それは、日に透ける髪だったり。
 いつもは絶対に見ることのできない顔だったり。
 こんな優しい時間が続けばいいのに、と柄にもなく思った。










 Supreme  ―― Calm ――










「あーもう、つっかれたぁ!」

 こんな時期に軽く汗をかくだなんて信じられない。
 臨也は乱れた呼吸をそのままに、くたりと壁に寄りかかった。
 誰もいない屋上だと、人の目を気にしなくていいのが楽だ。思いっきり伸びをすると、背中
 が気持ちよかった。
 おいかけっこも長すぎるとこちらの体力がもたない。
 今日は何が原因で喧嘩したんだっけ?と記憶をたどる。

「うわー…なんだっけ…」

 改めて考えると心当たりがありすぎてわからない。
 いつもくだらないことで言い合いをしてみたり、悪戯を仕掛けたりしているせいだ。
 けれど最近はもう卒業間近の2月。さすがに大きな喧嘩はしていないし、仕掛けさせてもい
 ない。

「一応受験生だしね」

 周りが、と付け加えて一人笑う。
 自分の周囲の人間は誰も大学など行かない。だから受験なんて遠い話だ。
 臨也自身も大学に行く気は最初からなかった。教師たちにはさんざん進められたが、学校な
 んて行っても行かなくても同じだと思っている。
 新羅だって医者になるにはそれなりに勉強が必要なはずだが、彼のことだからそんなものと
 っくにクリアしているのだろう。知識はマッドサイエンティストな父親から大体学んでいる
 し、なにより闇医者になるのなら免許は必要ない。
 門田は進学せずに働くと言う。彼曰く、勉強はもういいらしい。
 そこまで考えて、ふと気になった。
「彼」は今後どうするのだろう。
 彼も進学するという道は選ばない。頭が悪いわけでもないことは、考査の結果で知っている。
 それどころか案外いい方だ。あくまでもこの学校の中では、だが。
 働くのだろうことは知っているが、それ以上のことは知らない。調べても良かったが、何と
 なく気が向かなかった。

「何するのかなぁ…」

 卒業がせまってきた今、少しだけ感傷的になっている。
 彼をそういう意味で想っていると気づいたのが2年の秋だ。気づきたくなんてなかったけど、
 自覚せずにはいられなかった。
 接点が一つなくなる。学校という檻の中から出てしまえば、毎日合えるこの日常は失われる。
 それを寂しいだとか、切ないと思うのはきっと自分だけだ。

「シズちゃんはせいせいするだろうなぁ…」

 自分で言って哀しくなる。
 きっと彼は自分が恋心を抱いているだなんて、夢にも思ってないはずだ。
 毎日「嫌い」だと言い続けてきた。素直になんてなれなかった。
 ほんの少しの可能性もない想い。
 認めても楽になんてならなかった。逆に苦しさが増した気さえする。
 ため息をつきながら寄りかかっていた身体を起こした。
 2月の終わりにしては明るい陽気の日だ。コートは着ているものの、そんなに寒さは感じな
 い。

「うーん…どうせもう用もないし、寝ちゃおうかなぁ」

 大体今日はもう3年生は学校に来る必要のない。
 けれどうっかり出席日数が足りない教科があったため呼び出されてしまった。
 そこに静雄までいたのは驚いたが。
 教師も自分たちが犬猿の仲だとわかっているはずだ。それをあえて同じ教室で補習を受けさ
 せた。それだけ早く厄介払いという名の卒業をさせたいのだろう。
 帰ってもいいのだが、こんな中途半端な時間は帰りにくい。それに今降りたら静雄と鉢合わ
 せてしまいそうだ。
 また追いかけられでもしたらたまったものではない。
 ―――それすら楽しいのだと思う自分はどうかしている。
 小さく苦笑していると、かすかに足音が聞こえた。
 在校生は今授業中だ。ということは教師かサボりの生徒かだろう。
 柄にもなく感傷的な気分の所に水を差された気がする。
 むっとしながらも猫のような身のこなしで給水タンクの裏へ隠れた。
 ゆっくりとドアが開く。

「え…」

 不機嫌そうに眉を寄せた顔は、つい先ほどまで見ていたものだ。
 きょろりと屋上を眺めた彼は、屋上のほぼ真ん中に座り込む。
 しばらくなにやら想い耽っていたようだが、そのうち制服が汚れるのもかまわず寝転がった。
 フェンスにほど近い場所を陣取り、目を閉じてしまう。
 しんとした中、小さな寝息が聞こえてくるまでそう時間はかからなかった。

「………ん?」

 給水タンクの裏でじっと身を潜めていた臨也は聞こえてきた寝息に目を瞠る。
 まさか本気で寝てしまったのかと、呆れ半分にそっと顔をのぞかせた。
 金色が柔らかな日差しに反射してきらきら光る。時折流れる風が毛先を揺らしていた。

「…シズちゃん?」

 小声で呼んでみても、反応がない。
 静かに床へ降りたってゆっくり近づいてみる。

「おーい…?」

 先ほどより音量を上げるが、やはり反応が返ってこない。それどころか健やかな寝息が聞こ
 えるだけだ。
 音を立てないよう注意して近くに寄る。
 眉間のしわは起きている時よりも少しだけましだ。
 すうすうと眠る彼に目を瞬かせてのぞき込む。

「…シズちゃん、寝ちゃったの…?」

 本格的に寝入ってしまっているらしい。
 臨也はそろりと静雄の顔の横に座り込む。
 こんなに近くに、すぐ触れられる距離にいるのは喧嘩をしている時以外では初めてではない
 だろうか。
 普段は絶対にありえない距離。

「ちょっとだけ…ごめんね、シズちゃん」

 高校最後の思い出代わりに、少しだけ欲を出してもいいだろう。
 臨也はゆっくりと静雄の髪に手を伸ばした。

「わ…」

 何度も染め直しているはずなのに、思った以上に柔らかい。それに染めている特有の痛みも
 少ない。
 生え際がほんのり茶色だ。彼は元々色素が薄いのだろう。
 新たな発見に胸が鳴る。指を滑らせると額にたどり着いた。秀でた額は案外きめ細かな肌を
 している。普段は髪に隠れているから、知らなかった。
 ふと、眉間のしわが濃くなっていることに気づく。
 やはり自分が触れていることに眠っていても嫌悪を感じているのだろうか。
 仕方なく手を離そうとしたが、なんだかひどくもったいない。
 嫌われるのは今更だ。もう開き直って今のうちに触れておこう。
 臨也はそう決意して健康的な色をした頬をゆっくりと包んだ。

「ふふ…」

 くすぐったいのか唸った静雄が可愛くて思わず笑う。
 精悍な顔は彼の弟とはまた違った意味で整っている。弟も眉目秀麗だが、静雄と違って表情
 が豊かではない。
 その点、彼はすぐに顔に出す。それが「人間」らしくておかしかった。

「シズちゃん、まだ起きないでね…」

 その呟きは切実な願いだった。
 彼が起きてしまえば、この穏やかな時間は終わりを告げる。
 眠っていて欲しい。そしたらまだ触れられる。
 淡く光る金の髪を撫でながら、臨也は願った。

「シズちゃん、だいすきだよ…」

 小さな告白は風に流された。








 ゆっくりと開けたドアの向こうは誰もいない。
 当たり前だ。時折例外はいるが、今は授業中なのだから教師や生徒は大体教室だろう。
 静雄は舌打ちをしてそれなりに広い屋上の真ん中に陣取った。座り込んで、タバコを出す。
 今日は柔らかい日差しが温かく、春がもう来ているようだ。まだ2月のはずだが、風も冷たく
 はない。
 きっと今日が特別な天候なのだろう。
 何となく吸う気にはなれず、再びタバコをしまった。

「……ねみぃな」

 ただでさえ頭を使ってだるいのに、無駄な体力を使ってしまった。
 まさか「彼女」が学校に来ているとは思っても見なかった。
 頭が良く、口も達者で外見も男の好みを良く分かっている女だ。才色兼備というやつだろう。
 ただし、あの性格の悪さですべて相殺されるが。
 どうやら珍しく計算を間違えたらしい。教師が哀愁を漂わせながらもぼやいていた。

「出席日数が足りないとか…サボりすぎだろ、アイツ」

 毎日学校で顔を合わせているが、どうやら授業には出席していなかったらしい。
 そういえば3年間一度も同じクラスにはならなかった。まぁなってしまえば授業が成り立た
 なかっただろう。
 教師も他の生徒も自分と臨也の仲の悪さはよく知っているはずだ。
 彼女が自分をひどく嫌っていることは自覚している。出逢った時から臨也はずっと静雄を目
 の敵にしてきた。
 新羅に言わせると彼女なりの愛情表現のようなものらしいが、こちらとしてはいい迷惑だ。
 愛情表現だと言うのなら、門田にするように素直になってくれれば―――。

「…ってありえねぇな…」

 臨也が自分に甘えてくることなど、きっと一生ないだろう。
 口癖のように「嫌いだ」と訴えてくる彼女と友好関係になることは、出来ない。
 それをほんの少しだけ、残念だと思う自分がいることが不思議だ。

『シズちゃんなんて、だいっきらいだよ』

 歪んだ笑みを浮かべてそう告げてくる臨也は、いつもつまらなそうな顔をしていた。
 今日も補習が終わった後、こちらをからかうようなことを言い出して、おいかけあいになっ
 た。
 最近はもう3年生―――受験の年で年末あたりからおとなしかったのだが。
 どうやら受験する気はないらしく、今からでもどこかにと追いすがる教師を嫌そうにあしら
 っていた姿を何度か見かけていた。
 久しぶりに会った彼女はやっぱり歪んだ笑みを浮かべていて、短い導火線はすぐに燃え尽き
 た。
 卒業したらもう関わることはないだろう。
 自分は適当に働くつもりだし、彼女は彼女で勝手に生きる。
 これから先のことなど、まだ考えていない。けれどこの先彼女と日常が交わる可能性はない
 はずだ。

「……多分な…」

 彼女がこれからどうするかなんて、どうでもいい。
 自分と渡り合える相手は少ないから、正直なところ彼女の存在は自分にとってそう悪いもの
 ではなかった。
 臨也を殺してやりたいと思ったことはあったが、嫌いだと思ったことはない。
 矛盾しているようだが、本心だ。決して嫌いではない。

『シズちゃん』

 時折どこか戸惑ったような声で呼んでくる臨也を嫌いにはなれなかった。

「…寝るか」

 どうせ帰ってもすることはない。
 池袋の街を歩く気にもなれなくて、静雄はフェンスの近くに移動して寝転がった。
 途端に襲ってくる眠気にあっけなく意識を手放した。





 ―――くすぐったい。
 ふと意識が浮上して、そう思った。
 けれど身体はまだ休息を欲していて、目が開かない。
 何かが髪や頬を撫でている。幼い頃に経験したことのある感覚に、それが誰かの手だと知る。
 細い指だ。髪をゆっくりと梳く感触が心地いい。
 誰だろうか。自分に近づく人など、限られる。
 思わず唸ってしまうと、手は離れていった。
 ―――ああ、まだ。
 そう思ったが、すぐに戻ってきた手に安堵する。
 頬を滑っていた指が、再び髪に戻った。やんわりと撫でてくる細い指の持ち主が気になって、
 薄く目を開ける。

 黒が見えた。
 楽しそうに細まっている赤みのかかった眸。
 いつだったか、新羅が彼女の眸はレッドスピネルに似ていると言っていた。
 確かに、楽しそうに笑っている時の眸は事典で見せてもらった赤い宝石に似ている。

 そこで意識がはっきりとした。
 今自身をのぞき込んで、髪を撫でているのは「臨也」だ。
 天敵、犬猿の仲とも言う彼女に触れられている。
 混乱と戸惑いに目を開けて飛び起きたい衝動に駆られたが、すぐにそれはなくなった。
 彼女があまりにも柔らかく微笑んでいたから。

「ふふ…」

 いつもの人を食った笑みは影もなく、ただすぐ近くに座っている。
 暖かい風に煽られた黒髪がなびく様がきれいだった。
 漆黒の髪は時折陽に透けてきらめく。光にも染まらない黒が美しいと思ったのは初めてだ。
 どこか嬉しそうに髪を梳く手は優しい。
 細い指は、ナイフを扱うように見えない。爪の先まで整った白い指が、何度も静雄の髪に触
 れる。
 ―――甘い匂いがする。香水のようなものじゃない、ふわりと香るだけのもの。
 胸が締め付けられるような、そんな甘さがあった。
 噎せかえってしまいそうだ。くらくらする。

「―――まだ起きないでね」

 甘い。
 声も、匂いも、彼女のすべてが。
 切なく響いたその声に、思わず起きあがりそうになった。
 けれど動くことは出来ない。
 静雄自身も、この空気を壊してしまいたくなかった。

「シズちゃん、      」

 小さな声は風にかき消されたのか、静雄の耳に届くことはなかった。








 チャイムの音にひとしきり髪を撫でた指が離れる。
 満足したのか、ゆっくりと離れていく気配を無意識に追った。
 音を立てずに閉まったドアの向こうから生徒たちのざわめきが聞こえる。
 静雄は目を開けて、その眩しさに顔をしかめた。

「………アイツ…何がしたかったんだ…?」

 何度も触れてきた意図も、聞き取れなかった囁きも。
 ―――あの今まで見たこともないような、穏やかな笑みも。

「っ……」

 顔が熱い。
 思わず腕で顔を覆った。耳まで熱を放っている。
 噎せ返るような甘い香りの中、胸にこみ上げてきたものは何だったのか。
 この熱の名前を、まだ知らない。













 
 
 
 
 
 
 
 


        ここまでが来神時代です。とはいえ、次もまだ18歳の設定なんですけどね。
        前半が臨也視点、後半が静雄視点です。シズちゃんはまだ自覚なしです。(ここで説明するな)
        無意識なシズちゃんの感情は出せているでしょうか?

          2010.08.09 掠めていった、熱の名前は「 」。