どうか、思い出さないで。


 忘れていて。


 こんなつらいだけの想いは、あなたに必要ない。
 幸せになるはずの、人だから。幸せになって欲しいから。

 僕が、持って行くよ。―――この子と一緒に。









     薄紅残像










 体調不良があまりにも続いた。
 元々戦後からすぐれなかったため、気づくのが遅れた。

 だから、―――でも、まさか。


「ラクス」

「お医者様に、確認して頂きましょう」

 馴染みの――アスハの息がかかった医師ではいけない。そのため、こっそりラ
 クスのつてを頼って検査をした。


「…もう、○週になっています」

 戦後の疲れなどで、はっきりとわからなかったのだろうと。
 母体が弱っていたため、わからなかったのかもしれないと。

 何よりコーディネーターの自然妊娠は珍しく、オーブの医師には診断出来なか
 ったのだろうと。


 憶測だらけではあったけれど。確実に、ここにいる。


「赤ちゃん…?」


 体を重ねたのは、後にも先にもあの人との1回の逢瀬だけ。
 ずいぶん前のことに思えるあの時だけ。
 あの1回で、自分の体に宿った命―――。

「そんな…」

 青ざめたキラに、ラクスが気遣わしげに手を添える。
 小さな体には戦争でついた傷が完治しておらず、いまだに包帯が巻かれている。
 そんな少女の胎内に、命が。

 ラクスは知っている。
 父親が誰か。

 キラは彼に告げないだろう。いや、告げることが出来ない。
 なぜなら彼は、キラが女性だと知らないから。
 キラを愛したことを、忘れてしまっているのだから。
 忘れた今彼はここにはいない。キラの半身である少女と共に、いる。


「ラクス…」

 潤んだアメジストの瞳が痛々しい。
 縋るように預けられた体は細く、頼りない。

「キラ…」

「どうしょう、僕…」

 産みたい、と。
 動いた唇を見た時、泣きたくなった。
 命の重さを知ってる彼女にとって、宿った命を奪うなんて出来ないのだ。
 ましてや愛した彼の子供。選択肢など、最初からないようなものだった。
 それにもう腹の子は育っていて、なかったことになど出来ない。
 もう少ししたらだんだん腹も膨れてくる。そうなれば隠すことは難しい。

「キラ」

 ならば、彼女の望むままに。
 ラクスはキラの体を抱きしめて、決意した。










 海辺の小さな孤児院から、二人が消えた。
 復興に関わり、忙しくし始めたアスランがそれを知ったのは、すでに3ヵ月も
 後だった。


「…いない?」

 久しぶりに訪ねた孤児院には、幼い頃から世話になってきたもう一人の母がい
 た。
 消沈した顔は嘘をついているそれではなく。
 だからこそ、本当なのだとわかった。

「どこに行ったのか、わからないんですか?!」

 焦燥感ばかりがつのり、アスランはカリダに詰め寄るようにして問う。

「ごめんなさい、アスラン君…。でもただ行ってくるって何も持たずに行って
 しまったの。だからいつもの散歩だと思って…」

 すぐ帰ってくると思っていた。
 いつもと同じように、だだ「行ってきます」と言って―――。
 カリダはそこでふと違和感を感じて黙り込んだ。
 あれほど自失していたキラが、はっきりと言ったのだ。
 戦争を経験してから、子供は変わってしまった。
 笑わなくなった。話さなくなった。

 ならば、あれは。

「カリダさん…?」

「あの子たち、決めていたんだわ」

「え?」

「じゃないならあんなにはっきり言わない…」

 出ていった時の顔を思い出す。
 そうだ、違和感はまだあった。キラが微笑んでいた。
 戦後笑わなかったあの子が。

「きっともう、戻って来ないわ…」

 優しい子供はもう二度と、ここへは戻って来ないだろう。
 いつもどこか遠くを見つめていたアメジストが、それを確信させた。

 悲しげに呟いたカリダに、アスランは目を見開いた。



 キラはラクスと消えた。
 自分は置いていかれた。
 どこかつらそうに笑うキラを見なくてもいい。
 けれどもう微笑むキラを見ることは出来ない。

 触れることも、名前を呼ばれることもない。



「キラ…」

 覚束ない足でアスランはキラの使っていた部屋に行く。

 小さく音をたてて開いた扉の向こうは、きれいに整えられていた。
 まだキラの気配が残っている。
 ラクスの気配も、共に。

 恋人のように寄り添っていたのだ。彼女の気配があってもおかしくはない。
 けれどキラの隣が捕られてしまったと、漠然とした寂寥感が浮かんでいた。

 優しい春の匂いがした。
 馴染み深い香りは、昔の穏やかな場所を思い出す。
 何をするときにも隣には無邪気に笑うキラがいて、小さな手を繋いで歩いた。

 薄紅が散る中、出逢いと別れを。

 爆炎の中、再開を。

 ずっと、二人でいられるわけがないと知りながらも、キラと離れることはもう
 ないと。

「っ…キラ」


『アスラン』


 柔らかく微笑むキラが閉じた瞼の奥にいる。

 再会してから、少し遠い感覚が消えなくて悲しい。昔のような笑顔を一度も見
 ていない。

「どうして」

 せめて何か残して行って欲しかった。
 自分だけには、何か。

 ふと、視線を上げた先。メタリックグリーンが掠めて、アスランは目を見張っ
 た。


「トリィ…?」
 

 カリダが言った。
 きっと覚悟の失踪だと。
 ならば置いて行ってもなんの不思議もない。

 けれど、あれだけは。
 戦中も決して手放さなかったと聞いていた証だけは。
 絶対にキラの傍に置いていてくれると思っていたのに。
 年月を物語るように、ボディには傷がついている。少し溶けたような跡もある。
 キラのために必死で丈夫に作ったトリィはそう簡単に傷がつくことはないはず
 だ。

 唐突に、赤い閃光が脳裏に浮かび上がり、アスランはそっとトリィを持ち上げ
 た。

「キラ…」

 一度は奪おうとしたのだ。
 誰より大切だと思っていた幼なじみを。
 怒りに任せて、あの優しい思い出を消そうとした。


『アスラン―――!』


 悲痛な叫びと、衝撃。
 殺して殺されて、残ったのは虚無感と絶望だった。
 大切な人の血で手を染めて、得たものは名誉と勲章。そんなもの、いらなかっ
 た。
 欲しかったのは、そんなものじゃなかった。

 またこの手をすり抜けていく。
 無くしてしまう。


「どこに、行ったんだ…」

 部屋に残るキラの痕跡すら、今のアスランにはつらく感じ、きつく目を閉じる。
 淡い笑みを浮かべたアメジストが、琥珀とかぶった。
 似ていると思った。再会してから、昔のようにいかなくてつらかったとき、太
 陽みたいな少女に癒された。
 だからキラとの間に出来た溝をカガリで埋めようとした。
 どこかで似たような手に癒されたことがあると、思ったけれど。深く追求する
 ことはなく。



 それがキラを遠ざけたとは気づかずに。


 なにが足りないのかわからない。


「キラ…」



 逢いたい。










 数ヶ月で随分育った胎をゆっくり撫でながら、キラは顔を上げた。
 誰かに――呼ばれたような気がしたのだ。

「そんなわけ、ないか」

 彼がここに気づくことはまずないだろう。
 色々な人の協力を得て、キラはここにいる。

 ―――彼の人の、故郷。同胞たちのいるところ。

「キラ…お加減はいかがですか」

「ラクス」

 かたん、と言う音に振り向けば、優しくピンク色の長い髪が揺れて。
 薄藍の瞳が嬉しそうに細められた。

「今日は調子いいよ。この子も…元気そう」

 弱った体では順調に育つのは難しいと医師に言われていたにもかかわらず、特
 に大きな問題もなく育っている。
 優しく微笑むキラに、ラクスも笑った。
 後2ヶ月と少しで生まれる予定の子供。
 少しでもキラの癒しになればと思う。
 
「議長が様子を見にいらっしゃるそうですわ。イザーク様やディアッカ様も」

「本当に?みんな忙しいのに…」

 困ったように笑うキラは、オーブにいた頃のようなどこか悲しげな笑みでは
 ない。
 ラクスと共に足を踏み入れたプラントは、キラの心を癒やしていった。
 ここに来て、出逢った人々にラクスは感謝している。

「みんなキラに逢いたいのですわ。その子が生まれるのを、心待ちにしていま
 すもの」

 つてを頼ってプラントに来てすぐ、連絡を受けたイザークがディアッカと共に
 迎えに来た。
 泣きそうに瞳を揺らすキラに、イザークは戦中のことは関係ないと不器用に微
 笑んでくれた。
 子供の父親については、誰にも何も聞かれなかった。もしかしたら、わかって
 いたのかもしれない。
 ディアッカはすぐに眉をひそめたから。アークエンジェルに乗艦していた彼は、
 キラの想いを察していたのだろう。
 聞かないでくれる優しさが嬉しかった。
 イザークを通じてか、現議長ギルバート・デュランダルがキラに会いに来た。
 実母と知り合いだという彼は、キラと腹の子を守ると約束してくれて。

 信じてみようと思った。彼らを。
 胎内に宿る命を守ってくれるというのならば。



「早く君に逢いたいな…」

 誰かに望まれて、生まれてくる生命。
 キラがアメジストを潤ませ、腹の子に話かける。
 優しく撫でながら、囁くように話すキラはもう本当に母親の顔をしていた。
 以前と違い、新たな生きる目的を見いだした彼女は美しいとラクスは目を伏せ
 て思った。










 亜麻色の髪に翡翠の瞳の嬰児が誕生したのは、寒い冬が終わり、薄紅の花が
 蕾をつける頃だった。





















     若葉









「なぁ、レイ」

 軍の訓練の休憩時間、ルナマリアやメイリンに代わる代わる抱き上げられて、
 楽しそうにはしゃぐ幼子を見つめながら、シンが小さく呼んだ。
 レイは手元の本から目を離し、シンの方を見て首を傾げる。

「なんだ?」

 返事の意味を込めて問いかけると、シンは紅玉の瞳はそのままに、少し逡巡し
 てから口を開く。

「…リュイの親って、どうしてるわけ?」

「キラさんがいるだろう」

 素っ気ない返しに、いや母親は知ってるけど、と慌てて付け加えたシンは、ペ
 タンと懐いていたソファーから体を起こしてレイを見た。
 紅玉の瞳には、ちょっとした疑惑のようなものと、純粋な心配が映っている。

「キラさん…だけ…だろ?今は議長が気にかけてるけど、他の身よりとか……
 父親とか」

 最後の方は居心地が悪いとでも言うように、シンはそっぽを向いて呟いた。し
 かしそれが一番知りたいことなのだろう。
 幼子は笑いながらルナマリアに抱かれている。
 亜麻色のまだ短い髪が、ふわりと揺れた。母親であるキラと同じ色の髪は、触
 れるとさらさらしていることを知っている。

「…リュイの父親は、ラクス様しか知らない」

「え?」

「キラさんが断固として言わないそうだ。多分…父親にはリュイのことを知ら
 せてないだろう」

「そんな!」

 レイの淡々とした物言いに、シンは眉をひそめた。

「…あまり込み入ったことは聞かないでおいた方がいい」

 そう言って本に目を戻したレイは、あの日のことを思い出した。










 叶うはずのない恋をしたんです。


 ギルバートと話すキラの声は、悲しみと愛しさを含んでいたと思う。
 偶然通りかかった廊下で聞いてしまった話。
 気になってこっそり覗いた先で、キラが大きな腹を撫でながらそう言った。も
 う臨月で、周りが慌ただしくしている中、当の本人はよく議長の元を訪れる。

「彼は、僕のことを知らないから。…忘れてしまったから」

「キラ…」

「きっとオーブで、僕の片割れの隣で、幸せでいてくれてる」

 愛しいと、キラのすべてが言うようだった。
 決して名前を出さずにいるが、話の内容からして、赤子の父親のことだろう。

「汚れたこの手は、あの人に相応しくないんです。本当はこの子も…僕の手で、
 触れていいものじゃない」

 キラが先の大戦を戦い抜いたことは知っている。出逢ったとき感じた通じるも
 のに、彼女の生まれも記憶も教えられた。
 深く頭を下げて謝った彼女はいっそ潔く。決して涙を見せない様は強さを現し
 ていた。
 しがらみも何もかもが解放された気がした。
 だからレイは決めた。
 なにがあっても、彼女と彼女の子を守ると。

 例えばそれが子どもの父親からでも。


「この子を望んだのは僕のエゴです。捨てきれなかった彼との…たったひとつ」

 すべてを置いてきた。
 思い出も、宝物すら。
 けれどひとつだけ…連れてきた想い。

「僕の…すべて」

 まだ少女と呼ぶ年齢の彼女は、ふわりと微笑んでそう言い切った。
 腹の子はもうすぐ生まれる。

「名前はもう、決めたのかい?」

 ギルバートの問いかけに、キラはゆっくり頷いた。


 数日後、生まれた女の子につけられた名前。
 思い出の場所ですね―――と。名前を聞いたラクスが切なげに笑いながら呟
 いた。










 優しく響く子守歌にあわせて、キラは赤子を揺らす。
 ようやく世話にも慣れてきた。あまり泣き喚くこともないので、そう大変ではない。

「…おねむりになりましたか」

「うん…ありがとう」

 うにゅうにゅと口元を動かしながら眠る赤子を覗き込み、薄い毛布をかけて
 やるとキラはラクスに笑いかけた。
 我が子といる時間はキラの寂しさも空しさも忘れさせてくれる。

「可愛らしい寝顔ですわ。キラによく似ていますのね」

「うん、僕と顔つきそっくり。違うのは…瞳の色くらい」

 キラの言うとおり、今は見えない赤子の瞳はキラの美しいアメジストではなく
 ―――切り取ったようなエメラルドグリーン。彼より濃いくらいの碧。

「きれいな目」

 キラは瞳を細めて柔らかい頬を撫でる。

「…瞳の色だけ…お父さんに似たね」

 小さく呟いた声は、ラクスには届いていた。
 揺りかごをゆっくり揺らしながら、キラは愛しげに話す。

「君をお父さんにあわせてあげられなくてごめんね…。でも必ず僕が守ってあ
 げるから」

 思い出は捨ててきたはずなのに、ふとした時に彼の翡翠を思い出した。
 同じ色の瞳は彼とのつながりを表す唯一のもの。
 泣いてしまいそうなほど、自分は彼を望んでいる。
 捨てきれない想いが、ジクジク胸を締める。
 それすら幸せなのだと、誰にも言えない。
 プラントの人達はみんな優しくて、戦中やオーブにいたころのようなつらさは
 何もなかった。
 自分と子どもを受け入れ、笑ってくれる。

 けれど、心はあの人を求めるから。体に焼き付いた想いが胸を焦がして、消
 えない。


「…リュイ」

 幸せでいて。
 生まれてはいけなかった“キラ”を一時だけでも愛してくれた彼はずっと笑っ
 ていて欲しい。
 太陽の元で、光の中で。

「いつか君が月を必要としなくなる日まで、僕は傍にいるよ…」

 だから生まれたことを後悔しないで。
 望まれて生まれた君。
 僕の、すべて。



 窓辺から淡い光が射す。
 偽物のその光さえ、今のキラには眩しい。
 満天の星に包まれた、泣きそうな月がキラのようだと、母子を見つめるラクス
 は思った。


「こんなに冷たいとばりの深くで…」

 キラのために、リュイのためにラクスは歌う。

 早く、気づいて。
 思い出して。
 忘れた想いを取り戻して。
 アスラン。


 ずっと傍にいたから、ラクスは知っている。
 自分には恋も愛もまだわからないけれど、強い想いはきっと届くはずだから。
 小さく紡いだ歌に込められた想いが伝わればいい。

「あなたの夢を見てた。子どものように笑ってた―――」

 響く歌声に、キラはそっと目をとじた。









 それから1年。
 再び狂いはじめた運命の歯車の中で、名前を偽った彼と、淡い光の名前を持っ
 た幼子が出逢った。


 祈りの歌声が響く中。
 巡り、そして。

 動きだす。

 それは未来の、約束。神の悪戯が続く中、それは起こった。


















       何が大切か、わからないまま。手を伸ばしたのが、間違いだったのだと。

          07/07/07  ブログから再UP 「花はすでに開花した。けれど、全ては幻」


       悲しみの淵から光は生まれた。それが、罪だとしても―――幸せだと、思った。

          07/08/11  ブログから再UP 「幸せを閉じ込めた。まだ心はそのままに」