて扉を開く。

「…タクト?」

 静まり返った部室は何の気配もない。

「……ここにもいないのか…?」

 ここにいるだろう、と半ば確信していたため肩透かしを食らった気分になる。
 スガタは室内を見渡すが、タクトの姿は見つけられなかった。
 思い当るところはすべて探したはずだ。なのに彼女はどこにもいない―――。
 急に足元から不安という名のどす黒いものが這いあがってきた気がして、スガタは思わず自分の腕を掴んだ。

「タクト…?」

 どこにもいない。あの紅い髪も、明るい笑顔も、時々見せる切なげな顔も、真紅の眸も。
 今ここにない。それがどうしようもなく恐ろしくて、スガタはたまらず部室を出た。
 当てもなく旧校舎の周囲を見回すが、やはりいない。

「タクト!どこだ!」

 不安になる。まるで最初から、タクトがいなかったかのような、夢を見ていたような、そんな気分にさせられると。
 彼女に出逢ったことすら嘘だったのではないかと、そう思うことがある。
 ツナシ・タクトという少女はこの島には現れておらず、スガタは島の外に恋焦がれるばかりに急に現れて、今までの
 もどかしい日常を破壊してくれる都合のいい存在を作り出してしまったのではないかと。
 ―――心臓の音が、うるさい。
 夢であるはずがないのに。彼女は確かにここにいるはずなのに。少し姿が見えないだけでこんなにもスガタに恐怖を
 与える。

「タクト…!」

 背に嫌な汗が流れるのを感じた。
 どうして彼女は見つからないのだろう。どこにいるのか見当もつかない。
 スガタの焦りが苛立ちに変わろうとしていた時だった。
 黄色の小さな生き物が近くの草むらからひょこりと顔を出した。

「……副部長?」

 呼ばれた声に答えるかのように可愛らしく鳴いたキツネのような、夜間飛行のマスコット的存在。その副部長は再
 び草むらにもぐってしまう。
 何故こんなところにいるのだろう、とスガタが首を傾げた時。小さなむずがる様な声と、くしゃみが聞こえた。
 スガタがそっと草むらを越えて声の上がった方を覗きこむと、探していた紅がそこにあった。


「…タクト…」


 やっと見つけた―――。
 安堵からか、足の力が抜けていく。なんとか耐えてゆっくりとタクトの近くに膝をついた。
 タクトはこちらの気も知らずに、胎児のように丸まって草のベッドで健やかに眠っている。

「まったくこいつは…」

 スカートだというのにまったく気にせずに寝ころんでいる少女に、呆れるやら安心するやら。
 どっと疲れてしまった気分で眠るタクトを見つめた。
 ちょうど木陰になったここは、天候も相まって絶好の昼寝スポットのようだ。
 タクトの大きくて猫のような真紅の眸は瞼の下で、その色が見えないとなおさら幼く見える。
 起こさないよう気をつけてそっと手を伸ばした。柔らかくてまろい頬を指で辿る。すべしべとしたそれは指に吸いつくか
 のようで、存外心地いい。女性に触れてこんな風に思うのは初めてだった。

「ん…」

 鼻のなるような声と共に、タクトが身じろいだ。はっとして手を離そうとすると、細い指がスガタの指に絡む。眠ってい
 たせいかあたたかなそれに意識を奪われた。

「…スガタぁ…?」
「タクト、起きたのか?」
「うぅんー…」

 消え入りそうな声は返事というより、寝ぼけた唸り声だ。
 これはまだ起きていないな、とため息をひとつ。繋いでいない方の手で紅い髪をぽんぽんと叩いてやると、薄く開い
 た真紅がスガタをとらえて緩慢に瞬いた。まどろんでいる眸に力はなく、長い睫毛が頬に影を落としている。光にあ
 たって金に近い色に見えるそれがタクトの美しさを強調しているようで、スガタは惹かれるように顔を近づけた。覗き
 こんだ幼さの垣間見える顔。起きている時の太陽のような明るさはなりを潜め、どちらかといえば無垢な印象すら
 持つ。
 綺麗だと思った。可愛いだとか、そう言った表現よりよほどしっくりきてスガタは小さく微笑む。
 彼女がスガタの前からいなくなることがあれば、今度こそ自分は感情の一切を捨てるだろう。そのくらい惹かれてい
 る自覚はあった。

 ―――手放したくない。誰にも渡したくない。

 不意に目に着いた珊瑚色の唇に自分のそれを重ねる。日に当たっていたせいか少し渇いていたが、柔らかくしっと
 りと重なる感触に目を閉じた。









 一日の授業が終わり、そろそろ部活に行く時間だ。
 昼休みから戻ってこないタクトを探しに行ったスガタも、放課後になったというのに教室に帰ってこない。
 ワコは心配が長じてむくれていた。結局タクトが見つかったのか見つからないのか、スガタからは何の連絡もないの
 だ。

「もう!二人して授業サボって…!」

 頬を膨らませながら部室へ向かう。スガタとタクトの鞄は教室に置いたままだ。教室で待ってようかとも思ったが、な
 んとなく二人は授業に出ないのなら部室にでもいそうな気がする。足早に進んでいると、小さな鳴き声が聞こえ
 た。

「あれ?副部長」

 黄色い尻尾が旧校舎の影で揺れている。
 首を傾げながらワコは近づいて―――茶色の眸を瞬かせた。

「もう…二人して気持ちよさそうにしちゃって」

 思わず噴き出してしまいそうなほど、微笑ましい。心配して気をもんだ時間が馬鹿みたいだ。
 ワコが困ったように笑う視線の先には、教室に帰ってこなかった二人の姿があった。
 青い髪が草の上に散っている。腕を枕にして目を閉じた少年は普段の大人びた様子とは少し違う、どこか穏やか
 な顔をしていた。まるで何も知らなかった頃の―――子どもの頃のような。久しぶりに見る無垢な顔にワコの胸に
 じわりと込み上げてきたのは喜びだった。
 彼に寄り添うようにして眠る紅い髪の少女には、細い身体に見合わない大きな制服の上着が肩から太ももにか
 けてをすっぽりと覆っていた。きっと彼のものだろう。
 かけられた上着の隅から出ている片手は彼のシャツの裾を握りしめている。もう片方の手は彼の右手と繋がってい
 た。

「仲良しなんだから」

 これでつきあってないなんて、信じられないくらいだ。
 お互いに特別に想いあっていることは傍から見れば一目瞭然なのに、本人同士は全く気付いていない。
 こんな風に穏やかな時間がずっと続けばいいのにと、思う。綺羅星十字団との戦いもシルシのことも、サイバディの
 ことも、全部終わったら。そしたら二人は何の憂いもなく幸せになれるだろうか。
 その時、自分はきっと笑顔で二人を祝福する。自分の運命を呪うように誕生日を厭うようになった幼馴染のスガ
 タと、いつもは太陽のように明るく前向きなのに、時折寂しそうに笑うタクトが本当に幸せそうに笑う横で―――
 きっと。
 ワコは眠る二人の傍で大きく息を吸い込んだ。

「もう!二人とも、起きろ―――!!」














     1.誰にでもスキだらけ





 彼女を見ていると思うことがある。
 休み時間、スガタは自分の席で本を読みながら時折窓際の席にいる少女を観ていた。

「ねぇ、タクト君」
「何?」
「よかったらこれ、食べない?」
「え?いいの!?ありがとう!」

 クラスの女子生徒に飴やクッキーをたくさんもらって、ふわりと笑う。
 あげた方の女の子の方が嬉しそうだし、顔が赤い。

「おーい、タクトー」
「んー?」
「この間言ってたCDだけどさ」
「あ!持ってきてくれたんだ?これすっごく聞きたかったんだー。…借りちゃっていいの?」
「お、おう!あ、でもよかったらダビングするけど」
「本当に!?あ、でもそこまでしてもらっちゃ悪いよ」
「いや、気にすんなよこれくらい」

 本当に嬉しそうに礼を告げながらにこりと笑って見せる。
 途端、タクトに話しかけた男子生徒は顔を赤く染めた。タクトが楽しそうに借りる予定のCDを眺めている間、そん
 な彼女を見つめる視線は熱が入っている。
 おそらく、いや絶対に彼はタクトを好ましく想っているのだろう。

「タクト君」
「タクト!」
「ツナシさん」

 代わる代わる、いろんな人から声をかけられるタクトが少しだけ困ったように微笑んだ。
 時折窓の向こうを通る他の学年の生徒にも声をかけられていることを知っている。ガラス越しを誘われることも。
 授業開始のチャイムが鳴ったところで、スガタは窓際に視線を向けるのをやめた。








 午前中の授業は終了し、教師がのんびりと教室を出ていく。
 それを見送ってからスガタは席を立った。今日は学食に行こうと朝からタクトやワコと決めている。財布だけを手に
 視線を巡らせると、ちょうどワコも席を立ったところだった。

「あーもうお腹すいたぁ!」

 思いっきり伸びをした幼馴染は、叫ぶようにそう言うと駆け寄ってくる。
 学食を使うのは久しぶりだ。何を食べようかと思考が既に昼食のことでいっぱいなワコに苦笑する。
 タクトに声をかけようと彼女の方に視線を向けた時だった。

「タクト、お前今日の昼メシは?」

 誰かの声がタクトを呼ぶ。
 机の上を片付けていた彼女は声のした方に視線を向けた。近くの席の男子生徒だ。

「んー、学食行くよ」
「へー?ならなんか奢ってやろうか?この間の―――」

 学食へ行くと聞いて、男子生徒の目がほんの少し変わった。
 あわよくば共に昼食を食べたい、とその顔には書いてある。なのにタクトは全く気がついていないようだ。
 ワコがタクトに声をかけるべきか迷っている。彼女はその身一つで島に来た上に、夏に寮の部屋が火事になり今は
 金銭的に厳しい。なので奢ってもらった方が彼女の財布には優しいはずで。
 けれど、それがわかっていても―――面白くない、と思ってしまった。
 ワコに先に行って席を取っておいてくれ、と頼む。彼女は少し考えるそぶりを見せてから頷いて教室を出ていった。
 その背を見送ってタクトの方へと足を向ける。

「タクト」
「あ、スガタ」
「ワコのお腹と背中がくっつきそうだ。行くぞ」

 名を呼ぶと、彼女はすぐに反応した。男子生徒の目が落胆に染まったけれどそんなことは知らない。
 タクトは男子生徒に軽く手を振ると、スガタに駆け寄ってきた。こちらに来てくれたことにひっそりと安堵する。

「…良かったのか?」
「へ?何が?」
「いや、奢ってもらえるチャンスだっただろう?」

 教室を出ながら問いかけると、タクトがきょとんと大きな真紅の眸を瞬かせた。

「ああ、いいの。だって今日は朝からスガタ達と約束してただろ?そっちが優先!」

 断るのが当たり前、とでも言うように。
 にこりと笑いながらそう言いきったタクトに偽りは感じられない。
 早く行こう、とスガタの手を引く。

「僕もお腹すいた!僕のお腹も背中とくっついちゃいそうだよ…」

 こころなしかいつも元気に跳ねている紅い髪も項垂れているように見えた。
 思わず笑うと、タクトも照れくさそうに微笑み返してくれた。








 昼時の学食は様々な学年が入り混じり、その人の多さは半端ではない。
 ひとつのテーブルをしっかり確保していたらしいワコと合流すると、視線が一斉にこちらを見た気さえした。
 他人の目をそこまで気にしないスガタは、夜間飛行の部長でもあるサリナに言われてやっと自分が存外目立って
 いるということを知った。そして一年の中でも自分たちはどうやら注目されている部類らしい。
 タクトが以前「二人って目立つんだね…」と言っていたが、注目されているのはタクトも同じだ。いや、自分たち以
 上に彼女は人の目を惹く。
 燃えるような紅い髪は陽に透けると金にもみえるし、大きく釣りがちで猫を彷彿させる真紅の眸もくるくる変わる表
 情もスガタの目を奪うものだった。人懐っこそうにしているくせに、どこか一線を置いているところも、気になる要素か
 もしれない。
 今も美味しそうにカレーを頬張るタクトにそこら中から視線が集まっていた。

「…スガタ、もう食べないの?」

 スプーン片手に首を傾げながらタクトがスガタに問いかける。
 その声にはっとしてタクトを見ると、彼女の視線はスガタの前にあるサンドイッチの乗った皿に向けられていた。
 いつの間にかタクトの皿は綺麗に空っぽだ。

「…食べたいのか?」
「う…」

 白いパンとスガタを何度か見比べて、タクトがこくりと頷く。真紅の眸がきらきらと期待を浮かべていた。
 その細い身体のどこに入るのだろう、という量をタクトもワコも平気で食べてしまう。
 スガタは苦笑してサンドイッチをひとつ差し出した。

「ほら、やるよ」
「本当!?やったー、ありがとうスガタ!」

 喜んだタクトは差し出されたそれにぱくりと噛みついた。
 瞬間、周囲が沸く。さすがにスガタも金色の眸を瞠った。
 もぐもぐと嬉しそうに咀嚼するタクトはまったくその声に気付いていない。

「…タクト」
「んん?」
「…自分で…いや、もういい」

 ため息をついたスガタに、タクトは首を傾げる。綺麗な三角形だったそれは小さな口が消費していった。
 ―――まさかスガタの手から食べるとは思わなかった。一旦受け取ってから食べるかと。
 何のためらいもなく、彼女はスガタの持っていたサンドイッチに齧り付いたのだ。周囲の目も喧噪もなんのその、のん
 きに咀嚼し続けている。
 スガタと同じく目を瞠っていたワコがほんの少し慌てたようにタクトへ向き直った。

「た、タクト君」
「なぁにー?」
「何って、えっと…一応ここ学食だから!いくら仲良しでもほら、ね?」
「…あ、そうだね。行儀悪かったかな…」

 そういう問題じゃない、とおそらく周囲にいる誰もが思っただろう。
 どうやらタクトは自分が何をしでかしたのかわかっていないらしい。ここまで無防備なのも問題だ。
 深くため息をついたスガタに、タクトが眉尻を下げる。

「えっと、スガタ?なんかごめん…」
「…タクト」
「でも、スガタだからいいかなって。…さすがに他の人にはしないよ?」

 慌てたような様子でこちらを伺ってくる。大きな真紅の眸に見上げられると、なんだか胸がざわついた。
 小さく笑ってタクトの頭を軽く叩く。

「別にいいよ。けど、僕だけにしておいて」





 彼女を見ていて思うことがある。
 誰にだって等しく優しくて、いつだって笑っている。けれどほんの少し、スガタには違った反応を見せる彼女。今まで
 スガタに踏み込んでこようとする人はワコぐらいだった。けれどタクトはもう傍にいるのが当たり前になっている。誰かと
 の仲が深まっていくのが、こんなにも嬉しくて楽しいことだなんて知らなかった。
 タクトは無防備でたまに抜けたところがあるから。

 だから―――目が離せない。

 もっと、もっとと切望する自分がいる。先を望む自分が。
 彼女との間になんの隔たりも存在しなければいいのに、と思うほど。―――彼女の全てが欲しいと願った。














     5.狼まであと何秒?





 夏休み中、火事で寮を焼け出されてしまった。
 大切な懐中時計以外はダメになってしまったけれど、スガタが居候させてくれて本当に助かっている。
 広い洋館は何度も訪れていたし、生活させてもらっているにもかかわらず、未だに全ての部屋を見たわけではな
 い。もちろん、必要以上に散策する気もないのだが。スガタの好意で住まわせてもらっているのだから、勝手なこと
 はしない。



 今日は土曜日だ。時折部活があったりするが、基本的に休日である。
 タクトは麗らかな昼下がりを与えられた部屋でまったりと過ごしていた。スガタが幼い頃を過ごしていたという部屋は
 所どころに模型や子ども用のものだろう本が置かれている。
 今のうちに課題を終わらせてしまおうかと、タクトがテーブルに向った時だった。通りかかった本棚の中に、薄い冊子
 が目に入った。他の本と違って少し痛んだそれが気になり、近づいてみる。

「…うわー!懐かしい!」

 引き出してみると、それは絵本だった。
 アンデルセンにイソップ、グリムなどの有名どころがそろっている。しかしどちらかと言えばラインナップは女の子向けの
 ような。手にした『赤ずきん』の本をぱらぱらとめくると、本の最後のページにワコの名前を見つけた。
 幼馴染の彼らは、きっとこの部屋で一緒に本を読んだのだろう。以前見せてもらったアルバムのことを思い出して、
 タクトは一人目を細めた。
 もし、タクトが幼い頃からこの島にいたら。そしたらスガタやワコとはどんな関係だったのだろう?今のように、近くに
 居られただろうか。それとも距離が開いてしまっただろうか。
 今の自分たちの関係は、タクトがこの島にやってきたからこそのものだと思っている。

「…スガタ」

 青い髪の彼のことを思い浮かべる。そうしていると急にスガタの顔が見たくなった。タクトは本を手にしたまま、部屋
 を飛び出した。








 コンコン、とノックを二回。

「スガター?」

 心持ち控えめに叩いた。いつもならすぐに開けてくれるのに、今日はなぜか応答がない。
 ドアの前で、タクトは首を傾げた。

「…いないのかな?」

 ほんの少しだけドアを開ける。しかし静まりかえっているため、在室しているのかわからない。けれど人の気配は感じ
 られた。
 そっと、もう少しだけ開いてみる。すると、不意に風を感じた。部屋の中を覗き見ると、テラスが開いているのが見え
 た。薄いカーテンが風に翻っている。

「…スガタ、いないの…?」

 勝手に入るのはよくないと思いながらも、タクトは部屋に足を踏み入れた。
 柔らかな日差しがふんだんに入る室内は、おそらく屋敷の中で一等上質な部屋だ。
 広い部屋の中、あの深い海のような青を探すが、見当たらない。やはりいないのだろうかとため息をついた時だっ
 た。
 微かに声がした。そんな気がして導かれるように部屋の中を進む。

「……あ」

 思わず上がりかけた声を押さえるために、口を手で覆う。
 三人は余裕で座れるであろう広いソファーの上に、探し人が目を伏せて転がっていた。すうすうと穏やかな寝息を
 立てて、眠っている。
 胸に辞書のような厚さの本がのっていた。重たくないのだろうかと思いつつも、音を立てないように近づく。開いたま
 まの本が風に捲られて微かな音を立てている以外には、彼の寝息しか聞こえない。

「…キレイ」

 絵画のようだと思った。白い肌に、珊瑚色の唇。長い睫毛がうっすらと影を落としている。
 いつもは強くタクトを、先を見据えている金色の眸が今は閉じられているせいか、造りもののような美しさがそこに
 あった。
 そろそろと覗きこむが、目を覚ます様子はない。タクトは床にぺたりと座り込んだ。
 風に乱されたらしい青い髪が頬にかかっていた。丁寧にそれを払ってやる。タクトと違って真っ直ぐな彼の髪は、手
 触りがよくてずっと触れていたいと思う。

「…スガタ」

 とても綺麗だけど、彼の眠っているところを見るのは苦手だ。目を覚まさなかった、あの日のことを思い出すから。
 王の柱を発動した日、スガタは深い眠りに落ちてしまった。あの時はゼロ時間でぶつかり合うことで、結果スガタは
 無事に戻ってきてくれた。それにあの時から、二人を隔てるものがなくなった。けれど、あの時の恐怖とやるせなさが
 消えることはないだろう。
 タクトが夜になる度いつもスガタの部屋を訪れるのも、共に眠ろうとするのも、全てあの日のことがあったから。
 スガタにはその不安を離したことはないけれど、きっと聡い彼はタクトの心情を知っている。だから部屋を訪れても、
 いつからか何も言わなくなった。
 呼吸を確かめるかのように、髪を撫でていた手を頬や口元に滑らせる。
 ―――ちゃんとあたたかい。息をしている。
 知らず張り詰めていた神経を解き、手を離そうとした時だった。

「―――タク、ト…?」

 ゆっくりと開かれた金色が紅を見つけてぱちり、と瞬く。まだ覚醒しきっていないその眸に、途方に暮れたような顔の
 タクトが映り込んでいた。

「…起こしちゃった?ごめんね」
「いや……寝ていたのか…僕は…」
「うん。あんまり気持ちよさそうだったから眺めてた」

 不安を茶化してしまおうとして笑ったつもりだった。けれどどうやら失敗してしまったらしい。
 もう意識を取り戻したらしい金色がしっかりとタクトを見ていた。スガタの手がゆるりと持ち上がり、先程タクトがして
 いたように、髪や頬を撫でていく。優しい手に思わず安堵して肩を落とした。

「…それは?」
「へ?」

 ふと、タクトの顔を映していた金色が下がり、タクトの持つ本に移された。

「…赤ずきん?」
「あ、そうそう!これ、あの部屋で見つけたんだ」
「へぇ…懐かしいな。まだ取ってあったのか…」

 絵本を差し出すと、スガタが小さく目を瞠った。ソファーに寝そべった体勢のまま、表紙とタクトを見比べる。
 首を傾げると白い手がタクトの紅い髪をするりと掬った。

「―――タクト、ちょうど赤ずきんみたいだ」
「…え?」
「だってほら、紅いだろう?」

 どうやらスガタがタクトの紅い髪を紅い頭巾に比喩しているらしい。
 揶揄するような視線に、タクトは悪戯っ子のように笑った。
 立ち上がると、ソファーに膝をかけてスガタを覗きこむ。にこりと笑いながら見下ろすと、金色が瞠られた。

「…どうしてそんなに耳が大きいの?」

 笑いながら問いかける。スガタは一瞬キョトンとした後、すぐに口角をあげた。
 赤ずきんを模した問いかけは言葉遊びのようなものだ。

「耳が大きいのは、お前の声がよく聞こえるようにだよ」
「じゃぁどうしてそんなに目が大きくて光っているの?」
「…可愛いタクトをよく見るために。…いつだって見ていたいんだよ」

 スガタの嘘とも本気ともとれるような言葉に、タクトが気障だと笑う。スガタも小さく笑いながら目の前の頬を撫で
 た。

「えっと、次はなんだっけ?」
「うーん…確か手じゃなかったか?」
「あ、そうだった!…えっと、そうしてそんなに大きな手をしているの?だったっけ」
「じゃぁ…タクトに触れるため、ってことにしておこうかな」

 オオカミとは似ても似つかない白い手が、タクトの髪を梳いたり、肌をすべる。その感覚がくすぐったくて、思わず身を
 よじった。

「もう!くすぐったいよスガタ!」

 肩をすくめるようにして避けると、金色が甘く見つめてくる。月のようなその眸にタクトは見惚れながらも最後の問い
 を口にした。

「…どうしてそんなにお口が大きいの?」
「それは―――」

 首を傾げながら聞いたタクトに、スガタがにこりと笑う。
 思わず、と言ったように身を引きそうになったタクトの腕が強く引き寄せられた。
 重力に逆らわず、不安定だった細い身体はスガタの上に落ちていく。
 抱き締めるように腰にまわされた手から離れようと、タクトは見た目よりがっしりとした胸を押し返した。

「ちょ、スガ―――」
「タクトを食べてしまうためだ、って言ったら…どうする?」

 眼下には楽しそうに金色の眸を細めたスガタがいる。
 タクトは背に冷や汗が流れたような気がした。

「…イッツ ア ピーンチ?僕、食べられちゃうの?」
「そうだなぁ…残念ながら猟師は来ないよ」

 休日の昼下がりだ。メイドの二人はスガタが声をかけない限り部屋に来ることはない。
 今日はワコも用があると言っていた。つまり、猟師の役は誰もいないのだ。
 どうする、と楽しそうな金色が問いかけてくる。融けて熱の交じったようなその眸から逃れる術を、タクトは知らない。

「…赤ずきんはオオカミに食べられる運命なんだよね」
「そうだな。迂闊に男の部屋に入っちゃダメなんだよ」

 ぐっ、と近づいてくる端正な顔に困ったように笑いかける。

「…勉強になりマシタ」

 重なった熱に目を閉ざすと、スガタが笑う気配。
 タクトがスガタの首に腕を回すと、すぐに身体が反転した。背中に少し硬めの布張りの感触。薄く開いた視線の
 先には、青い髪のオオカミがいる。

「―――いただきます、って言うべきかな?」

 本気ともつかない声に思わず笑って。そうして昼の眩しさはどこかへ消えてしまった。





おまけのワコ様

「あれ?スガタ君、タクト君は?」
「……寝てるよ」
「えー?もう夕方だよ!?」
「うん、そうだな…夕方だな…」

『私が来なかった間に何かしたな…』