「確かに恋だった」様の無防備なきみに恋をする5題








     3.無意識のゼロセンチ






 最近、幼馴染が変わった。
 どこが?と聞かれると他の人にはわからないかもしれない。そのくらいわずかだけど、ワコからすれば大きな変化。
 その変化がとても嬉しくて、愛しいのだと。きっと自分にしかわからない。







「ねぇ、ワコ…いいの?」
「ふへ?」

 今は昼休みだ。持ってきたお弁当をわくわくしながら開ける。今日は好きなおかずを2品詰めてきたのだ。
 早速食べ始めると、一緒に食べていたルリが急にそう問い掛けてきた。
 意味がわからず、とりあえず口の中のものを咀嚼する。

「いいのって…何が?」

 思い当ることがない。首をかしげて見せると、ルリは呆れたとでも言うように肩をすくめた。

「まったく…おぬしというやつは!」
「え?え?なんなのよ」

 ルリの示唆するものが本当にわからない。眉を寄せて見せると、ルリがため息をついて指差した。
 彼女の指の方に目を向ける。そこにいたのは何やら大量の荷物を持ったタクト。おそらく教師につかまり、頼まれた
 のだろう。彼女は頼まれると嫌がらない。よくああして手伝いをこなしているところを見かける。
 そんなタクトがどうかしたのかと、ワコは首を傾げた。

「…タクト君、大変そうだねぇ。手伝った方がいいかな?」
「いや、大丈夫よ。…ほら」

 そのまま見ていると、タクトの後ろからよく見知った青が駆け寄って行くのがわかった。
 振り向いたタクトが、彼を目にして笑う。彼はタクトの手から重そうな荷物を見繕って、取り上げた。
 慌てたように何か話しているが、声までは聞こえない。
 けれど二人並んで歩き出した時に、彼の金色の眸が柔らかく細められた気がした。

「わー、スガタ君優しいなぁ」
「そうねー。さすが王子様ね…って違う!」

 ビシ!と振りまでつけたつっこみを受けて、ワコは目を瞬かせた。

「な、何が…?」
「んもう!だからね、いいの?―――スガタ君、ワコの許嫁でしょ」
「…まぁ、一応そうだけど」
「なのに最近いつもタクト君とばっかり一緒じゃない。許嫁を差し置いて他の女の子といていいわけ?」
「…別に、それはスガタ君の自由だし…タクト君だし」

 タクトはワコやスガタの――島の秘密を知っている。当事者と言っていい。
 だからあの二人が一緒に居ても何の違和感もないのだが、何も知らない者からすれば不思議で。
 第三者からすれば、許嫁のいる身で他の女の子と仲良くしている男はやっかまれるのだろう。

「スガタ君がタクト君と仲いいとダメなの?」
「んー、まぁお似合いではあるけどね?私もたまに聞かれるんだよね、あんた達三人の関係」
「へ?」
「だってスガタ君、両手に花でしょ?それにほら、なんだかんだ言ってスガタ君モテるし…タクト君も色々注目されて
 るのよ」

 スガタが人の目を惹くのは昔からだ。眉目秀麗、文武両道に加えて島屈指のシンドウ家当主ともなれば嫌がおう
 にも目立ってしまう。けれど彼に気にした様子はなく、いつでも涼しげな顔をしていた。
 重い運命を背負ってきた自分たちはいわば同志だ。恋愛感情が間にあるとは言い難い。そんな空気が漂ってい
 るためか、許嫁であることは広まっているものの、彼を恋い慕う女子は多かった。
 そしてまたタクトも目立つ存在だった。本土からやってきた編入生というだけでも話題になるというのに、鮮やかな紅
 の色彩が彼女を惹きたてている。あまり自覚はないようだが、その美少女ぶりは誰もが目を奪われるのだ。性格も
 明るい上に弱きものに優しく、人懐っこい。けれど時折見せる危うい雰囲気が、周囲に――男女関係なくどんな
 影響を与えているのか知らぬは本人ばかり。
 そんな二人が最近尚更親しくなった。もちろん間にワコが入ることも多い。だが、夏休みに寮生だったタクトの部屋
 が火事でダメになってからはスガタの家で共に暮らしているのだ。当然一日のほとんどを共に過ごしているのだか
 ら、親しくなるのも当然だと思う。
 けれど周囲はそんな事情を知らない。知っていたらそれはそれで様々な憶測が飛ぶのだろうが。

「ワコとしては…どうなの?」
「…私?」
「スガタ君とタクト君が…まぁその、恋人とかになっちゃったら」

 ルリが言いにくそうに、けれど気になる、といった目でワコを見やる。
 ワコはふと彼らが去っていった方向を見て、思考を巡らせた。


 正直なところ、ワコはスガタがタクトをどう思っているか気づいている。タクトの想いもまた、予想していた。
 二人の間に何があったのか、どんな会話をしたのかは知らない。けれどお互いに相手を信頼して、心を許している
 のはわかった。
 ワコはスガタにそんな相手が出来たことを、心から嬉しく思っている。
 今までずっとスガタは一人だった。ワコが共にいたとしても、どんなに近い存在だとしても、彼はワコに弱さを見せて
 はくれなかった。それは彼にとってワコが守るべき存在であって、共に戦う存在ではなかったから。
 それに気付いたのは、彼らが二人でいるところを見ているからだ。――― 一番近くで。









 タクトがスガタの家に居候することになった当初、さすがのワコも心配したのだ。
 あまり性別を感じさせないところがあるものの、タクトは年頃の女の子である。いくらメイド二人がいるとしても、モラ
 ルの問題だ。
 だから一度、お泊まり会と称してワコもシンドウ家に泊まりに行くことにした。幼い頃は何度かあったけれど、さすが
 に中学生になる頃には泊まりに行くことはなくて。だから懐かしくもあった。
 もしもタクトが過ごしにくいようであれば、自分の家に来ればいい。そう思って、休日をシンドウ家で過ごすことになっ
 た。

「ワコ、お風呂入ってくださいってー」

 軽いノックの後、ドアからひょこりと紅の髪が覗く。
 顔だけを出したタクトがそう言ってにこりと笑った。

「はーい。…じゃぁタクト君、一緒入ろうよ!」

 ワコが誘うと、タクトは目を瞬かせた後、嬉しそうに微笑んで了承した。
 風呂へと向かう道すがら、タクトがそっと口を開く。

「…なんかこういうの、久しぶり」
「そうなの?」
「うん。…たまにね、女の子同士でお泊まり会みたいなのしてたんだ」
「そっかぁ。…じゃぁさ、今度はルリも誘ってお泊まり会しよっか」
「いいね。楽しそう」

 くすくすとお互いに笑いながら、辿りついた広い風呂。
 ゆったりと伸びをするタクトの胸元には、大きな傷がある。シルシと重なるようにある傷はまだそう古いものではな
 い。
 じっと見ていたことに気付いたのか、タクトが苦笑した。

「…気になる?」
「あ、ごめん…」
「ううん、さすがに僕も一応女の子だから気にしてはいるんだ。…でも、消そうとは思わない」

 傷をそっと押さえ、目を伏せるタクトは綺麗だった。大切な思い出が、あの傷には刻まれている。
 そうとわかるから、ワコはただ頷いて笑った。

「スガタも…気にしなくていいって言ってくれたしね」

 ぽつりと呟いたそれは、水の音にかき消されてワコの耳には届かなかった。





 鮮やかな紅の髪が、水気を含んで一層艶やかさを増している。
 柔らかい上に癖が強くて辟易しているとぼやいていたタクトの髪も、濡らしている時はそうでもないらしい。
 ワコは自分の黄色の髪をつまんで、乾いていることを確認する。
 風呂上がりの水分補給をしていると、スガタが顔を覗かせた。

「二人とも、あがったんだね」
「うん。いいお湯でした!」
「それはよかった」

 スガタはにこりと笑うと、ソファーでグラスを傾けているタクトに視線を移した。

「こら、ちゃんと髪は乾かせって言ってるだろう?」
「う…あとでやるよ」
「そう言っていつもやらないのは誰だ」

 風邪ひくぞ、とため息交じりに呟いてスガタはタクトの肩にかかっていたタオルを取り上げた。
 柔らかなタオルが紅い髪を覆う。小さな悲鳴と同時に、大きな手がタクトの頭を揺らした。

「ワコ、ドライヤーを持ってきてくれないか?」
「うん、わかった」

 どうやら力を込められているらしく、タクトが何度も痛いとこぼしている。
 楽しそうにその悲鳴を聞いているスガタに苦笑しながら、ワコは部屋を後にした。



 ドライヤーを片手に戻ると、ドアの向こうで小さな話し声が聞こえる。
 なんとなく開けづらくてそっと聞き耳を立てた。
 くすくすと軽い笑い声が二人分。そしてスガタが初めて聞くような甘い声でタクトの名を呼んだ。
 音を立てないようにゆっくりドアを開ける。隙間から向き合った二人が見えた。
 スガタはタクトの髪に指を絡めて何か告げる。タクトは頬を赤くした後、ふわりとそれは綺麗に微笑んだ。見つめあ
 う二人の甘やかな空気は優しくてあたたかい。
 そのぬくもりに触れたくて、ワコはわざと音を立ててドアを開けた。二人の空気はワコを拒絶などしない。それがわか
 るからこそ、三人で居られる。

「こーら、私がいない間に二人でいちゃつかないでよ!」
「あはは、ワコ、ドライヤーありがとう」
「もー、聞いてよワコ!スガタってばひどいんだよー」

 差し出された二人の手に、ワコも手を伸ばした。





 明日が休日ということもあって、三人は夜中まで起きていた。話が尽きることはなかったし、何よりも楽しかったか
 ら。
 けれど午前1時を過ぎた頃、タクトが船を漕ぎ始め、そのうち目を伏せてしまった。
 すっかり寝入ってしまったタクトにワコとスガタは目を見合わせて笑う。穏やかな寝顔は少し幼くて可愛かった。

「僕たちもそろそろ寝ようか。…タクトは僕が部屋に運ぶよ」
「うん」

 スガタは軽々とタクトの細い身体を抱える。横抱きにされたタクトに目覚める様子はない。なんだかスガタが手慣
 れている気がしてじっと見つめていると、彼は苦笑した。

「こういうこと、よくあるんだ。寝る前に話してると絶対にタクトが先に寝てしまうから」
「そうなんだ…」
「このままここに寝かせておくのも可哀想だろ?」

 器用にドアを開けながら、スガタが小さな声で話す。
 タクトに貸している部屋に向かう途中、ワコはそっとスガタのパジャマの裾を引いた。

「ね、もう少し話さない?」
「え?」
「スガタ君と二人で話すの、久しぶりなんだもん」
「…そうだったかな」
「うん。…少しだけ」
「…わかった」

 仕方ないな、とでも言うように金色が細められた。ワコは小さく笑うと目的の部屋のドアを開ける。
 スガタが幼少の時を過ごした部屋は、ワコにとっても思い出深い場所だ。
 小さな寝息だけが響く。そっとタクトをベッドに降ろしたスガタは、そのまま端に腰かけた。ワコも反対側に座る。

「タクト君、よく眠ってる」
「ああ。…ワコが泊まりに来てくれたこと、嬉しかったんだって」
「え?」
「誰かと一緒に過ごす時間はあったかいってタクトが言ったんだ」

 スガタの囁くような声に、ワコは目を瞬かせた。
 武道をしているのに綺麗な白い指がタクトの頬を撫ぜる。くすぐったそうに声を漏らした少女にスガタは目を細め
 た。

「これからもずっと僕はこの島でワコを守りながら生きるんだと思ってた。…それしかないって」
「…スガタ君」
「けれどタクトが現れて…僕がやりたかったことを、してくれてる。こんなに細くて頼りない身体でサイバディに乗って
 戦ってる。僕はタクト羨ましくて、妬ましくて…たまらなく憧れてるんだ」

 それは初めて聞いた、スガタの胸中で。
 今まで彼は誰にもその心の奥を見せなかった。―――ワコにさえ。
 堪らない、と思った。じわりと胸に込み上げてくるのは歓喜。ようやくスガタは見つけたのだ。自分を曝け出してもい
 いと思える相手を。

「私、タクト君に出逢えてよかった。古い何かを壊して、新しい何かをくれそうって思ったの。だから私は、タクト君が
 大好きだよ」
「ワコ…」
「―――スガタ君も、そうでしょう?」

 ワコの静かな問いに、スガタは笑うことで答えた。
 今まで見たことのないくらいに柔らかくて、あたたかい。そんな綺麗な笑みで。










 ワコはあの日のスガタの笑みを忘れないだろう。これまでで一番幸せそうだった。いや、きっと幸せなのだ。
 まだ二人から互いの気持ちのことをはっきりと告げられたわけではない。けれど知っている。二人の心の距離が限り
 なくゼロに近いことを。
 ―――だからワコは待っている。
 スガタがタクトを愛したことを、タクトがスガタを想っていることを。二人が笑って告げてくれるのを。

「私、今はまだ様子見中なのよね」
「え?」
「これは綺麗ごとかもしれないけど、同じくらい好きな人達が同じくらい幸せになってくれるのが嬉しいもの」
「え?」

 ルリが意味がわからない、とばかりに首を傾げる。ワコはぱくりとお弁当の続きを食べながら空を見上げた。
 まだなにも終わってなどない。けれどタクトが希望を連れて来てくれた。そしてスガタを変えてくれた。
 それがどんなにすごいことで、どんなに嬉しいことか、きっとタクトは知らないのだろう。

「すごいことやりにきた…か」

 それがすでに成されているのだと、二人が想いを交わしたあかつきには自分が教えてあげよう。
 ワコは微笑んで、今日一番楽しみにしていたおかずを口に入れた。












     4.きみの心に触れさせて







 ひょい、とドアから紅い髪がのぞいた。
 スガタは読んでいた本から顔をあげると、首を傾げる。部屋の時計はすでに11時を過ぎていた。

「タクト?」
「…入ってもいい?」
「……もう寝る時間だろ?…仕方ないな」

 嘆息しつつも手招きしてやると、タクトは嬉しそうに笑った。
 風呂から上がったばかりなのかまだ髪が濡れて、色濃くしている。毎日きちんと乾かすようにと言っているのに一向
 に聞き入れる気配はない。
 スガタはベッドサイドに置いてあるテーブルに用意しておいたドライヤーを片手に、タクトを座らせる。

「いつになったら自分で乾かすんだ?」

 ドライヤーの音に負けない大きさでスガタが言うと、気持ちよさそうに目を閉じていたタクトがくすくすと笑った。

「んー…寮に戻ったら、かな?」
「本当に自分でやれよ?…他のヤツにさせたら僕はその人を殴り飛ばすかもしれないぞ」
「…僕、何気に愛されてる?」
「今頃知ったのか?」

 笑いを含んだ声に、タクトはくるりと振り向く。そのまま抱きついてきたタクトを受け止めたスガタが、額に唇を落とし
 た。柔らかな感触に、タクトの真紅の眸が細まる。

「仕方ないから、スガタだけの特権にしてあげる」
「そうしてくれ」

 ベッドの上に膝立ちしたタクトは、笑いながらスガタの頬に唇を寄せた。
 こうして穏やかに甘い時間を過ごすようになったのはいつからだろう。出逢ってまだそう長い時間が過ぎたわけでは
 ないのに、二人はそうなると決まっていたかのように惹かれあった。
 二人の関係はまだ誰にも告げていない。でもきっとワコや演劇部のメンバーにはバレバレなのだろう。

「なぁ、タクト」
「ん?」

 呼ぶと見上げてくる赤い眸がゆるりと細まった。
 夏に火事で寮を焼け出されてから、タクトはスガタの家に居候している。生活を共にするようになって、急速に仲
 が深まったからか、タクトはスガタに甘えるようになった。
 髪を乾かすのもその一つだ。喉元をくすぐられた猫のように目を閉じて身を任せるタクトが愛しくて堪らないと思う。
 短いが量が多く、癖のある紅い髪はスガタとは正反対だ。タクトはスガタの髪を羨ましがるけれど、スガタはタクトの
 陽に透けると金に見える紅が好ましい。
 そんな赤い髪を指で梳きながら、スガタは小さく問いかけた。

「全部が終わったら…お前はどうするんだ?」

 それはスガタの胸中にいつからか漠然とあった問いだった。
 島の外から来た少女は島に囚われていると言っても過言ではないスガタには眩しすぎた。それはきっとワコも同じ
 だ。タクトはいつでも島を出ることが出来る。だから終わってしまえばもうこの腕の中からいなくなってしまうのではな
 いかと時折不安になるのだ。
 何かに執着を覚えたことなどない。けれど鮮烈な紅によって諦めかけていたすべてのことが諦めきれなくなった。
 タクトをじっと見つめていると、少女はスガタの首に腕を回した。

「スガタは…?何したい?」
「僕…?考えたこともなかったな…」

 吐息の触れる距離で交わす声はひどく甘い。内容は甘いものではないのに。
 考えたこともないというのは本当だった。名前の意味を知った時に覚悟を決めたのだ。
 だからそう答えると、タクトが困ったように微笑んだ。

「終わったらもうスガタもワコも役を降りていいんだよね」
「…ああ。決められた役はそこで終わる。けど…僕はこの生き方しか知らないから、きっと飛べないよ」
「…そんなの、やってみなきゃわかんないよ」

 むっとしたように寄せられた眉に苦笑を返す。
 宥めるように頭を撫でるとあたたかく柔らかな身体がすり寄って来た。

「じゃぁ僕がスガタの翼になる。僕も君とずっと一緒にいきたいよ…」

 零された言葉は静かな部屋によく響いた。
 真紅の眸がスガタの金の眸を絡め取る。そのまま顔を近づけると、唇が重なった。
 触れるだけのキスは心地がいい。スガタは膝にタクトを座らせ、柔らかな胸元に頬を寄せた。
 シルシに重なるようにある傷の下で、鼓動が鳴り響く。傷に唇を寄せると、タクトがスガタの青い髪を優しく撫でた。
 クロスした傷跡の中心に花びらのような痕を残す。甘い吐息をもらしたタクトに笑いかけると、ふわりと笑い返してく
 れた。

「ね…もっとスガタが思ってること、聞かせてよ。それがどんなことでも僕は聞きたいと思うよ…」

 とろりと真紅が融けてくる。何か言葉を返そうとしているうちに、それは瞼の下へと閉ざされてしまった。力の抜けた
 身体を抱えなおす。タクトは納まりが悪いのかもぞもぞと動き、ようやく合う場所が見つかったのか完全に寝いったよ
 うだ。腕の中で穏やかな寝息が繰り返され、夜の静寂に消えていく。
 何も知らない子どものようなあどけなさを浮かべた顔で眠るタクトをスガタはじっと見つめた。
 込み上げてくるのは途方もない愛しさと、胸を満たす暖かさ。
 タクトがこの島へ来たことで動き出したのは運命だけじゃない。スガタの固まっていた心も動き出した。
 今まで誰にも伝えられなかった言葉を、タクトはいとも簡単に引き出してしまう。

「タクト…」

 この細い身体に全てがかかっている。島だけじゃない。世界の命運が。
 力があるのなら使いたい。今まではワコのためだった。けれど今は―――この輝きと共に在るために。
 ずっと傍にいたい。許されるのなら、手放したくなどない。
 スガタが背負うシルシは重く、これから先何が起こるかスガタにもわからなかった。けれどタクトがいれば、決められた
 役割を演じてもきっと大丈夫だろう。

「僕もお前と一緒にいきたいよ」

 小さく囁くと、タクトが肌寒いのかスガタにすり寄ってくる。ふいにシャツの裾を掴まれて、その力の強さにまた愛しさ
 を感じた。

「…離れるなんて、出来そうもないな」

 腕に抱いた肢体をそっとベッドに横たえる。今更彼女に与えた部屋に運ぶのも億劫だ。
 それにこのぬくもりが傍にあると、悪夢も寄ってこない。
 スガタはベッドにもぐりこむと、タクトを抱き寄せた。明日目覚めたとき、彼女はどんな反応を返すだろう?

「おやすみ。…いい夢を」

 細い肩を抱き、隙間のないくらいに身を寄せる。
 ちょうど顎の下にタクトの頭が納まった。甘く暖かな日の匂いがする。タクトからもシーツと同じ日の香りを感じて思
 わず口元が緩んだ。紅い髪に頬を寄せて、スガタは目を閉じた。














     旅立ちの日 (最終回直後捏造)







 宇宙から見る地球は素晴らしい。
 青く澄んだ星は、生命に満ちている。この星がもしリビドーを奪われ、死滅してしまっていたら。
 ―――今こうして共に星を見つめている彼がいなくなっていたら。
 タクトにとって何よりも怖いことは、地球が死を迎えることじゃない。
 美しく変わっていく空を見ようと約束した人が、大事な友人や家族が手の届かない所へ行ってしまうこと。
 タクトは小さな吐息をこぼした。
 手はまだ震えている。身体はひどく疲弊して、休養を求めている。
 けれどまだこの星を見ていたかった。失わずに済んだ彼と―――。

「…タクト」

 それまで黙っていた彼がふいに名前を呼んでくる。ゆるゆると視線を向けると、彼が手を伸ばしてきた。白い手は
 金の爪に覆われていて、ひどく冷たそうだ。
 差しのべられたその意図がわからず、タクトは首を傾げる。

「…そっちに行ってもいいか?」
「…どうして?」
「……なんだかタクトを抱きしめたくなった」

 柔らかく笑う金色がなんだか泣きそうに見えて、タクトはそっと目を伏せた。
 触れたいのは、自分も同じだ。ただ、手を伸ばすのを躊躇うほど、地球を見つめる彼が綺麗だったから。

「…スガタ」

 了承の証に、タクトも手を伸ばす。自分たちを包む透明な球体は、触れ合ったところから融合していった。硬質な
 音を立てて、冷たそうだと思った金の爪が外される。現れた真っ白な手がタクトの手をしっかりとつかんだ。
 ―――あたたかい。じわりと沁み入るような体温に知らずため息が漏れる。柔らかく背を抱かれ、タクトの頬がスガ
 タの胸元に触れた。
 鼓動が聞こえる。一定のリズムを刻むそれを肌で感じて、タクトはたまらずすり寄った。

「タクト…?」
「ごめん…今、顔見ないで」

 目頭が熱い。直接感じる鼓動が嬉しくて、タクトの胸が震える。

「…泣いてるのか」

 違う、と言いたかった。けれど頬が濡れる感触に涙があふれていることを知る。
 ひくりと肩がふるえると、抱く腕の力が強くなった。
 ―――失うかと思った。スガタの意図に気付いた時ケイトは泣きだし、ワコも動けずにいた。ザメクが封印されるこ
 とは確かに望ましい。けれどスガタを犠牲に封印しても、残されたものはどうしたらいいのだろう。ずっと彼を想って
 生きなければならなくなるのだと、スガタは気付いていたのだろうか。
 望まれた役を演じるのが得意だと言ったスガタは、残されたワコが、ケイトが―――タクトが哀しむことを承知だった
 のだろうか。
 きっと彼は気付いてない。誰かがどれだけ嘆くか、涙を流すか。
 許せないと思った。一人で決めてしまったスガタが。例えそれが島のため、ワコのためであっても。タクトには許せな
 かった。
 ―――もう会えなくなることなど、どうしても許せなかった。

「タクト…泣かないでくれ」
「…泣いてない。…泣いてたとしても、スガタには見せたくないよ…」

 自分がどれほど慕われているか知らない筈ないのに。勝手に決めたスガタを「らしい」とも思うけど。
 頑なになりかけているタクトの頭上で小さなため息が聞こえた。
 背中に回っていた腕が解かれる気配に、タクトはこぼれそうな嗚咽を呑みこんだ。
 頬で感じていた鼓動が離れる。その途端、顎を取られ上向かされた。

「―――っ」
「嘘つきだな、タクトは。…泣いてる」

 困ったような笑みを浮かべたスガタがそっと目尻に触れてくる。
 タクトはスガタを睨みつけた。

「スガタ、のせい、だろ…」
「ああ、そうだな。僕のせいだ」

 宥めるように軽く髪を撫でられ、次いで目尻に啄ばむような口づけが落とされる。
 驚いて目を瞠ると、スガタの手が頬に滑ってきた。
 戦いの最中に傷つけたそこはじくじくと痛む。今更その痛みに気付いて顔を顰めると、スガタは眉をひそめた。
 左側に二本、右側に一本。その他にも細かな傷はあるし、身体にもたくさん怪我があるだろう。満身創痍だ。そん
 なタクトをスガタの金色の眸が労わるように見つめた。

「…この命はいつ終わってもいいと思ってたよ」
「スガタ…」
「ワコのことは、お前が守ってくれる。島のこれからを引っ張って行く人間もいる。…だから僕は僕に与えられた役目
 を果たせばいいって思った」

 静かに語られる言葉は、まぎれもなくスガタの本心なのだろう。
 なんて自分勝手なんだと、怒鳴ってやりたい。けれど触れ合った箇所から感じるぬくもりに怒りが融かされていく。

「でもこうしてタクトが僕とは違う選択をしてくれた。誰もが僕の犠牲を受け入れたのに、タクトだけは違った。…嬉し
 かったよ。こんな風にぼろぼろになってまで僕を助けに来てくれた」

 本当に嬉しそうにスガタが笑う。
 今までこんなに穏やかで優しい顔をしたところを見たことはない。
 綺麗な綺麗な笑みはタクトの涙を止めた。真紅の眸にまだ薄らと涙の痕がある。けれどタクトは精一杯微笑ん
 だ。

「―――当たり前でしょ。スガタがいなくなるの、嫌だもん」

 勝手にいなくなるのが許せなかった。
 もっと三人でいろんなものを見て、笑って、泣いて、話がしたいのに。誰かが欠けてしまったら、出来なくなる。
 そう言って笑って見せるタクトが愛しくて、スガタは胸が熱くなった。
 込み上げてくる愛しさは空っぽだったスガタの胸中を赤く染めた。昼と夜の境の空と同じ色の少女が目の前に現
 れた時から、全てが動き出した。
 誰かをこんなにも想う日がくるなんて、想像もしていなかった。
 出逢わなかったら知ることのなかった気持ちはスガタを変えていく。その変化をワコは喜んでくれている気がした。

「…ありがとう」
「え?」
「タクトに逢えて、僕もワコも救われたんだ。…ありがとう、タクト」

 万感の思いを込めた言葉に、タクトの眸から涙がこぼれる。
 透き通ったそれが地球のほの蒼い光に照らされ、ふわりと舞った。
 飛び付くようにして抱きついてきたタクトを受け止めて、スガタは地球に目を向ける。ワコや皆が待つそこはひたすら
 に青く、美しかった。







 壊れてぼろぼろになったタウバーンに二人乗り込む。
 力を合わせれば、なんとか島に帰るくらいの余力はあるようだ。
 スガタはゆっくりと進む機体の中で近くにあるタクトの顔を見つめる。その視線に気づいたタクトが首を傾げた。

「…何?じっと見て…」
「ああ…女の子なのに、顔に怪我してしまったな」
「んー…まぁ大丈夫でしょ。でもさすがに痕残ったら嫌かも」

 タクトが自分の頬をおそるおそる触る。ピリッとした痛さとじくじくした痛さがやってくる。
 顔を顰めるタクトをじっと見ていたスガタが小さく笑った。

「…残っても大丈夫だよ」
「へ?」
「嫁の貰い手には困らないからね」

 にこり、と金の目を細めて笑ったスガタに、タクトが一瞬固まる。目の前にさらりとした青が流れたかと思うと、唇に
 少し冷たいけれど、柔らかなものが触れた。

「―――これからずっと、一緒にいてくれるんだろう?」

 吐息の触れるほど近くにスガタの顔がある。キスをされたのだとようやくわかって、タクトは頬を一気に赤く染めた。

「ちょ、何、ワコは…!」
「多分喜んでくれると思うけど。…もうワコは巫女じゃないしね」
「それはそうかもしれないけど!」
「…タクトは嫌だった?」
「そ、そういうことじゃないよね!?って言うか近い!おおお、落ち着こうよスガタ!」
「…お前が落ち着け」

 わたわたと腕を振り上げたタクトに苦笑を見せ、スガタは細い身体を抱き寄せた。
 途端に大人しくなった少女の耳元に唇を寄せる。

「―――好きだよ。誰よりも」

 真摯に告げた言葉はスガタの胸の奥にずっとあったものだ。ただ、仕舞いこんでいただけで。
 スガタがタクトの顔を覗きこむと、真紅の眸が揺れていた。再び流れた涙に哀しみは混じっていない。その眸に浮
 かぶのが紛れもなく歓喜だと気づいた瞬間、スガタの視界は紅く染まった。
 唇に感じる、あたたかなぬくもり。それを甘受しながらスガタはそっと目を閉じた。
 二人は抱きしめあったまま、飽くことなく唇を重ねていた。―――言葉よりも雄弁なタクトの返事だった。





「タクト君スガタ君…!おかえり!」
「ただいま!ワコ!」
「―――ただいま」

 皆に迎えられて降り立った島の空には、いくつもの星が流れていた。