弱くて、脆い。
 僕はこんなにも。

 ねぇ、どうして?
 君は太陽を選んだはずなのに。

 お願い。触れないで
 まだ、僕は。



 君の手を、そのぬくもりを、声を、瞳を、―――すべてを。

 忘れられないの。









     夢想










 見開かれた翡翠が戸惑いに揺れている。
 思い出さないでと強く願う反面、心のどこかで泣きながら乞う自分がいる。


 ―――忘れないで。


「ヒビキ…って」

「え?ああ、僕の名前、今はキラ・ヒビキだから」

 何でもないふりをして答える。
 本当は泣きたくてたまらないのに。

「っ…結婚…したのか?」

 目を見張るアスランに、キラは首を横に振った。

「ううん、違う。ヒビキは僕の本名。ヤマトは…母さんの妹の嫁ぎ先」

「え…」

「知ってるでしょ?僕の本当の親はあの写真の人で、ヤマトは引き取り先だっ
 て」

 キラの言葉に、アスランとカガリは視線を落とす。
 けれどキラは逸らさなかった。

「リュイの父親はもういないんだ。あの子が生まれる前に…」

「そう…なのか」

 アスランが複雑な顔をしたが、キラは淡く微笑むだけだった。
 ―――嘘はついていない。
 父親がいないことも、生まれる前に別れたのだから。
 いや、それ以前に知らせていなかった。
 言えるわけがなかった。

「ごめん、何も言わずにいなくなって」

 謝っても赦されないことをしているけれど。
 これ以上は、自分が壊れてしまいそうだった。
 今も痛みが増しているのに、涙は浮かばない。
 それどころかもう感情が麻痺してしまったかのように笑うしか出来なかった。

「いや、無事で…よかった。けど…その」

「キラ、お前女だったのか!?2年前は…」

 アスランの逡巡した台詞を今まで戸惑った様子で傍観していたカガリが叫ぶよ
 うにして言った。
 琥珀の揺れ具合からして、きっとまだ混乱している。
 キラは困ったようにギルバートを見た。

「…キラ」

 アスランが再び手を掴もうとするが、その前にイザークが割って入った。
 アイスブルーに浮かぶのは焦燥と怒り、そして憐憫だった。

「悪いな、時間だ」

「イザ…」

「議長、申し訳ありませんが、シャトルの出発時間が迫っています」

「ああ」

「キラも、リュイが待ってるぞ」

「うん…」

 アスランをちらりと見上げた後、キラはイザークに促されるまま歩き出した。
 キラにとって、今一番大切なモノはリュイであり、アスランとのことではない。
 背中にイザークの手と、アスランとカガリの視線を感じながら、キラは振り向
 かずにシャトルへ向かった。
 キラが小さく震えていたことは、イザークしか知らない。


「…イザーク」

「なんだ」

「僕、上手く笑えてた…?」

 シャトルに乗り込む直前、キラはもう影になって見えないアスランの方を見な
 がら小さく問いかける。
 イザークはキラの頭を撫でると、頷いて背を押した。

 痛みを背負ってなお、キラはきれいなままだ。
 イザークにとって、彼女とその子どもは昔の自分と被るところがある。
 自身の母がそういう人だったからだろうか。
 母はパトリック・ザラに加担した。それはプラントのためであったとわかって
 いる。
 ―――自分は母を止めることができなかった。
 間違っていることに気づけず、母を一人にした。
 強い人ほど弱いのだと、知らなかった。

 キラは強い。
 けれど弱かった。
 一人抱え込んで生きる少女だった。
 自分と一つしか違わないが、戦中の罪を認め、子供を育て、自分の生まれた意
 味を探している。

 守ってやらなければ、いつか疲れてしまうだろう。
 ならば彼の代わりだとしても、今は自分が守ってやろうと決めた。
 幸いにも、彼女には味方が多い。
 すべてを知る者たちが自分と同じく、彼女たちを守ろうとしている。

「イザーク」

 ふと名前を呼ばれ、思考の海から戻った。
 顔を上げると、ドアの向こうに人の気配を感じる。

「どうした?」

 開けてみると、部屋で休んでいたはずのキラが立っていた。
 シャトルでこちらに着いた後、キラは降りてすぐ倒れた。
 リュイが泣き出したのをギルバートが慰め、イザークはキラを医務室へ運んだ。
 すぐに目を覚ましたが、感情の高ぶりからかしばらくは落ち着かないようで。
 ディアッカとイザークが交互に見舞い、だいぶ落ち着いた頃に部屋に移った。

「さっきは、ごめん…。取り乱した」

「いや…大丈夫か」

「うん、もう逢うこともないだろうし」

 キラは自分で言いながら傷ついたように瞳を揺らした。
 逢いたいと思ってしまう自分を嫌悪した。
 イザークはキラを室内に入るように促すと、自分は備えつけの簡易ティーセッ
 トを用意する。

「あ、ありがとう」

 差し出されたのはきれいな琥珀色の液体。
 キラはカップを両手で包むようにして持った。

「僕…戦争が激化するまで月にいたんだ」

 急に話し出したキラに、アイスブルーの瞳が軽く瞠られる。しかし口は挟まず、
 イザークは向かいに座り、紅茶を啜った。

「幼年学校に上がるころ出逢ってね…どんな時も一緒にいた」

 アメジストが伏せられ、その輝きを隠す。

「それこそ兄弟みたいに。僕の方が誕生日早いのに、いつも彼の方がお兄ちゃ
 んみたいで」

 その頃は性別なんて関係なかった。
 キラは自分が女性であるという自覚はなかったし、男の子の格好をすることに
 疑問も持たなかった。
 けれどレノアは知っていたのだと、今になって気づいた。

『キラちゃん、おばさんに付き合ってちょうだい』

 彼とそっくりな容姿でクスクス笑い、彼女はよくキラに可愛らしい服を着せた。
 キラが疑問を持たないように、たまにアスランも巻き込んで。
 自分が女性だとはっきり知ったのは物心がついてしばらくしたころだった。
 水泳もお風呂も、学校の旅行もあるからちゃんと話すべきだと思ったのだろう。
 母はキラにこれは絶対にバレてはいけないことなのだと念を押して、秘密を話
 した。
 当時は理解できなかったが、今ではもうその理由まではっきりとわかっている。

「秘密を持つのがつらかった。僕の一番は彼だったから…」

 10歳を過ぎると、幼いながらに恋愛事が多くなった。
 彼はとても人気で、キラは彼の幼なじみであることに優越感を感じると共に、
 少しの胸の痛みを覚えるようになった。

「クラスの…可愛い女の子がね、僕によくアスランのこと聞くの。他のクラス
 の女の子も手紙渡して、とかたくさん…」

 頬を紅く染めて、瞳を潤ませて。
 キラキラ恋に輝く女の子たち。

「羨ましかった。あの子たち…」

 優しい彼は隣にいさせてくれたけれど。
 それだけじゃ足りなかった。
 いつの間にか、もっと、と望むようになった。




 思い出すのは、薄紅色の花吹雪。
 メタリックグリーンの小鳥。

『首傾げて、鳴いて、飛ぶよ』

 泣きそうな自分にくれた、ロボットの鳥。

『大丈夫だよ。プラントと地球で戦争なんか―――』

 彼も少し潤んだ瞳をしていた。
 一番好きな、翡翠。
 見つめることしか出来なかった。
 その頃にはもう、自分の中にある気持ちの名前を知っていたけれど、告げられ
 なかった。

『キラもプラントにくるんだろ』

 頷いたけれど、それは夢のようなことで。

 3年後、まさかあんなことになるなんて―――。


「あの日…地球降下した時ね…。僕、死にたかった」

「…え?」

「アスランと決別して、もう赦されないところまで来たと思った…」

 ピンク色のふわふわしたお姫様。
 彼の隣はいつの間にか別の人が立った。
 何度も拒絶した。傍に痛かったけれど、怖かった。
 だって知っていた。汚れた自分がもう隣にいることなど出来ないと。

 そう、思っていた。

『キラ―――?』

 呼ばれた名前に振り向いてしまった。
 愛しいと叫ぶ身体が、足を、手を、瞳を。
 あの人に向けてしまった。

『キラ』

 向け合った銃に、弾なんか入っていなかった。
 嫌悪でも、何でもいい。もう一度、その目に映れて嬉しかった。

『セーフティーしたままで、撃てるわけないだろ…』

 銃を奪われ、抱きしめられた。
 二度と叶わないと思っていた腕と優しい声。
 どうしてなんて言えなかった。
 突然のスコールに、手を引かれるまま入った洞窟。
 着替える際に気を抜いたせいで見つかってしまった胸元。
 ―――知られてしまった。
 パニックになって逃げようとするキラを、彼は抱きしめた。
 放して、ともがくうちに押さえつけられる。彼の腕の中に抱き込まれた。
 もう、終わりだと思った。
 目を閉ざして、身体の力を抜く。
 二人とも口を開かないまま、しばらく経ったころ、抱きしめる腕はそのままに、
 彼は言った。


『キラ』

 ずっと、好きだった。


 彼の言葉に固まった身体をきつく包み込んで、涙の雫は彼の肩に吸い込まれて
 いく。

『今更、だ。けど…』

 吸い寄せられるように顔を寄せる。
 再度告げられた愛の言葉に、世界中の幸せを凝縮した気分になった。

『僕、も』

 君が好き―――。

 いけないと知りながらも、言わずにはいられなかった。
 縋るように抱きついて、唇を重ねて。
 涙を掬う指を、こちらを見つめる翡翠を、本当に愛しいと思った。





 朝日を見た。

 海から白い光が射す。
 光を優しいと思ったのは初めてで、自分をしっかりと抱きしめる腕はあたたか
 かった。
 知らずこぼれた涙は悲しみからではなく、幸せと愛しさからで。

『アスラン…』


 それはたった一夜の出来事。
 永遠を望めないと知りながらも伸ばした手は、まだ届く距離にあった。

 たった一度の逢瀬。

 昔聞いた引き裂かれた恋人の物語よりも、それは切なく甘い。

 悲しい物語になった。





 一度だけ告げることが出来ただけで、幸せだと。

 目の前の彼女は言った。














 たった一夜。
 ただ一度きりの契り。

 それは少女にとって、何より幸せな夜だった。


『愛してる、キラ』


 もう二度と聞けない言葉。
 二度と言わせてはいけない言葉。
 その言葉は、彼が本当に愛した人にだけ伝えなければならないから。
 これからの永い時空の中、傍にいるだろう太陽に。


 好きだった。愛していた。ずっと、忘れない。

 だから、大丈夫。
 この身体に宿った命を包んで、生きていくから。


 願いは、君とこの愛し子の幸福―――。









     心の懐










 窓の外に広がる宇宙。
 散りばめられた星たちが光る。
 照明の灯りに窓ガラスが反射して室内を映し出していた。
 薄い青を基調とした部屋の中で、伸びた亜麻色が少女の表情を隠している。
 イザークは冷めた紅茶を入れ直しに腰を上げた。

「…ねぇ」

「なんだ」

 小さな声に振り向かないまま答える。
 静かな室内に響くのは陶器のあたる音だけ。
 キラは特に気にした様子もなく、顔を上げた。

「…イザークは忘れたい記憶って、ある?」

「…!」

 唐突な問いに、イザークは思わず息を呑んだ。
 ゆっくり振り返った先には、無表情のアメジスト。
 感情の色が見えないその目は恐ろしいほどに美しかった。

「今でも思ってしまうんだ…」

「キ、ラ…」

「どうして、忘れたんだろうって」

 誰が何を、なんて聞かなくてもわかる。
 ただ無表情の下でどれだけ泣いているのか気になった。








 思い出すのはあの頃の記憶。
 忘れられない、あの日。


 夢のようなひとときの後に待っていたのは悪夢だった。
 想いを交わし合ったのが嘘だったかのような、戦い。
 友人を、仲間を殺し、殺された。
 互いに剣を向けて、討つ。あの時は彼を愛しているのと同じくらい憎んだ。

 けれど、殺されてもいいと、笑ったことを覚えている。
 もう戻れないのなら、いっそ。彼の手で。


『キラァァァァ!』


 憎しみのこもった声。
 気を失う前、キラは笑った。
 それが自嘲の笑みだったのか、壊れかけていたのかははっきりと言えない。








 目が覚めた時に、天国に来たのだろうかと思った。
 美しい緑と優しい自然の香り。
 碧に埋もれるような感覚は、キラの頭をはっきりさせることができない。

『お目覚めになりましたか?』

 聞こえてきた柔らかな声に、涙がこぼれた。
 重ねた罪に、最後に見た彼の憎悪に、そしてそれを悲しむ自分に嫌悪して泣い
 た。
 頭がはっきりした頃、ようやく自分のいるところがどこか知った。

『キラ…お辛かったでしょう?』

 優しい手、きれいな柔らかい。
 薄藍の瞳に罪悪感が募る。
 けれど、彼が生きていることが嬉しかった。

 すべてを吐露するように。あの夜のこと、その後の戦いのことを話した。
 話さずにはいられなかった。
 身体に染み着いた彼の想いと自分の想いは、残る痕は爆煙と負った傷で消えて
 しまったけれど。

 ずっと苦しかった。
 愛していたから。
 幸せだった。
 言葉を、想いをくれて。

 話終えたキラを、ラクスは怪我に障らないように抱きしめた。
 微笑みはそのままに、ただ優しく。

『ラクス…ごめんなさい…』

『何を謝ることがあるのですか』

 ラクスは知っていたのかもしれない。
 アスランもまた、キラの話をしていたのだから。彼の中に存在する誰か。
 だから純粋に二人が結ばれたことを喜び、戦争によって引き裂かれたことを哀
 しんだ。

 泣くキラを抱きしめて、ラクスは歌った。



 それから療養するうちに、キラはラクスと共に戦争の真意を知り、止めるため
 の手だてを考えた。
 そして、発つことを決めた。
 彼とのことは、今はまだそのままに。
 ラクスの導きで手に入れた、新しい剣を駆り、キラは飛んだ。



 再会は、オーブだった。
 その時はまだ、知らなかった。
 ラクスも気づかなかった。
 まさか彼に、あの逢瀬の記憶がないなど―――。

 キラにとっては、何ものにも変えられない大切な一夜。
 願いを込めて話したけれど、それは意外な形で裏切られた。

『キラがなんで知っているんだ?』
 
 翡翠に映るのは純粋な疑問。

『救助が来るまで一人だったし―――』

 目の前が暗い。
 彼の声が遠く感じる。

 ああ、彼は忘れてしまったのだと、あの逢瀬は本当に夢だったのだと思えた。
 まだあの夜のことが鮮明に思い出せるというのに、彼はそれを知らない。

 ならば、愛しい人。
 大切な君。
 どうか、忘れたままでいて―――。


 戦争が激化する中、自分の出生の秘密を知った。
 心が壊れそうだったけれど、耐え切れた。ラクスに慰められたことはもちろん、
 だがそれ以上に、これでもう戻れないと、思った。
 彼の隣に相応しいのは自分じゃない。
 もっときれいな柔らかい、優しい女の子。
 未だに男のままの自分、罪を背負った自分は彼に相応しくない。
 それどころかきっと、傍にいてはいけない。彼の妨げになってしまう。

 そうして泣いているうちに、彼の隣には自然と彼女がいるようになった。
 黄金の髪、澄んだ琥珀の瞳。性格も相まって、存在自体が太陽のような少女は
 自分の唯一の肉親だった。
 カガリといる時の彼はよく笑い、楽しげで。
 痛む胸を見ないふりして、ただ二人が近づくのを見ていた。
 キラと彼らの間には、ガラスだけれど強靱な壁が横たわっている。
 彼が笑うのを見る度に、キラが離れていくことにラクスだけが気づいていた。


 迎えた停戦、心身疲れきったキラの傍にいてくれたのはやはりラクスで、彼ら
 が愛し合う姿を見てももうなんの感情も湧かなかった。
 疲れていた。悲しみも憎悪も生まれた罪も、何もかもが重くキラにのしかかる。
 彼らはオーブの復興に動き出したが、キラは何もできなかった。
 しかし、あまりにも戻らない体調に不審を持ち、そうしてわかった妊娠の事実。
 自分はどこまで罪を重ねるのだろうかと嘆きながらも、堕胎することはできな
 かった。

 たとえ彼が忘れてしまったとはいえ、父親は彼でしかありえない。
 この胎に宿ったのは彼の血を引く子供。


 ―――産みたい。


 まっさらな命。
 大切な愛しい人の血を引く、唯一の存在。

 キラはラクスと共にオーブを出た。










 イザークはそっとキラの前に膝をつくと、細い身体を抱きしめた。
 途端にこぼれ落ちる涙を、自分は止めてやることが出来ない。
 キラが求めているのはたった一人だ。

「僕…本当、は。傍に」

「キラ…」

「どうしてだろう…僕まだ」

 確かに愛し合ったのに、彼はそれを知らない。
 言ってしまいたいけれど、それは彼を不幸にする。

「…アスランっ、アス…僕は」

 久しぶりに逢った。もう少年ではない彼。
 今だけ赦して欲しい。

「アスラン…僕は、君が―――好き」

 二度と言えない言葉があふれる。
 好きも、愛してるとも、もう言ってはいけない。
 想いを伝えてはいけない。
 寂しい、哀しい、つらい。
 でも、それでも幸せでいてほしい。

 止まらない涙はそのままに、キラは抱きしめてくれているイザークにしがみつ
 いた。
 強くなる腕に悲しくなる。
 プラントに帰ったらいつもの自分に戻らなければ、ラクスやリュイに心配をか
 けてしまう。
 だから今だけ。
 キラは感情のままに泣き、名前を呼んだ。
 二度と口にしないと決めていた名前を、彼とは違う腕の中で叫ぶように。
 イザークはなにも言わず―――言えず、ただキラの悲痛な声を眉をひそめて聞
 いていた。

 胸が、張り裂けそうだと思った。










 アスランはミネルバの与えられた部屋で、目を閉ざしていた。

『僕の、子ども』

 キラの愛しそうに細められた目に愕然とした。
 いつの間にキラとこんなに離れてしまったのだろうか。
 他の人には笑いかけるのに、アスランたちを見る時はどこか儚かった。
 キラが女性だとわかった時、なぜか自分は驚かなかった。それどころか知って
 いた気すらした。
 今まで男だと思っていたはずなのに。

「キラ…」

 胸の奥底に、何かが引っかかっている。
 幼い頃から共にいた大切なキラ。全てを共有してきたはずの存在なのに、どう
 して今遠いのだろう。

『父親はいないんだ』

 どこか悲しげに言う様子に、切なさを感じた。
 子どもを産んだくらいなら、相手をとても愛していたはずだ。
 いつ出逢ったのだろう。―――どんな相手なのだろう。
 小さな女の子はリュイというらしい。

「リュイ…」

 口に出すとなぜか懐かしく、舌に馴染む。
 キラにそっくりだった。違うのは瞳の色だけ。
 瞳はキラの紫水晶のような美しく神秘的な色ではなく、新緑の鮮やかな碧色だ
 った。
 自分より少し青みのかかった色は亡き母を連想させる。
 相手の瞳は碧色だったのだろうか。
 一緒に迎えに来たイザークは、キラを気にしていた。彼は自分より今のキラを
 知っているようだ。
 それに悔しいような切ないような、言いようのない感覚が広がる。

「キラ…」

 何度名前を呼んだとしても、彼女には届かない。
 アスランは近くにあったテーブルを叩く。
 その衝撃でテーブルの上にあったものが床に落ちた。
 爪が食い込んだのか、じくじくとした痛みが手のひらを襲う。
 けれど今、本当に痛むのは手ではなく、心の方だった。












 オーブに戻って数日。
 アスランは相変わらず忙しい。
 カガリの仕事を手伝うようになって自分の時間などないに等しかった。
 しかし今はその方が有り難い。
 何もしていない時、頭に浮かぶのはキラだった。
 昔のような笑みは一切浮かべない、ただこちらを見ているだけのキラが自分か
 ら目を逸らすと途端に微笑む。
 その視線の先はラクスであったり、イザークであったり、議長だった。
 たまに現れる幼い子供―――リュイはこちらを見つめ、何か言いたげにしてい
 る。
 アスランにはそれが痛かった。
 自分はカガリと共に、平和を守りたい。カガリをキラを守りたいと思ってここ
 にいるはずなのに、釈然としないのだ。

 何か足りない。
 大切なのに、わからない。いや、思いだせない―――。
 自分はカガリを想ってここにいるはずなのに、何を違うと感じているのだろう。

 深く考えこんでいたアスランは、突然鳴りだした通信機にびくりと身体を揺ら
 した。
 数度深呼吸をして気持ちを落ち着かせると、勤めて普段どおりの声を出す。

「はい?」

『すみません、プラントからディノ様に通信が入っているようなのですが…』

 聞こえてきた声はボディーガードの一人のものだった。
 アスランは首を傾げながら通信を繋ぐことに了承を出した。
 ほんの少し緊張しながらボタンを押す。

「変わりました、アレック―――」

『遅い』

 最後まで今の名前を告げる前に、不機嫌な声が聞こえた。
 アスランは聞き覚えのある声に目を瞠る。

「………イザーク、か?」

『ああ、そうだ。アスラン』

 数日前に再会した元同僚に、アスランの頭は混乱する。
 珍しい。イザークが自分に連絡をとるなど。
 訝しみながら、アスランはゆっくりと息を吐いた。

「どうしたんだ?イザークから連絡を取ってくるだなんて…」

『…別に取りたくて取ったわけじゃない』

 憮然とした声音に、アスランは眉間にしわを寄せた。
 何の用なのかさっぱり見当がつかない。

「じゃあ…」

『ただ、この間は少ししか時間がなかったからな。一度プラントに来いと言お
 うと思っただけだ。…気になることがあるだろう。それに…』

 墓参りくらいしに来てもいいだろう。

 イザークの言葉にアスランは翡翠を見開いた。
 思ってもみなかった誘いにアスランは戸惑う。

 しかし答えはすぐに出た。
 それから5日後宵闇色の髪の青年がプラントに極秘に降り立ったことがその答え
 を物語っている。








 百合の花が香る中、再び巡りあった。

 それは必然だったのだろうかと、後になって思った。

















       それこそ、夢のような一夜だった。今はもう、ありえないけれど。
          07/12/23   「幸せで、嬉しくて泣いたのは初めてだった」

       忘れてしまえたら、どんなに幸せか。―――どんなに哀しいか。
          07/12/23    「離れたのは、幸せになってほしかったから」