そんな些細なことが、どうしようもなく切なくなる。
 一言告げられるだけで、世界が変わってしまうように。
 会うたびに喧嘩しか出来ないくせに、どうしようもないことを望む。

 ねぇ、本当は―――。

 闇に沈む前でも、脳裏に浮かんだのはあなただけだった。










  Supreme  ―― Bitter ――










 朝起きてまずすることは顔を洗いに行くこと。
 正直寝起きはあまりいい方じゃないと自覚している。
 冷たい水で目が覚めた。
 ふと鏡の中の自分を見て、手を伸ばす。

「…伸びたなぁ」

 髪をまとめていたバンスをとると、さらりとこぼれ落ちる黒。
 背の半ばまであるそれは、“あれ”からずっと伸ばしている。
 丁寧に梳っていくと、天使の輪ができるほどには手入れをして気にかけていた。
 高校の時はもっと長かったのだ。
 腰近くまで伸ばしていて、一度は切ったのだが結局また伸ばした。
 以前よりもっと気にかけながら。

「……いくら伸ばしたところで、意味なんてないんだろうけどさ…」

 自嘲気味に笑って、臨也はバスルームに背を向けた。
 ―――今日は池袋で依頼人に会う仕事がある日だ。








 髪を伸ばしているのは、理由がある。
 高校までは特に意味もなく伸ばしていた。
 少し邪魔に思っていたこともあり、卒業してすぐにばっさりと切ったのだ。
 いっそすがすがしいまでに短くなった髪は、軽くて楽だった。
 ちょうど情報屋を始めようとしていて、「折原臨也」のイメージを作るためでもあった。
「女性」のイメージと「男性」のイメージ。両方あれば危険度は多少減るし、損じゃない。
 だから切った。

 ―――けど、まさかあんなこと言われるとは思ってもみなかったから。





 相変わらずの池袋に足を伸ばした。
 卒業式が終わって、約3週間といった頃だろうか。年度の終わりであり、始めであるこの時
 期は忙しない人とのんびりした人の二択に別れている。
 ちなみに臨也は後者で、特に用事があったわけでもなく人間観察をしていた。
 街中を行き交う人の群れは見ていて面白い。
 楽しそうにショップバッグを提げて歩く女の子、肩を落としたスーツ姿の男性。
 なんて対極なんだろう。
 人間は面白い。
 だから人間が好きだ。すべてが等しく愛しい。
 ――― 一人を除いて。

「ん…?」

 噂をすれば影、というのは本当らしい。
 人波の先に金色を見つけた。
 それが「彼」だとすぐにわかってしまうのは、どうしてだろう。
 見かけたのは卒業式以来だ。
 当日に盛大に喧嘩を仕掛けた身としては、多少彼の前に出にくい。
 臨也に罪悪感はないが、静雄の怒りが収まったとは思えなかった。

「全然変わってないなぁ…」

 金の髪も、タバコを吸う仕草も、眉を寄せて不機嫌そうに歩いているところも。
 臨也が好きになった静雄のまま。
 彼はこの先もそう変わることなどないと漠然と思っている。
 ただ、卒業したことで毎日は会えなくなった。だから彼にどんな人が近づいてもわからない。
 いつか彼を理解して傍で支えられる誰かが現れるかもしれない。
 そうなれば、自分はどうなるのだろう。
 邪魔をする?それとも耐える?
 いっそのこと、ひと思いに断ち切られてしまえば終わるだろうか。
 どちらにしろ傍にいられないのなら、一番近くにいられないなら、今のままがいい。
 嫌われたままでも、自分を忘れないでくれるのなら。

「シズちゃん…」

 人間の感情で一番強いのは負の感情だという。
 ならば静雄が憎んでくれれば、彼の中から消えないで済む。
 自分でも愚かだと思う。けれどこうするしか、出来ない。
 もっと彼に対して素直に甘えられるような、そんな女の子だったら良かった。けれど、それ
 は「折原臨也」ではない。
 歪んだ想いしか抱えられなかった。
 自嘲気味に笑って俯いていた顔を上げる。
 吸い寄せられるかのように彼を見た、途端。
 しっかりと交じり合った視線に思わず目を瞠った。

「え、」

 目があってすぐ、静雄は軽くタイガーアイを見開いてこちらに向かってくる。

「え、何、なんで…」

 いつもならこちらの名前を叫ぶとか、何かアクションがあるのに。
 なぜか無言、そして無表情だ。―――逆に怖い。
 思わず半歩下がる。けれど彼は瞬く間に臨也の目の前に迫っていた。
 固まってしまった身体は安易には動かない。

「シズちゃ…?」
「臨也だよな?」
「へ?」
「お前、折原臨也だよな」

 静雄はじっと臨也を見つめながら問う。
 いきなり迫ってきてそんなことを聞くのは何故だろうか。
 たった数週間で、臨也のことなど忘れたとでも言うのだろうか。
 むっとしたまま口を開く。

「……それ以外の誰かに見えるの」

 何でそんなことを聞くのかという意味も含めてそう返すと、静雄は少しだけ眉間のしわを深
 くした。

「いや…」
「シズちゃんてば、3週間会わない間に呆けちゃったの?それともわざと?」
「誰がボケてんだ!ちげぇよ」
「ふーん?じゃぁどうしちゃったわけ」

 自分でも可愛くないと思いながら、悪態をつくのは止められない。
 静雄がちらちらと寄越す視線も居心地が悪くて。

「……何、シズちゃん」
「いや…その」
「何」

 はっきりしない態度は珍しい。
 ひどく焦燥を感じて、早急に問いかけると言いにくそうにしながら静雄が視線をそらす。

「髪…」
「は?」

 小さく呟かれたその声が聞き取れない。
 訝しげに首をかしげると、静雄は多少自棄になったように顔を上げた。

「だからその髪!」
「うん?」
「なんで、そんな…」
「ああ、この前切ったんだよ。似合う?」

 しどろもどろに問うてくる彼にくるりと回ってみせると、ポカンとした顔をされた。
 珍しい反応に少しだけ不安になる。
 そんなにおかしいとは思わなかったが、反応を返さないところを見るとかなり衝撃を与えて
 しまったらしい。

「シズちゃん?」

 目の前で手を振ってみる。
 いつも怒らせてばかりではあるが、こんな風に固まらせてしまったのは初めてだ。
 さすがに心配になって顔をのぞき込むと、ようやく彼はピクリと肩を奮わせた。

「シズちゃん、どうしたの」
「……いや…」
「俺が髪切ったの、そんなに変?」

 高校の間はずっと伸ばしていたから、新鮮ではあるだろうけど。
 切ってしまった髪は多分静雄より短い。
 そんな髪の先を指で引っ張っていると、静雄が戸惑ったように揺らしていた視線を臨也にあ
 わせた。

「…変だ」
「え」

 きっぱりと言い切られて、驚く。
 確かにかなりイメージは変わっただろうけれど、それが目的であって後悔はしていない。
 けれどこうもはっきり言われてしまうと、多少は気になる。

「…そう?結構似合ってるでしょ…?」

 驚きすぎたのか、言葉に力が入らなかった。
 何とか口に出すが、彼は変わらず眉をしかめて首を横に振る。

「変だ」

 ―――どうして。
 繰り返された否定に、胸がちくりと痛む。

「別にシズちゃんには関係ないでしょ。俺が髪切ったことなんて」

 関係ないはずだ。
 もう話をしていたくなくて、踵を返す。
 けれど雑踏の中だというのに、耳に届いた言葉に思わず足を止めてしまった。


「―――長い方がよかった」


 つん、と掴まれた髪に街の声がすべて吹き飛ぶ。
 背後に立った静雄は、臨也の黒髪を一房つまんで残念そうな声で言う。
 あまりにも名残惜しげな言葉に、臨也は目を瞠った。
 彼の口から自分を褒めるような言葉を聞くのは初めてだ。
 たとえそれが髪であり、彼に特別な意図がないと分かっていても。
 思わず振り返る。
 彼は至極つまらなそうな顔をしていた。

「もったいねぇ。真っ黒で綺麗だったのに」
「っ……!」

 何の臆面もなくそう言いきった静雄は、本当にそう思っているのだろう。
 触れられているのが耐えきれなくなって、臨也は必死で動かない足を叱咤した。
 動いた瞬間、振り返らずに駆け出す。
 背後で驚いたような気配がしたが、そんなもの気にしてられなかった。

「絶対顔赤くなってる…!」


 顔が熱い。
 ―――春の陽気に当てられたみたいだ。
 髪を切ったことを初めて後悔した。

 まさか静雄が臨也の長かった黒髪を気に入っていたなんて、想像もしなかった。
 喧嘩の時以外触れられたこともなかったし、そんな素振りだって見たことなかった。
 なのに、何で今。惜しむように触れてきた手が忘れられない。

「〜シズちゃんの馬鹿!!」

 息が切れる頃にようやく足を止めた。
 ひゅーひゅーとなる喉が苦しい。顔の熱さだってとれない。
 じわりと込み上げてきた涙は生理的なものだ。

「…髪…また伸ばそっかな…」

 それで彼が気にかけてくれるのなら。
 臨也の髪くらいであんな顔してくれるのなら。
 短く切った髪を摘んで、臨也は小さな決意をした。







 さらりと風になびくのは黒。
 池袋の街をひらひらと歩く姿は人目を引いた。
 黒のファー付きコートに黒のセーター、スカートもブーツもすべてが黒。
 唯一胸元から除くインナーが赤。
 どの季節だろうと、臨也の色は黒だ。たまに変装もかねて全く違うものや流行の服を着たり
 もするけれど。
 今日は仕事でここに来ている。出来れば静雄には見つかりたくなかった。

「シズちゃんの鼻、今日は麻痺してくれてればいいけど…」

 もしくは取り立てが立て込んでいればいい。
 そしたら今日は会わなくて済む。
 取引の相手が厄介な日は、会いたくても会えない。
 静雄に目を付けている節のある相手なのだ。そこら辺の若いチームや熱気のあるチンピラな
 ら問題ないし、逆に嗾けたりもする。
 けれど、本当に危険なものとつながりのある相手だとか、ヤバい奴らは近づけたくない。
 彼が簡単に負けるとは思わないけれど、傷つくから。
 ―――優しいところはもうずっと変わってない。
 何があっても、結局本気で臨也に暴力を振るったこともなければ、彼から仕掛けてくること
 もなかった。
 追いかけては来てくれるが、それも最近は減ってきている。

 変わらない自分。―――変えられない自分。
 静雄は段々変わってきている。

 人との出会いだとか、それによって起こった出来事で彼は変わってきている。
 いや、正確には彼本来の姿に戻ってきているのだ。
 優しくて、暴力が嫌いで。困ってる人だとか、放っておけない。
 そんな静雄を今まで必死に隠そうとしてきた。
 本当の彼を知っているのは、少しでいい。
 なのに。

「…もう、手遅れだよね…」

 彼の周りには、彼を理解している人が増え始めた。
 今までのように、彼を孤立させることは出来ない。
 もう、臨也は対等な関係にはなれないだろう。
 今更だ。
 長く伸ばしなおした髪も、会うたびに行う子供のような喧嘩も。何の意味も持たない。
 このどうしようもなく切なくなる気持ちも。
 ―――自覚して6年が経つ。
 いい加減あきらめるか、決着を付けるかすべきなのだろう。
 彼以外とつき合ったこともあれば、抱き合ったこともある。
 けれどいくら誰かと深い関係になろうと、結局比べてしまったり、これが「彼」ならと思っ
 てしまうのだ。
 よく似た外見の人とつき合ったりもしたけれど、彼が頭から消えることはなく。
 ずっとこのままでいるには、疲れてしまっていた。

「あーあ…」

 立ち止まって空を仰ぐ。
 喧噪から少し外れた裏路地のビルの間から青が見えた。
 思い出すのは高校最後の年。一度だけ近くで触れた彼の手や髪、頬。
 思い返して感傷に耽っていると、人の気配がした。

「折原臨也さん?」

 背後からかけられた声に振り向く。
 20代後半から30代前半、といったところか。だけど見たことのない顔の男。
 会う予定の依頼者とは違う。

「…誰?」
「ああ、すみませんね。あなたが会う予定だった方はもうこちらには来られないんですよ」

 にこにこと笑う顔が気持ち悪い。
 来られなくなった―――つまりは。

「じゃぁもうここに用はないね。俺は帰りますよ」

 肩をすくめてそう告げると、相手の動向に注意しながらゆっくりと下がる。
 依頼者が繋がっている先は大手の企業だったはずだ。
 けれどこの相手が何者なのかわからない。
 依頼者側の敵か、情報が漏れたら困る相手か。もしくは臨也自身に何らかの用があるか。
 判断がつかない時は、引いた方がいい。
 臨也は隠し持ったナイフに手をかけ、周囲を見渡した。
 この路地の先はすぐにビルの裏口だ。引くにはまずそこに出て、巻くのが一番いい。
 相手から目をそらさないようにして一気に踵を返して走り出す。

「待て!」
「誰が待つか」

 舌打ちと共に、男が追いかけてくる。
 それは予想の範囲だった。
 けれどビルの裏口が見えてきた頃、新たに人が増える。

「捕まえろ!」

 屈強な男が二人と、細身だが鉄パイプのような武器を持った男が一人。
 後ろからも最初に会った男ともう一人、刃渡りの大きいナイフを持った男が追いかけてくる。

「っ……」

 挟み撃ちにされてしまった状況に、思わず舌打ちが出る。
 どうにか逃げなければと視線をさまよわせるが、周囲に逸れることの出来そうな道はない。
 対峙してもいいが、5人相手はさすがにきついものがある。
 パルクールを使うには、この場所では難しい。準備が足りない。
 今日の取引相手は厄介だと知っていたのに、準備を怠った自分が情けなかった。

「っあ!」

 周囲を気にして躊躇いが出ていたのか、スピードが疎かになっていたらしい。
 強い力で髪とコートを引っ張られ、バランスを崩す。

「追いかけっこは終わりだ、折原」
「っ…」

 呼吸を整えながらも臨也を捕まえた力は強く、逃れられない。
 そのまま壁に押しつけられ、ナイフを向けられる。

「てめぇに情報を流されたらヤバいんだよ」
「…ふーん?アンタらはライバル会社の人なんだ」
「余裕ぶってんじゃねーよ。俺らの仕事はアンタが掴んでる情報を消すこと…つまりアンタも
 ここで消すことなんだよ」
「へぇ?俺相手に5人も寄越したんだ。こーんなか弱い相手に?」
「ま、オレたちもこんな人数いらねぇと思ったけどよ。折原はあの喧嘩人形と渡り合ってるか
 ら一応な」
「それはそれは…よく評価してくれたものだね、アンタらのボスは」

 言葉の応酬をしているうちに、他の男たちが周りを囲んだ。
 臨也を押さえつけている男がにやにやと下卑た笑いを浮かべて覗き込んできた。
 すると最初に会った男が臨也の黒髪を指で弄び、顎を掴む。

「殺すには惜しい顔だよなぁ」
「……だよなぁ」

 自分の外見はそれなりに分かっているはずだ。
 それなりに整った顔に産んでもらったし、妹の一人には負けるが、引き締まった身体はまぁ
 上等な方だろう。
 けれど、こんな奴らにヤられるのは矜持が許さない。
 ぐ、と身体に力を入れる。最大限、抵抗してやる。
 コートのポケットに入っているナイフを悟られないよう握り、臨也は腕を繰り出した。

「まずは…一人目」

 押さえつけていた男の手首を切りつける。
 下品な悲鳴はこの際気にしない。
 すぐに顎を掴んでいた男に頬を殴られるが、こんなもの静雄の攻撃をまともに食らうより何
 倍もましだ。
 足で脛を蹴りやって、ナイフを一閃させた。うまい具合に胸元を裂くことが出来る。
 二人目が怯んだすきに駆け出すが、そう簡単に逃れられなかった。

「てめぇ、よくも…!」
「いっ……!!」

 ガツ、と音を立てて、壁に押しつけられる。目をぎらつかせた男が気持ち悪い。
 掴まれた腕が痛い。ついでに首元も絞められて、一瞬意識が飛んだ。

「女痛めつけるのは気が引けてたんだが…」

 臨也のナイフで切りつけられなかった残りの3人が視線を交わし、頷く。
 一人が黒髪をまとめて掴み、ナイフを突きつけた。
 切られるわけにはいかないと身をよじると、舌打ちをされる。
 あとの二人に身体を地面に引き倒され、背中を強かに打った。
 変な息が喉を過ぎる。
 衝撃をこらえ何とか開けた眸の前で、鉄パイプが唸った。

「―――!!」

 腹部を上から殴打され、息どころかすべてが口から出てしまいそう。
 悲鳴も出ないほどだ。
 霞んだ視界の中、銀色が揺れる。
 ああ、殺されるなと漠然と思った。

「…シズちゃん…」

 ここで殺されてしまったらもう会えない。
 逃げなくてはいけないと、頭では警鐘が鳴っている。けれど押さえつけられてとてもじゃな
 いが身体が動かなかった。
 振り上げられたナイフ。
 覗き込んでくる男たち。

 ―――誰か。

 意識が途切れそうな今、思い浮かべたのは金色。
 こんな時なのに、彼しか浮かんでこない自分がたまらなく可笑しかった。













 
 
 
 
 
 
 
 


        臨也の回想とピンチで3話目は終わります。
        多分臨也のことだから5人相手でも簡単に逃げられるとは思いますが、ここはあえて。
        シズちゃんのために髪を伸ばしなおした、というのが書きたかったんです。

          2010.08.12 たとえば、私がいなくなったら。