初めて会ったのは3歳の頃。隣に引っ越してきた彼は5歳だった。
 それからずっと、この関係は変わらないと思ってた。

 ―――最初に距離が出来たのは小学生の時。
 高学年にもなると、年下の女の子とは遊べない、と彼は言った。けれど幸村くらいしか政宗について行けなかった
 し、周囲も幸村が女などとこだわりはしなかった。幸村はいつも男の子のような格好をしていたのも相まって、少年
 のようにしか見えなかったから。
 年齢が上がるにつれて、政宗は幸村と距離を置くようになった。登下校も部活の時も、声をかけるとめんどくさそう
 にする。幸村はそれが哀しくて、寂しくて、半ば意地のようになっていた。
 中学生になった頃には政宗と顔を合わせる機会は減少した。会えるのは朝や時折共に取る食事くらい。
 元々学年が違うのだから、仕方がなかったのかもしれない。けれど幸村にとっては、大好きな幼馴染が離れていく
 ことが恐ろしくて堪らなかったのだ。










 それは幸村が中学二年生の秋のこと。
 朝起きた時から身体が妙にだるく、身体のどこかが鈍く痛むような気がした。

「…風邪でも引いたか…?」

 心配そうな佐助を振り切り登校したのはいいが、だんだん鈍痛がひどくなってきている。クラスメイトにも顔色が悪
 いと言われ、保健室に行くように促された。
 日ごろ怪我以外で保健室の世話になることはない。それに保健室には不気味な笑いをする保険医もおり、出来
 れば世話になりたくなかった。
 それに今から移動教室だ。今日は高等部と共有の棟で授業がある。もしかしたら、政宗を見かけることが出来る
 かもしれない。朝からは会えたものの、一緒に登校することは叶わなかった。それどころか「お守はもうしたくない」と
 まで言わせてしまった。
 今まで政宗にあんなに冷たい目で見られたことはなかったから、本当に心臓が止まってしまうかと思った。けれどあ
 れが彼の本音なのだろう。幼馴染と言う仲に、甘えすぎた結果だ。
 幸村は思い出した冷たい藍色の眸を振り切るように、勢い良く首を振った。

「…幸村?大丈夫か?」
「あ、ご、ご飯を食べれば大丈夫でござるよ!ささ、もうすぐ授業が始まりま…」

 心配そうに声をかけてくる友人にそう返す。
 けれど、不味い、と思った時には意識が遠のき、目の前が真っ暗になっていた。










 大きな目だとか、尻尾のような髪だとか。よく笑って、よく食べて、元気がとりえみたいなやつだけど、女の子なんだと
 気づいたのはいつだったか。
 気づいた瞬間から、触れなくなった。何の気負いもなく抱きついてくる柔らかな身体を突き放したくなる。けれど同
 じくらい、抱きしめたくなる。
 揺れる自分の感情が煩わしくて、彼女のせいにした。振り払った手に茫然としたあと、彼女は微笑んだ。
 ―――哀しい時ほど笑う、あいつの癖を俺が一番知っているはずなのに。

「Shit…」

 騒がしい教室を抜け、政宗は本を片手に歩いていた。
 次の授業がもう少しで始まるという時間だが、受ける気はない。学校の勉強は政宗にとっては簡単すぎて、つまら
 ないものだった。特に英語は教師の発音の悪さに辟易している。
 それに今は勉強をする気も起きなかった。理由は自分でわかっている。朝の出来事が原因だ。
 物心つく前から一緒に育ってきた幼馴染に、今日ひどい言葉を投げつけたのだ。
 あんなことを言うつもりはなかった。ただ、少し距離を置きたかっただけで。
 告げた瞬間、泣きそうな目をしたくせに、すぐに笑った彼女を置いて登校した。
 ―――イライラする。自分のコントロールできない感情に、要領の悪さに。
 昔から彼女のことになると上手くいかなくなる自分がいた。ついからかってみたり、わざと困らせてみたり、どこのガキ
 だと自分でも思う。
 どこかで甘えていたのだろう。彼女は何があっても自分から離れていかないのだと思いたくて。
 小十郎や佐助が何か言いたげにしていることにも気づいていた。あの二人は幸村が可愛くて仕方がないから、心
 配なのだろう。
 大切にしてやりたいのに、上手くいかない。
 むしゃくしゃする気分のまま、政宗は屋上へ続く通路へと足を向けた時だった。

「幸村、大丈夫か?」

 不意に聞こえてきた名前に動きを止める。
 視線を巡らせると、尻尾のような栗色が見えた。見間違えることのないその姿に、舌打ちをしたい。
 そう言えばこの時間、中等部――幸村のクラスは移動教室だった。
 今度こそ舌打ちをこぼして、政宗は踵を返した。

「ご飯を食べれば大丈夫でござるよ!―――」
「!!幸村!!」

 途中で途切れた幼馴染の声と悲鳴に近い声。
 振り向くと、幸村の身体が崩れ落ちるところだった。
 思わず足が、腕が動く。持っていた本はどこかに放り出してしまった。
 細い身体が床に着く前に間に合ったのは奇跡に近い。

「…っ…」

 久しぶりに触れた肢体は記憶より更に柔らかく、軽いものだった。抱きとめた瞬間に香った甘い匂いに脳がくらくら
 する。

「幸村!」

 心配そうに駆け寄ってきた幸村の友人――確かかすがとか言う名前だった――は政宗の腕の中を覗き込んだ。
 幸村は完全に気を失っているようで、だらりと力を無くした手から教科書が滑り落ちる。
 それを横目に見つつ、顔を見るといつもの生気に満ちたものとは程遠い顔色をしていた。どちらかと言えば青白い
 それに、貧血を起こしたのだろうと察する。
 ぐったりとした身体を抱えあげると、かすががこちらを睨みつけてきた。

「おい、幸村に何を―――!」
「保健室」
「は?」
「保健室連れてくしかねーだろ。You see?」

 告げて踵を返すと、かすがはこちらを警戒するように睨みながらも、幸村の荷物を手早く拾ってついてきた。
 政宗は横目でそれを確認しながら、休み時間が終わりかけの廊下を進む。
 たくさんの奇異の目が政宗と抱えられた幸村に向けられる。それを煩わしく思いながらも、目を覚まさない幸村に
 不安が募った。
 いつも元気で、こんな風に倒れるところを見たのは初めてだ。朝の件も相まって、焦燥感が政宗につきまとう。
 未だ青白い幸村の顔を見ながら、政宗は足早に廊下を進んだ。





「おい、明智!」

 勢い良く開いた保健室のドアに、中にいた白銀の長髪の人物が眉をしかめた。
 この学園の保健室は中等部と高等部で共用している。そのため広く、ちょうど校舎の真ん中あたりにある。そこに
 勤めている保険医は少々――いや、かなりの変人だ。
 血が好きらしく、生徒が大怪我をして運ばれてきたときなど、かなり楽しそうにしている。そのため、彼がいるときの
 保健室を利用する生徒は少ない。

「…伊達君、あなた仮にも教員を呼び捨てに…おや?」

 明智は政宗の腕に抱えられた幸村の存在に気付いて首を傾げた。
 怪我以外で保健室に来たことのない生徒が明らかに意識のない状態なのだ。驚くのも無理はない。

「見たところ貧血のようですね。とりあえずこちらに」
「OK.」

 政宗は慣れた手つきで幸村をベッドに寝かせる。
 その手際に明智が愉快そうに笑った。

「なんだか慣れていますね」
「Oh.そりゃ何度もやってるからな」
「おや。もしや女性の敵…」
「No!こいつ…幸はどこででも寝やがるから、よく運んでんだよ」

 幼い頃から、幸村はどこででも寝てしまう。体力を限界まで使ってしまうため、燃費が悪い。そして体力を取り戻
 すために手っ取り早く寝てしまうのだ。
 ある意味特技ともいえる幸村の習性を知っているのは、おそらく校内では政宗だけだろう。政宗に追い付こうと必
 死で鍛錬したりしてよく眠りこけていた。今はもうそんなことは少なくなったのだが。

「で、こいつ…どうしたんだよ」

 黙って入口のあたりに立ったままのかすがに声をかけると、彼女は肩を揺らした。
 自分の目つきが悪いことは自覚しているし、今は気が立っている。断じて心配だからとは言いたくないが。
 かすがは幸村に視線を向けて、口を開いた。

「朝から顔色が悪かったから何度か保健室に行くように言ってはいたんだが…大丈夫と言うから…」

 朝から、と聞いて思わず幸村を見る。
 もしや自分とのことがきっかけで具合を悪くしたのだろうか。もしそうなら―――自分を許せない。
 あんなことを言っておいて今更だ。許すも赦さないもない。けど、大切なのだ。どうしようもなく。

「う…ん…」

 微かなうめき声にはっとして幸村を見る。
 少しだけ赤味がさした頬に安堵した。保健室に着いたのだから、離れようと足を動かした時、制服のシャツが引か
 れた。
 視線を落とすと、幸村の手が政宗のシャツをしっかりとつかんでいる。

「おや。離れたくないようですね」

 微笑ましい、とでも言うようににやりと笑った明智に、政宗は眉をしかめた。
 けれど引きとめるように掴まれたそれを離す気にはなれなくて、舌打ちをこぼしてベッドサイドの椅子に座る。
 髪が伸びたな、と不意に思った。栗色の髪は幼い頃から尻尾のように、彼女の細い背中で揺れていた。引っ張っ
 て泣かせたこともあるし、結ってやったこともある。
 柔らかな頬は普段より少し荒れて見えるのは顔色のせいだろうか。
 もう気軽には触れられない頬に、他の二人から見えないようにそっと触れる。
 離れたいけれど、同じくらい傍にいたい。相反する想いに、苦しさだけが増していく。

「やはり貧血のようですね。…この年頃ですし、どなたか女性の先生を呼んできましょうか」
「…An?」
「……あ…」

 明智の言葉に、政宗は首を傾げたがかすがはなにやら思い当ったらしく、頬を赤くした。
 貧血、年頃、女性。政宗は鈍いわけではない。かすがの反応を見て、遅ればせながらも幸村の倒れたわけに気
 付く。
 思わず幸村を凝視してしまった。幼いころから知っている相手が、「女の子」になったのだ。そう言えば佐助が幸村
 はまだだと心配して知り合いの女医に相談していると小十郎がこぼしていた。

「そう言えば最近感情の起伏がいつもより激しかったような…」

 かすがの小さな呟きに、政宗はさけていた自分を殴りたくなった。
 昔から佐助より、政宗の方が幸村の体調の波に気づくのが早かった。幸村は母親代わりの彼女に心配をかけま
 いと、我慢をすることが多く、それゆえにいつも政宗が気をつけていたのだ。
 それは反対に幸村も同じだった。感情を表現することが苦手な政宗のために、彼女はいつでも傍にいた。気付け
 なかったのは、もしかしたら初めてかもしれない。
 今日の朝だって、本当は具合が悪かったのだろう。なのに幸村は政宗にそれを悟らせなかった。
 加えて突き放されては、甘えたがりの幸村にとって哀しいことだっただろう。

「…Shit」

 自分の身勝手さに吐き気がする。
 幸村が大切なのに、何をしているのだろう。守りたいと思うのに自分の感情が制御できずに、傷つけるようなことば
 かりしている。
 政宗は自身の前髪をぐしゃりと掴んだ。―――その時だった。

「う…」

 微かな呻きと共に、ぼんやりとした茜色が姿を見せた。
 しばらく虚ろに周囲を窺っていたが、政宗を見つけると一気に目を見開く。

「え…な、まーくん…!?」
「…Calm down.幸」

 相当混乱しているのだろう。呼び方が昔のものになっている。
 宥めるように視線を合わせるが、ますます混乱させてしまったようだ。
 慌てて起き上がろうとした身体は、貧血からだろうふらついていて。肩を支えてやるが、頭痛がするのだろう。呻いて
 きつく目を瞑ってしまった。もしかしたら、貧血になったのも初めてかもしれない。

「起き上がるんじゃねぇ。…ほら、寝てろ」
「う…」

 ベッドにゆっくりと横たわらせてやると、幸村が縋るような目で見上げてきた。
 その茜色に映った不安に朝の出来事が甦る。そのことだけが原因ではないだろうけれど、自分でしでかしたことだ。
 フォローはしておくべきだろう。
 政宗は栗色の頭をそっと撫で、いつの間にか自分より一回り以上も小さい手を握ってやる。

「……朝は悪かったな。気が立ってたんだよ…」
「………はい」
「ここにいてやるから、少し眠りな。You see?」
「…はい…」

 まだ多少不安そうではあるが、握った手を揺らしてやると大人しく目を閉じた。
 身体がだるいのだろう。すぐに寝息が聞こえてくる。

「慣れていますね。…話しぶりから察するに、ご近所さんか何かですか?」

 楽しそうにこちらを見ていた明智が小さく笑いながら問うた。
 驚愕に言葉も出ない、といった風なかすがを尻目に頷く。

「ガキの頃からの付き合いだ。…マンションの部屋が隣なんだよ」
「なるほど」
「…初耳だ…」

 聞いてないぞ、と恨めしそうに幸村を見るかすがに苦笑する。おそらく今幸村と一番仲のいい友人だろう彼女にも
 政宗の存在は教えていなかったらしい。
 おそらく自分が中学に上がった際に外であまり話しかけるな、知らないふりをしろと言ったからだろう。律儀に守って
 いるところが幸村らしかった。

「ここまで貧血がひどいとなると少々心配ですね…。病院に行くほどではないですが、今日の授業は無理でしょう」
「…家に帰すのか?」
「その方がいいのですが…彼女一人では帰れませんねぇ。お迎えを頼むか…」
「今日こいつんちは誰もいねぇよ。猿…保護者が出かける日なんだよ。Shit…間が悪いな」

 幸村の保護者である佐助は、基本的に家で仕事をしているが、月に三回ほど出社する。今日はちょうどその日
 で、彼女は夜までいない筈だ。政宗の保護者である小十郎も今日は会議で遅くなるのだと聞いている。
 そう明智に話すと、彼は困ったように考え込んだ。

「弱りましたね…。私、これから出張なので送って行けませんし…。他に手の空いている先生もいるかどうか」
「Really?」

 聞けば今日は教員も出張が多く、どの教員も席をはずすことが出来ないらしい。
 とはいえ、このまま寝かせておくよりは家に帰った方が休まるだろう。こういう場合は特に。
 しかし一人で帰らせるわけにはいかない。途中で倒れでもしたら大変だ。政宗とて、幸村を一人で帰らせる気は
 なかった。しかし誰も送り迎えが出来ない。かすがをつかせるのも手だが、彼女にもこの後授業がある。
 政宗は嘆息すると、繋いだままの手をそっと放そうとした。けれど思った以上にしっかりと握られており、離れたら目
 を覚ましそうだ。
 ―――彼女は幼いころと、何も変わらない。
 辛いだとか、寂しいだとか、そういった負の感情は決して言葉や態度に出さず、一人で耐えようとする。その癖本
 当は寂しがり屋な一面があるのだ。
 それを見つけるのは、いつも政宗の役目だった。距離を置くようになってからは、彼女の泣き顔を見ていない。
 ほんのりと赤みを取り戻した寝顔を見つめる。穏やかに眠る顔はあの頃よりずいぶんと大人びた。
 中学に上がった彼女を見た時、驚いたものだ。スカートを着ている姿も初めてだった。セーラー服の襟から見えた
 項が、そう長くはないスカートから伸びた足が、やけに目についた。他の女子生徒だって、似たような格好をしてい
 るのに、何故か幸村だけが違って見えた。
 その理由に、政宗はもう気付いている。気づかないふりをしていただけで。

「どうしましょうね…」

 小さな呟きに、政宗は思考の海から引き戻される。
 ちらりとよこされた意味ありげな視線に思わず睥睨を返した。言いたいことは察せられる。
 この後の授業は何があっただろうか。政宗は今日の授業内容を思い返す。
 どうせ授業は受けても受けなくても、大した変わりはない。政宗にとって、高校の授業はそう難しいものではなかっ
 たから。
 嘆息を一つもらし、肩をすくめた。

「…OK.俺が連れて帰る」
「おや、それは助かります」
「……ったく、最初からそうするつもりだっただろうが」

 家が隣だと話した時点で、そう言われるのではないかと思っていた。

「Hey.そこのアンタ」
「な、なんだ」

 振り返って、心配そうに幸村を見つめるかすがに声をかける。
 肩を揺らした少女は、警戒しながらもキッとこちらを見上げてきた。その様子が幸村とは対照的で、苦笑する。

「幸の荷物持ってきてくれねぇか?さすがに俺が中等部に行くわけにはいかないだろ」
「え…」
「連れて帰んだよ。ここで寝るより、家に帰って寝た方がまだマシだろ?」

 保険医が出張となると、ここに寝かせておいても看てくれる人はいない。ならば連れ帰った方が自分の心情として
 も楽だ。かすがは一瞬考えるそぶりを見せたが、結局何も言わずに保健室を出て行った。

「伊達君も今のうちに荷物を持っていらしたらどうですか」
「…あの女が戻ってきたらな」

 一応保険医だが、この男はいまいち信用ならない。
 政宗の考えが読み取れたのか、彼はにやりと笑った。

「私が興味があるのは出血している怪我だけですよ。あの赤と女性特有のものは違いますからね」
「…そんなもん講釈しなくていい」
「おや、この崇高な趣味がわからないとは…」
「I don't want to understand it.」

 何故この学園はこんな変人を採用したのかわからない。
 政宗は睥睨しつつ、明智から幸村を隠すように立った。なんとなく、この男の目に彼女を晒すのは嫌だった。
 いつの間にか授業は始まっており、遠くからかすかに教師の声が聞こえる。今は4時間目だ。佐助が出社する日
 は昼食は自分で購入するようにしている。おそらく幸村も今日は持ってきていない筈。貧血は心配だが、秋晴れ
 と呼ぶにふさわしい天候だし、ゆっくり歩いて帰れば大丈夫だろう。
 柔らかな栗色の髪を指で梳く。慎重に頬に滑らせた手に、柔らかな肌がすり寄ってきた。

「…ゆき」

 囁くように呼ぶ。
「女」になった少女は、これからどんどん変わって行くだろう。身体も、心も、いろんなことが。その時自分はどうする
 のだろうか。変わっていく彼女を、ただ見ているだけなのだろうか。
 彼女が誰かの手を取るその時まで―――そんなこと、想像するだけで嫌になる。他の誰も幸村に触れなくてい
 い。
 ずっと傍にいたのだ。物心つく前から、ずっと。
 初めてだった。何の気負いもなく、母親ですら嫌がったこの右目に触れてきた人間は。誰もが同情の眼差しを向
 ける中、幸村だけが違った。
 だから「特別」になった。
 そうだ、もうとっくに幸村は自分の特別なのだ。他の誰とも違う、幸村だけが自分を満たす。

「I'm like a fool…」

 最初からわかっていたはずなのに、認めたくなかったのだ。
 特別を作ることを恐れていたからかもしれない。けれどそのせいで幸村が他の誰かのものになるなど、耐えられな
 い。
 もう認めてしまおう。自分の中に根を張ったこの感情に、大人しく名前をつけよう。

「認めるのに、ずいぶん遠回りしちまったな…」

 柔らかな頬をくすぐるように撫でると、幸村は眉をしかめる。その仕草が幼いころと変わらなくて、こみ上げる愛しさ
 と共に苦笑した。
 戻ってきたかすがと入れ違いに保健室を出て、手早く下校の準備を済ませる。教師が何か言いたげにしているが
 気にしない。早退の手続きは明智がしてくれると言っていた。

「ゆき、起きろ」

 保健室に戻ってきた政宗が声をかけるが、むずがるように唸ったベッドの住人が起きる気配はない。
 嘆息しながら覗きこむと、億劫そうに目を開ける。薄く開いた茜色はまだ覚醒していないようだ。
 基本的に幸村の寝起きは悪くない。眠りに就くことは苦手だったが、朝には強かった。幼い頃は政宗より遅く起き
 ることなど、病気の時以外はなかったくらいだ。今の症状は病気ではないとはいえ、貧血がひどいせいで起き上が
 るのも辛いのかもしれない。
 政宗は嘆息すると、自分の鞄と幸村の鞄を掴む。

「Get up.マンションまで歩くのは無理か…?」
「そのようですね…。連れて帰るのは難しいですか?」

 唸る幸村はまだ辛そうだ。家まで歩くのも厳しいだろう。
 明智やかすがも眉をひそめる。しかしこのまま寝ておくわけにもいかない。

「幸、少し我慢できるか?」
「…まさ…?」

 掛け布団をはいで、ゆっくりと身体を起こしてやると、薄っすらと開いた茜色がこちらを見上げてくる。
 背中と膝に腕を添えて横抱きにしようとすると、細い腕が政宗の首に回った。
 縋りつくようなその腕にあるのは全幅の信頼で。政宗は慣れた手つきで幸村を抱きあげた。

「鞄、俺の分も持てるか?」
「うん…」

 力のない手で幸村が二人分の鞄を腹の上に置く。
 よく食べるわりに細くて軽い身体は、今はいつもの甘い匂いではなく、微かに血の匂いがした。顔色は多少戻った
 ものの、いまだ青い。
 靴はどうしたものかと思っていると、かすがが幸村の足にはかせていた。なかなか気がきいている。

「明智、こいつ連れて帰るぞ」
「ええ。お願いしますよ、伊達君」

 怪しげな笑みを浮かべている明智は、二人分の早退届けを手早く書いていた。
 不安げにこちらを見ているかすがに気付く。幸村の顔を向けてやると、白い指がそっと幸村の頭を撫でた。

「…大丈夫なのか?」
「はい。すみませぬ…色々と」
「気にしなくていい。…伊達、先輩」

 戸惑い半分に見上げてくる視線に目をやると、かすがは幸村と政宗を交互に見て小さく頭を下げた。

「幸村をよろしくお願いします」
「Of course I understand it.」

 明智に視線だけを寄越して、政宗は保健室を出た。
 腕の中の幸村は、マンションに辿りつくまで無言のまま、政宗に力なくしがみついていた。












     ういごころ ――前編





 
 
 
 
 
 
 
 


       ブログで連載していた、「ちまちゃんたちが大きくなったら」なお話です。
       思ったよりたくさん書いてました(笑)一度はやってみたかったネタだったりします。
       まー君の方が自覚早くて、でも認められなくて…。まさに青春してます!
       前後編になってますので、後編はしばしお待ちを。

         2011/08/01 繋いだ手と、たくさんの思い出。