力無く横たわっている姿にぞっとした。
 あの長い漆黒の髪も、紅玉にも似た眸も。知らずいつも目で追っていたから。
 笑った顔がもう一度見たいのに、それが出来ない自分が嫌になる。

 失うのが怖かったのは、俺の方だ。










  Supreme  ―― Sad ――










 焼けるような痛みが右腕を襲う。
 次いで頬にもぬるりとした感触が伝った。唇が切れたらしい。
 脚、腹、とじわじわとナイフでいたぶられていく。
 急所をつかないせいで、苦しみも増す。
 とうに感覚も痛みも麻痺していた。

「おい、そろそろヤらねぇと」
「ああ、そうだな」

 霞んだ意識の向こうで男たちの楽しげな声が聞こえる。
 ひと思いにぐさりとやられると思っていたのに、予想に反して男たちはこちらの反応を楽し
 みながら傷をつけていく。
 女として、最悪な嬲られ方をしないだけマシだろうか。
 もう目を開けているのか閉じているのかすら分からない。

「こんだけ血が流れてるんだ。もう意識もないみてぇだな」

 そう言って笑った彼らは、臨也の細い身体からようやく手を離した。

「ま、悪く思うなよ。これが俺たちの仕事なんだよ」

 そうして振り上げられたナイフは、臨也の胸に刺さるはずだった。








 新しいタバコに火を付ける。
 深く息を吸い込むと、肺にタバコの煙がいきわたったような気がした。
 身体に悪いと知っているが、どうにもやめられない。
 ビールの苦さは嫌いだが、タバコの苦さは不快ではないのだ。

「……くせぇな…」

 トムと取り立てに来ているものの、先程から妙に匂う。
 自分にしかわからない―――彼女の気配。どうやら池袋に来ているらしい。
 静雄をからかいにきたとしたら、見かけ次第何か仕掛けてくるはずだ。
 しかし今日は気配はするのに姿は一向に見えない。

「ちっ…」

 彼女が池袋に来た時は匂いがする。
 臭い、と口にするがそれは喉に引っかかるような甘ったるい匂いがするからだ。
 彼女だけから香るその匂いは、静雄の鼻につく。
 それがなぜなのか―――考えたこともある。
 けれどいつもはっきりした結論に達することが出来なくてむしゃくしゃするだけだ。

「どこにいやがる…臨也」

 姿が見えないのは、何となく気に入らない。
 現れない方が平和でいいとわかっているのに、見えないと苛つく。
 矛盾した想いを抱えたまま、静雄は舌打ちをした。

「どうした?静雄」
「あ…すんません」

 缶コーヒーを片手に近づいてきた声に、顔を上げた。
 舌打ちに気づいたトムが、不思議そうに視線を向けてくる。
 取り立てが一件終わったばかりだ。今日の仕事はスムーズに進んでいて、静雄が切れるよう
 な状況は起こっていない。

「…何かあったのか?」
「いや、そういうわけじゃないっす。ただ、アイツが来てる気がして」
「え…アイツって、折原?」
「はい」

 トムが苦笑する。
 その仕草に静雄が首をかしげると、トムはタバコを出してくわえた。
 火を付けながら静雄を見やる。

「今日はもういいぞ」
「え?」
「後は俺がやっとくよ。お前は行っていいぞ」
「けど…」

 まだ今日の取り立ては終わっていない。後二件ほど残っている。
 臨也を殴りに行くために仕事を放棄するのも気が引ける。何せ普段からトムや社長には迷惑
 をかけっぱなしなのだ。
 主に臨也との喧嘩が原因で、だが。

「落ちつかねぇんだろ?」

 トムの見透かしたような言葉に、身体が強ばる。
 そうだ。今日は何故か妙な焦燥感がある。

「……は、い…」
「お前らはどっかで繋がってるみてぇだもんな。…探しに行けよ」
「…すんません!」

 自分に何かあるわけじゃない。何か忘れているわけでもない。
 けれど、池袋の街が静雄に行けと急かしているような。
 静雄は手近にあった標識を引き抜くと、踵を返した。
 匂いがする方へ。―――彼女がいるところへ。





 自分の勘だけを頼りに池袋の街を疾走する。
 彼女をよく見かける通り。露西亜寿司の前、サンシャイン。
 違う、ここじゃないと訴える本能のままに通り過ぎた。
 そうして池袋のとある路地を通った時、薄い闇に埋もれそうな黒が見えた気がして、足を止
 める。

『おい、そろそろヤらねぇと』

 知らない男の声。
 奴らはこちらに気づいていないようだ。
 二人倒れている。けれどそれより静雄の目を引いたのは、一人を三人がかりで押さえている
 方。地面に押し倒されている黒い固まりによく見覚えがあった。

『こんだけ血が流れてるんだ。もう意識もないみてぇだな』

 赤黒く流れているそれがすべて血だというのなら相当な量だ。
 掴まれている長い黒髪は埃や土、そして彼女自身のものであろう血液で汚れていた。
 あの日見た、風に柔らかくなびくところが綺麗だと思っていたのに。

『ま、悪く思うなよ。これが俺たちの仕事なんだ』

 ナイフが振り上げられる。男の一人が手を離したことで、彼女の姿が静雄からもよく見えた。
 虚ろな赤が力無く閉ざされようとしている。
 それを見た瞬間、身体中の血液がざわりと音を立てた気がした。





 甲高い音を立てて、ナイフがはじけ飛ぶ。
 男たちが目を瞬かせた瞬間、臨也との間に標識が横切っていた。
 標識は壁に突き刺さり、無残にも曲がっている。

「な……!?」

 ナイフを持っていた男が標識が飛んできた方向を見た。
 逆光で顔は見えない。けれど悪目立ちする金髪にバーテンダーの服を着た人物は池袋に一人
 しかいない。

「…お、前…」
「へ、平和島…」

 顔を引きつらせた男に、静雄はサングラスをはずして笑いかけた。
 どうやら自分のことを知っているらしい。

「よぉ」
「…なんでこんなところに」
「ああ、そのノミ蟲の匂いがしてなぁ」

 胸のポケットにサングラスをしまうのは、暴れて壊さないためだ。
 自分が今、笑っているのを感じる。
 楽しいわけじゃない。可笑しいわけでもない。
 今の感情を一言で表すなら、「怒」しかない。

「そいつ、こっちに渡してもらえるか」
「それはできねぇな。折原を殺ってくるのが俺たちの仕事なんだよ」

 じわじわと流れていく血が、臨也の周りに溜まっていく。
 それを楽しそうに見ている男たちに虫唾が走った。
 青ざめた顔はいつものような笑みもない。頬だけが赤くなっているのは殴られたのか。
 ギリ、と音がして口の中に血の味が広がった。
 噛み締めすぎたらしい。だがそうでもしなければ今すぐにでもこの男たちを殺している。
 静雄は未だ臨也から離れない男の手を掴んだ。

「い、ぐぁぁあ!」
「うるせぇ」
「やめ、折れる!」

 この男たちが臨也に触れていたのだと思うだけで、吐き気がする。
 力を入れて掴んだせいか、手の中で異様な音がした。おそらく指の骨が折れただろう。
 悲鳴もうるさくて、片手で耳をふさぐ。手を放してやると、尻もちをついてあとずさられた。

「うるせぇな…。そいつ…さっさと渡せよ」
「何でだよ!折原とアンタは仲悪いんだろ!?」
「ああ、別に仲良くなんかしてねぇな」
「なら!折原がどうなろうとあんたには関係―――」

 喋っていた男が、息を飲む。
 銜えていたはずのタバコは、とうにどこかへ落としてしまった。
 自分が今、どんな顔をしているかなど知らない。
 けれど男たちの顔が恐怖や畏怖に歪んでいくのはわかった。

「確かに関係ねぇ。けどな…」

 臨也が殺されたとしても、きっとそれは自業自得というやつだ。静雄には関係がない。
 けれど、彼女がいなくなった池袋なんて想像がつかない。
 ―――想像したくない。

「こいつは俺のモンだ。てめぇらになんか殺させてたまるか!」

 壁に突き刺さったままの標識を抜き、一閃させる。
 横殴りにされ、一人吹き飛ぶ。

「俺の獲物だ。汚ねぇ手でさわるな」
「ひ…!」

 臨也の傍に座り込んでいた男を投げ飛ばす。
 宙を待った男はそのまま地面に叩きつけられた。
 残る一人はどうやら奥へと逃げたらしい。
 舌打ちをして追いかけようかと思ったが、ズボンの裾を引かれたような気がして留まった。

「シ、ズ…ちゃ」
「―――臨也!!」

 うっすらと開いた目が静雄を映している。
 そのレッドスピネルの眸から、滑り落ちたのは血と混ざった涙。
 慌ててしゃがみ込み、力なく横たわった身体を抱き上げた。
 いつものコートが血を吸ってぐちゃりと嫌な音を立てる。
 どれだけ出血しているのだろう。様々なところに裂傷があった。

「シ…」
「お、い…?」

 限界に達したのだろう、ぐったりと力をなくした臨也の顔はすでに青を通り越して白い。
 相当危険な状態だと一目でわかった。

「臨也!!おい、臨也!」

 意識をなくした身体は普通それなりに重いはずなのに、彼女からは体重を感じさせない。
 それがますます静雄の焦りを呼ぶ。
 このままでは、本当に死んでしまう。
 静雄は臨也を抱えて路地から駆け出した。





 もっと早く足を動かさなければ。
 もっと、もっと。
 腕の中の細い身体がどんどんあたたかさをなくしていく。
 静雄の焦りが高まるほどに、臨也の身体から命がこぼれていく。

「静雄!?」

 誰かに呼び止められた気がしたが、それにかまってる暇はない。
 今は彼女を連れて行くことが先だ。病院は遠い。それに駆け込んだとしてもその後が問題だ。
 彼女を助けてくれそうな人物など、一人しか浮かばない。
 高校のときも今も、散々世話になっている闇医者。
 今すぐ臨也を見せないと、この細い身体は冷たくなってしまう。
 自分で考えて、ぞっとした。
 嫌だ。彼女がいなくなったら。


「おい、静雄!!」


 ぐ、と肩を掴まれて足を止める。
 逸る気持ちとは逆に、走った身体はひどく重くなっていた。
 腕に抱いた身体はもう猶予を感じない。呼び止めた声に覚えがある。
 振り返った先には―――門田がいた。

「静雄、どうしたんだ?」
「かど…た…」
「お前、その腕に抱えてるの―――臨也か!?」

 高校時代からの友人であり、彼は臨也と特に仲がよかった。
 だからだろうか。静雄が抱えている臨也に手を伸ばして触れようとする。
 けれどそれは叶わなかった。
 静雄が門田の手から遮るように臨也を抱き込んだからだ。

「静雄…?」
「あ、悪い、けど急いで連れていかねぇと…!」

 静雄の目にはひどい焦燥が映っている。
 門田は臨也の様子を一瞥して、頷いた。

「近くに車止めてんだ。乗れ」
「けど」
「岸谷のとこでいいんだよな?お前の足より速いし、止血とかしたほうが助かる確率も上が
 るだろ」
「…あ、」

 止血のことなど、頭になかった。
 顔を歪めた静雄に、門田は厳しい目を向ける。

「落ち着け、静雄。臨也を助けたいんだろう!?」

 叱るようにいわれて、すぐさま首肯する。
 そうだ。助けたいんだ。
 死なせたくない。生きていてほしい。
 静雄にとって臨也は唯一の存在だ。対等にいられる、たった一人。
 この力を恐れるどころか、挑んでくるような。そうして結局今まで離れることもなかった。
 だから怖い。いなくなってしまったら自分はどうなる?
 他の誰がいても、きっと満たされない。「折原臨也」でなければ。

「門田、臨也を助けてぇんだ…!」
「ああ、わかってる」

 その必死な懇願に、門田は笑ってやった。
 この二人は反発しあう磁石のようだと思っていたが、それはどうやら間違いだったようだ。
 門田の案内で乗り込んだ車内で、静雄は臨也を離そうとしない。
 狩沢が手伝って止血をする間も、抱きしめたままで。まるで離すのが怖いとでもいうように。
 今の静雄は宝物を守る獣のようだ。
 血だらけの臨也を抱えて、気を尖らせた姿は必死で何かを守っているようで。
 こんなに必死になっている静雄を見たのは初めてかもしれない。
 いつだったか、臨也は悲しそうに「静雄に嫌われている」と言っていた。けれど門田の目に
 は静雄が本心から臨也を嫌っているとは思えなかった。
 ―――ほら、やっぱりそうだ。
 目を伏せた臨也を見つめながら、門田は小さく笑った。








「新羅!いるんだろ!?」

 マンションのドアが奇怪な音を立てた。
 ついで怒鳴り込んできた声に、セルティは慌てて部屋から出てくる。
 ドアを蹴破った友人は、腕に何か黒い塊を抱えていた。
 それより目を引いたのは、白かったはずのシャツを赤黒く染めているモノ。

【静雄!?どうしたんだ、血だらけで】

 どこか怪我をしているのか?と焦るセルティに、静雄は首を横に振る。

「俺のじゃねぇ。セルティ、新羅はどこだ!!」

 ひどく興奮している様子の静雄の腕の中で、黒い塊が姿を露にする。
 抱えられているその人物に、セルティは目を疑った。

【…臨也か?】
「そうだ!ひどい怪我してんだよ!このままじゃこいつ死んじまう!!」

 血の気のうせた白い肌に、土で薄汚れた血が乾いたまま張り付いている。
 子供がわめくようにそう言った静雄は泣きそうな顔をしていた。
 緊急事態であると悟ったのだろう、セルティがついてくるように手招きする。

「どうしたんだい?騒がしいなぁ」

 ひょこりと顔を出した新羅は、診察室に入ろうとしているセルティと、その後に続く静雄に
 軽く目を瞠った。
 どうやら自分の出番のようだ。
 怒鳴り込みのようにしてきた静雄に物申したかったが、それどころじゃないらしい。
 急ぎ足で診察室に入ると、ちょうどベッドに血まみれの女性が降ろされたところだった。

「―――臨也!?」
「新羅!急いで診てくれ!」
「ああ!静雄、どいて」

 ぱっと見ただけでもわかるほど、臨也の状態は危険だった。
 血が流れすぎている。
 ひどい切創がいくつかあり、その切り口からナイフだとわかった。
 つまりは、静雄との喧嘩が原因ではない。
 ああ、だから静雄がこんなに焦っているのかと頭の冷静な場所が告げた。

【静雄、新羅に任せて部屋から出ろ】
「セルティ…」
【大丈夫だ。落ち着け】

 新羅の目の色が変わったのを見ていたセルティは、今にも臨也に手を伸ばそうとする静雄を
 宥める。
 臨也の服をはぎ、診察しだしたあたりで静雄はセルティに連れられ、部屋を出たようだ。
 その物音を聞きながら、新羅はまず止血にであろう、きつく巻かれていた紐や布を取り、処
 置を始めた。

「臨也…しっかり…!」

 右上腕部と左足大腿の裂傷が特にひどい。
 打撲痕もたくさんある。額と頬は擦過傷と殴打されたのだろう傷が。
 腹部は強い力で殴打されたようで、内出血を起こしている。内臓に影響がないか早急に調べ
 なければならない。

「これは…本気で殺されるところだったみたいだね。頸部圧迫まである」

 力なく横たわった身体は傷だらけで、出血多量で死ななかったのがいっそ不思議だ。
 処置が一段落したころには、もう夜中になっていた。





「静雄」

 ソファで膝に肘を立てて頭を抱え込んでいた静雄は、呼ばれて顔を上げる。
 少々疲れた、という顔をした新羅が新しい白衣を着ながら歩いてきた。

「臨也は…!」
「大丈夫。…まだ油断はできないけど、ちゃんと生きてるよ」
「そ、う…か…」

 安堵の息を吐くと、ずるずると座り込む。
 足の力が抜けてしまった。
 セルティが静雄の頭をなで、よかったな、とPDAに打ち込んで見せてくれる。
 彼女は打ちひしがれている静雄にずっと寄り添ってくれていた。
 ようやく表情を動かした静雄に、彼女も安堵したらしい。
 臨也の所へ行っても良いかと問う静雄に頷くと、彼は足早に去っていく。
 その後ろ姿を見送っていた新羅の傍にそっと近づく影は、PDAを差し出した。

【静雄が見つけた時はかなり危なかったらしい】
「そう…」
【それにしても、静雄が臨也を助けるとは思わなかった】

 セルティの驚いたような雰囲気に、新羅は静雄を見ながら苦笑した。

「…人間の心は自分でも知らないうちに変わったりするんだ」
【そういうものか?】
「うん。合縁奇縁、あの二人も出逢うべくして逢ったんだよ」

 私とセルティのようにね!とにこりと笑う新羅に肩を落としつつ、セルティは彼が行った先
 を見つめる。
 ―――彼女に顔があったら、きっと穏やかな表情をしていただろう。

「さて、ちょっと僕も臨也の様子を見てくるよ。セルティはここで待ってて」

 静雄の怪我も見ないといけない。かすり傷はいったいどこで負ったのやら。
 新羅は眼鏡を押し上げると、ゆったりとした足取りで部屋を出た。





 静まりかえった室内で、かすかな呼吸を繰り返す音が響く。
 酸素マスクを付けた臨也の顔色は運ばれてきた当初よりは幾分マシになっていた。
 静雄はガーゼのはられた頬に触れようとして―――やめた。

「やべ…血だらけのままだ…」

 乾いた血液が手にも服にもべったりと付いたままだ。
 変色して赤茶色になった血のすべてが臨也のものだ。
 彼女にナイフが振り下ろされようとしていたあの瞬間、沸き上がった恐怖をまだはっきりと
 覚えている。
 もう少しでも見つけるのが遅かったら、確実になくしていた。
 そう思うと吐き気がする。

「早く起きろよ……」

 力無く項垂れ、目を閉ざした。
 もう一度、柔らかく笑う彼女を見たい。
 それが自分に向けられたらきっと―――。

 触れられない手を固く握りしめて、静雄はただ昏々と眠る臨也の傍に立っていた。













 
 
 
 
 
 
 
 


        シズちゃんは難しい…。4話目は絶対にはずせない山がいくつかあって大変難産でした。
        一応入れ込んだけど、あまり上手く書けなかったなぁ。ドタチンがあまり出せなかったのも残念。
        次回で終われるか…微妙です(苦笑)

          2010.08.17 君がいない世界は想像すらしたくない。