どんな風に、触れてきただろう。
 一番近くにいた。誰より近く。
 けれど今はこんなに遠い。

 風に靡く亜麻色の髪が彼女の表情を隠している。
 幼子は近くにいないようだ。
 名前を呼ぶと、彼女は驚いたように瞳を見張った。









     記憶の帳










 降り立った、懐かしい場所。
 アスランは深く息を吐いた。

「…来たな」

 背後からかけられた声に振り向くと、銀色の髪が揺れているのが目
 に映る。
 軍服ではなく、淡い色合いのスーツ姿のイザークが立っていた。

「イザーク」
「ディアッカがエレカを用意している。…行くぞ」

 こちらを一瞥すると、イザークはさっさと歩きだした。
 アスランも急いで後をついていく。

「イザーク」
「なんだ」

 振り返らない背中に苦笑し、少しの逡巡のあとアスランは告げた。

「花屋に寄らせてくれないか」

 思わず、というように向けられたアイスブルーの瞳が瞠られ、そし
 て細められた。




 一台のエレカが、駐車場より少し離れた場所に止まっている。
 イザークが覗き込むようにしてエレカの車体を小突くと、ドアが開
 いて懐かしい顔が現れた。

「お、着いたか。久しぶり」
「ああ、久しぶりだなディアッカ」

 片手を上げて笑う彼に、アスランも小さく微笑む。
 この間はイザークとしか逢っていない。
 彼も今日はラフではあるが、きちんとした格好をしている。

「まぁ乗れ。サングラスは取れよ。落ち着かねー」

 指差され、頷いてかけていたサングラスを外し、エレカに乗り込む。
 イザークが乗り込むと、エレカは滑るように動き出した。

「ディアッカ、花屋に寄れ」
「え、ああ…そうだな」

 イザークの唐突な発言にディアッカは目を見張るがすぐに了承する。
 アスランは二人を見ながら頬を緩ませた。
 特に会話もなく進んでいくが、そんなに違和感はない。むしろ心地
 いいと感じた。
 立ち寄った花屋で百合と白い薔薇のブーケを購入し、再び移動する。
 久しぶりにみるプラントの景色にアスランは知らず見入っていた。
 12歳の時にこちらに渡った後、16歳まではここで過ごしたのだ。そ
 れなりに愛着はある。
 ただ、思い出の場所とは言い難い。
 自分の思い出には、必ずいなくてはならない人がいたから―――。
 物思いに耽るアスランをイザークとディアッカは何も言わずにバッ
 クミラー越しに見ていた。

「…そろそろ着く」

 イザークの呟きに、アスランは視線を車内に戻す。
 窓の外にはわざわざそちらを見なくてもわかるくらい、灰色の墓石
 がきれいに並んでいる。
 所々に様々な色があった。灰色に際立つそれは花束や花飾りで。
 アスランは手にしていた花束をそっと持ち上げる。
 甘い芳香の大輪の百合と、白だが淡く薄紅のかかった薔薇。
 母が好きだった花と、彼の人に似合いそうな淡い薔薇はアスランの
 腕の中で小さく揺れた。




 サクサクと芝生と砂利の擦れる音がする。
 イザークもいつの間に買っていたのか、薄い黄色の花を持っていた。

「…先客か?」

 一人前を歩いていたディアッカの訝しげな声に、アスランとイザー
 クはある場所に置かれた花を見る。
 青みのかかった紫色の花は白い包装紙に包まれていた。
 時折吹く緩やかな風に揺れている。

「…ヒヤシンス…だな」

 イザークのポツリとこぼされた声はなぜかやけに響いた。
 アスランはヒヤシンスの隣に薔薇をそっと置く。
 イザークもヒヤシンスの隣に持って来た花を置いた。

「供えていったんだな…わざわざ」
「…ヒヤシンスはこいつの誕生花だ」

 ディアッカの呟きにイザークが答え、墓石を撫でた。
 墓石に彫られた名前は『ニコル・アマルフィー』。
 2年前の戦争で亡くなった仲間の一人だった。
 アスランの中に苦い記憶が蘇る。
 自分を庇ってストライクに討たれた少年。アスランとはよく話をし、
 仲間の中でも特に気を許していた相手だった。

「ニコル…」

 若草色の髪に茶色の瞳の少年。まだ幼く、命を散らすには早すぎた。
 アスランが目を伏せて祈るところを、二人は黙って見つめていた。
 二人はニコルにヒヤシンスを供えた人物を知っている。
 出来れば逢わせたくない。しかしまだ新鮮な花を見る限り、これは
 供えたばかりだろう。

 また彼女は泣くのだろうか。
 どうして神は彼女に辛くあたるのかと、イザークは拳をきつく握った。



 しばらく瞑目したあと、アスランは振り返った。

「すまない、母の墓も寄らせて欲しいんだが…」

 近くにあるレノアの墓は、きっと汚れているだろう。
 やって来る人がいなくなったのだから。
 アスランの言にイザークたちは止める術もなく、三人はニコルの墓
 の前を立ち去った。











 水をかけて、伸びている雑草を抜く。
 小綺麗になった墓石と周辺を満足げに見て、アメジストの瞳が細め
 られた。

「ママ」
「リュイ、おいで」

 キラは墓の前に膝をつくと、小さく微笑んで我が子を引き寄せた。
 墓参りに連れてきたのは初めてだ。いつもはラクスと二人で来てい
 た。
 今日は後から合流する予定だ。
 きょとんとしたエメラルドの瞳が墓石を見て首を傾げる。

「…だぁれ?」

 幼子の問いにキラの瞳が細められ、ゆっくりと墓石を見やる。
 そっと脇に置いておいたカサブランカを供えながら、キラは小さな
 声で告げた。

「レノア・ザラさんだよ。僕の憧れの人…。そして―――」

 君の祖母にあたる人。

 最後は言えずに切られた。
 リュイはますます首を傾げる。
 キラは困ったように微笑んで子供を抱きしめた。

「リュイがもっと大きくなったら…お父さんのことも含めて話すよ」

 いつか君が僕の手を離れる前に、父親の名前を。
 逢うか逢わないかはこの子がそのとき決めることだ。

「ママ…?」

 キラの憂いが伝わったのか、リュイの表情が歪む。
 慌てて微笑んでみせると、抱きしめていた小さな身体を放した。

「ママはもう少しここにいるから、リュイはお散歩しておいで。あ
 んまり遠くに行っちゃダメだよ?」
「はぁい」

 自分と同じ亜麻色の髪を撫でて、背中を押してやる。
 リュイは小さく手を振ると駆け出した。
 キラは目を細めてそれを見送る。ここらへんは人通りもあるぶん、
 人目がある。幼子が一人でいても大丈夫だろう。
 もうすぐ彼女もここへ来るはずだ。
 幼子の姿が見えなくなった頃、再び墓石に向けられた瞳には自嘲が
 浮かんでいた。

「レノアさん…」

 もう一人の母と呼べた彼女。
 彼とそっくりな顔に溌剌とした人だった。
 リュイの瞳は彼女の色でもある。

「あなたがいたら…今のこの状況になんと言いましたか?」

 彼女のことだ。
 アスランと自分の二人に説教するくらいしただろう。
 そして抱きしめてくれただろう。

『キラちゃん』

 瞳が潤んでくるのを感じながら、キラは墓石をなぞった。
 彼女の身体はここにはない。
 未だに宇宙のどこかにある。
 大切な思い出の中で今も笑う彼女を思い出しながら目を伏せた時
 だった。
 数人分の足音に顔をあげようとして、キラは固まった。

「キラ?」

 背後から自分の名前を呼ぶ声は有り得ないもので。
 あまりにもここ数日、彼のことばかり考えていたせいだと思った。

「キラ…?」

 再度呼ばれ、おそるおそる振り向いた先。
 困った顔をして頭を掻くディアッカと額に手をあてたイザーク。そ
 して、翡翠を見開いて立ち尽くすアスランがいた。







 リュイは植え込みに身体を隠し、母と三人の青年を見つめていた。
 二人はよく知る人物だが、もう一人はこの間逢った人だ。
 母がうろたえているのが遠くからでもわかる。
 ミネルバにいた時もキラは不安定だった。
 だからリュイは思ったのだ。

 母の涙の原因は、今母の前に立つ、宵闇色の髪をした青年だと。
 帰ってからこっそりラクスに聞くと、ラクスは珍しく困ったように
 笑った。

『リュイはあの方をどう思いました?』

 聞かれて、リュイは首を傾げた。
 顔見知り以外に抱っこされるのはあまり好きではない。しかし彼に
 は不思議と嫌悪を抱かなかった。
 それをなんとか伝えると、ラクスは薄藍の瞳を細めてリュイの頭を
 撫でてくれた。

『そのうちわかりますわ…。すべてのピースがはまる頃には、必ず』

 ラクスの言葉を理解することは出来なかったが、リュイの中で彼は
 嫌いではないに分類されている。
 しかし彼は母に悲しい顔をさせるのだ。

 リュイは植え込みから駆け出そうとしたが、突如浮遊感に襲われた。







 なぜ彼がここにいるのだろうか。
 彼はオーブに帰ったはずだ。―――カガリと共に。
 キラがアスランを見上げたまま混乱していると、イザークが歩み寄
 ってきた。

「キラ」

 名前を呼ばれ、はっとそちらを見ると、イザークはキラの手をとり
 立ち上がらせる。
 身に纏った黒いワンピースが風に揺れた。

「お前も来ていたのか…」
「うん…今日は仕事休みだったから」
 
 冷めたアイスブルーの瞳が徐々にキラを落ち着かせた。
 顔を見上げると、小さく微笑んでくれる。
 それに笑い返すと、手が放された。
 ちらりとアスランを見て首を傾げると、ディアッカが近づいてきた。

「よ、キラ」
「ディアッカ」
「今日は誰とも一緒じゃないのか?」
「リュイと来てるよ。今はちょっと散歩に行かせたの。…なんでア
 スランがここにいるの?」

 プラントに入国することは出来ないのではなかったのか。
 キラの訝しげな視線にディアッカは苦笑した。

「特別処置だ。…墓参りくらい、させてやりたかったしな」
「…ニコルさん?」
「ああ。あと母親もな。…ヒヤシンスを供えたのはキラか?」

 首肯すると、ディアッカがぽん、と亜麻色を撫でた。
 そして振り向くと、所在なさげに立っているアスランを呼ぶ。

「アスラン、その百合供えるんだろ」
「え、あ、ああ…」

 アスランはキラをちらりと見て、墓石の前で膝を折った。
 カサブランカと添うように白百合を置く。
 祈りを捧げる姿をキラはじっと見つめた。

「キラ」

 イザークが気遣うようにキラを呼ぶ。
 キラは小さく笑うと、立ち上がったアスランのこちらを真っ直ぐに
 見つめる視線を静かに受け止めた。

「…アスラン」
「…キラ」

 そっと笑いかけたキラはレノアの墓に視線を落とした。

「プラントに来てから…月に一度は来てたんだ」
「そうか…。ありがとう」
「ううん、僕もレノアさんに逢いたかったから」

 キラがそう言いながら目を伏せるのに、アスランは儚さとそれ故の
 美しさを感じた。
 女性らしく丸みをおびた柔らかそうな身体に憂いを含んだアメジス
 ト。2年前まで近くにあったはずの少女に見惚れるのをやめられな
 い。
 子供を産んだとは思えない細い肢体は庇護欲をそそる。
 誰かがこの身体を抱いて、愛したのだ。
 そう思うと、なぜか言いようのない怒りが込み上げる。
 アスランは知らずキラの頬に手を伸ばしていた。

「アスラン…?」

 翡翠を細め、象牙の肌に触れる。
 衝動的に引き寄せた身体は柔らかく、あたたかかった。
 イザークが口を開きかけたのをディアッカが押さえるのを横目に、
 アスランは亜麻色の髪に頬を寄せる。

「キラ…」

 どうして抱きしめたくなったのかわからない。
 キラが身体を固くしたことが酷く悲しかった。














     想いの名残










 強い腕の中はあの日と変わらない。
 けれど決定的に違うのは彼と自分の気持ちだった。

 愛しさが込み上げる。それと同時に切なさも。

 涙がこぼれそうだった。
 彼の腕は自分ではない人を抱きしめるためにある。
 どんなに願っても、叶わない夢をいつまで求めるのだろう。

「キラ…」

 名前を呼ばれるだけで、こんなにも幸せなのに―――。





 緩まない腕の力にキラは戸惑いを隠せなかった。
 そっと目を伏せて彼の肩に額を預ける。
 さらに抱く力が強まったのを感じ、おそるおそる彼の腕を掴んだ。

「あ、アスラ…」
「ごめん、もう少し」

 涙の混じった声に目を見張り、身体の力を抜く。
 不安にさせていたのかと、嬉しくなりすぐ自嘲した。
 彼にとって自分は「大切な幼なじみ」以上になれない。
 わかりきったことだ。
 すぐ近くにイザークとディアッカがいるというのに、キラの神経は
 すべてアスランに注がれていた。
 だから近づいてくる気配に気づかなかった。








 リュイは抱き上げられ、身体を固くした。
 しかしよく知る腕の感覚と優しい花の香りに首をひねった。
 見上げた先には思ったとおりの人物。

「今お母様のところに行ってはいけませんわ」
「どうして…?」

 リュイが手を伸ばすと、柔らかく微笑んでリュイの身体を向き合う
 ように抱き直す。
 ピンクの長い髪はリュイのお気に入りだ。
 一房掴み、薄藍の瞳を見上げる。

「あの方の気が済むまでお母様はあのままです」
「あの人、この前ミネルバにいたの。ザクに来てリィ連れて行った」
「あらあらまあまあ、キラが困っていますわ」

 かみ合っていない会話をしながらリュイを抱いたまま歩きだす。
 歩くたびふわふわ揺れる髪と白いスカート。
 少女は笑みを浮かべて近づいていった。








 さく、と芝生を踏む音にイザークが振り向くと、ピンク色の髪が風
 に遊ばれていた。
 腕には幼子を抱えている。
 彼女はにこりとイザークたちに向かって微笑むとリュイをおろして
 キラを見た。

「そろそろキラを放してくださいな」

 放たれた言葉にキラがぴくりと肩を揺らす。
 腕の力が緩んだ隙に、振り向いた。

「ラクス…!」

 キラの声にアスランも顔を上げて目を見張った。

「ラクス…」
「お久しぶりです。アスラン」

 水色のレースで縁取られたワンピースに身を包んだ少女は、ゆっく
 りと目を細めた。

「ママ」

 とてとて、という効果音がしそうな歩き方でキラに向かってくる幼
 い少女が視界に入り、アスランはラクスから視線を移した。
 キラはしゃがむと腕を広げて子供を待つ。
 ぴったりと母親にしがみつく様子はかわいらしい。

「リュイ、ご挨拶は?」

 キラが柔らかい頬をつつくと、碧の瞳がアスランを見上げてくる。
 母親にそっくりな容姿にアスランは知らず微笑んだ。

「こんにちは…」
「…こんにちは…」
 
 キラの服の裾をきゅっと握り、半ば身体をキラの影に隠してリュ
 イはアスランを見た。
 アスランが困ったように目を細めると、苦笑したキラがリュイを抱
 き上げる。

「見慣れない人にはちょっと人見知りするんだ。リュイ、この人はアスラン」
「アスラン?」
「そう。アスラン・ザラ」

 リュイはキラの首にしがみつきながら繰り返し名前を紡ぐ。
 そしてアスランの方に顔を向けて、小さく笑った。

「ママ、お友達?」

 大きな目をアスランに向けたまま、リュイは首をことりと傾けた。
 キラも一度アスランを見て、視線をラクスとイザークに向け微笑む。
 その笑みがあまりにも儚く見えて、アスランは妙に焦燥感を覚えた。
 キラはアスランに視線を戻すと口を開く。

「…そうだよ。僕の幼なじみで…大切な友達」

 ―――友達。
 そうとしか表しようのないことが、悲しい。
 キラはもう一度ラクスを見て、今度は目を伏せる。
 アスランが訝しく思う前に、ラクスが動いていた。

「アスラン、お参りはもうお済みのようですわね。私とお茶でもし
 ませんか?」
「は…」
「私のお誘いを断ったりしませんわね?」

 ラクスはにっこりと微笑むと、アスランの腕を掴んだ。

「ちょっ…ラクス?」
「参りましょう。イザーク様、キラとリュイをお願いします」
「…ああ」

 ぐいぐい引っ張られるまま、アスランは墓地を後にせざるを得な
 かった。
 ラクスがこんなに強行したことは今までない。
 混乱を抱えたまま振り向いたアスランが見たのは、リュイを抱き上
 げたディアッカとキラを抱きしめるイザークだった。










 ラクスは熟考していた。

 アスランがプラントに来る可能性はわかっていたし、イザークが誘
 ったことも知っていた。
 キラが不安定なのもわかっていた。
 しかし、アスランのあの行動は予想外だった。
 キラを抱き寄せるアスランは、キラに焦がれる男性がよくしている
 表情と同じだったのだ。
 キラとて何度か男性にそういった目を向けられたことがあり、その
 理由も知っている。
 だがリュイを身ごもった時から―――いやその前から、キラの中に
 は一人しかいない。
 ―――アスランただ一人だけ。
 一度は結ばれたとはいえ、アスランにはキラを愛した記憶がない。
 彼はキラではなく、他の女性を選んだ。
 だからキラは身を引いたのに。
 なのにアスランは―――。

 今回のことで、キラはどれほど混乱しているだろう。
 リュイに友達だと言うのにどれほど想いを呑み込んだのだろうか。


「…あの、ラクス?」

 ふと聞こえた声に顔を上げる。
 愛しい幼子と同じ翡翠の瞳がこちらを伺っていた。
 途方に暮れたような顔をしている。
 近くにあった喫茶店に連れ込んでからずっと、ラクスは沈黙を貫い
 ていた。
 自分の思考に深く入り込み過ぎていたのだと気づき、彼の前でらし
 くもないと自嘲の笑みを浮かべる。

「すみません。考えごとをしていましたの。注文は…」
「あ…紅茶でよかったのならしておきましたが…」
「まあ、ありがとうございます」

 相変わらず何事も如才なくこなす相手だ。
 微笑みながら礼を告げると、彼は緩く首を横に振った。


「…キラは」

 次にアスランが口を開いたのは注文したコーヒーと紅茶が届いてし
 ばらくしてからだった。
 伏し目がちな翡翠が聞きづらいと語っている。

「聞きたいことがたくさんおありでしょう」
「…はい」
「私に答えられることならばお答えします。ですが」

 不意に切られた言葉にアスランが顔を上げると、薄藍の瞳に真摯な
 色を宿したラクスがこちらをしっかりと見据えていた。

「私はずっとキラと共にいましたから、だいたいのことは把握して
 います」
「はい」
「ですが…すべてを知っているわけではありません。あくまで私の
 見解も含まれています」
「…はい」

 ラクスが紅茶で喉を潤した。
 そして再度アスランを見る。
 アスランもラクスを見つめた。

「聞きたいのは…リュイのことですわね」
「…キラは父親はもういないと」

 アスランの言葉にラクスがつらそうに目を細めた。
 確かに今はいない。
 しかし、死んだわけではない。

「…リュイの父親は生きています」
「え…?」
「ですが死んでいるのと変わらないのかもしれません」

 ラクスの言葉にアスランは眉を寄せた。

「どういう意味ですか」
「…生きてはいますが、知らないのです」
「…え?」

 ラクスは悲しげに目を伏せた。

「キラが妊娠したのは戦中でした。たった一度の契りがキラに幸せ
 と絶望をもたらしたのです…」












 亜麻色の頭が見えた。
 柔らかな地面を踏みしめながら進む。
 まだ小さな、細い背中が儚くて、哀しくなった。

「キラ」

 広い花園の奥にある大理石で出来た東屋にキラはいた。
 テーブルに突っ伏していた頭がゆるゆると上がる。

「イザーク…?」
「リュイはディアッカと遊んでる。…大丈夫か?」

 アイスブルーの瞳が心配の色を浮かべてこちらを見る。
 体温の高めの手がキラの頭を撫でた。
 キラが目を細めると、イザークは隣に腰をおろす。

「すまない。まさか今日来ているとは思わなかったんだ」

 優しい手がキラの心を慰めていく。
 ラクスとはまた違った安心感を与えてくれるイザークやギルバート
 たちはキラにとって大切な存在だった。

「急に…レノアさんに逢いたくなったんだ。リュイも、逢わせたか
 った」
「そうか…」

 ラクスが育てている薔薇の香りが風に乗って漂う。
 キラは身体を起こして、アメジストの瞳を伏せた。

「アスラン、何を思ったかな」
「…さぁな」
「…友達だって。幼なじみで大切な友達だってさ…」

 キラの自嘲するような、それでいて切ない微笑みにイザークは顔を
 しかめた。
 聞いたのはリュイだが、答えたのはキラだ。
 ―――言わせたのはアスランだ。
 逢わせたくなかった。
 こんなに哀しい顔をさせるのは嫌だ。

「キラ」

 目を開くとイザークのアイスブルーが見えた。
 どこか憤りのある瞳にキラは首を傾げる。
 少しためらいがちに、イザークが口を開いた。

「アスランには本当に一生言わないつもりか」

 何を、と言わなくてもわかる。
 キラが首肯すると秀麗な顔を歪めた。

「それでいいのか?」
「…今更だよ」

 すべて置いてきた。
 2年前、リュイを宿した時に。

「イザーク、僕は絶対に忘れないよ」
「キラ…」
「想いを捨てることも出来ない」

 誰がなんと言おうと、この想いだけは。

「まだ大丈夫。だって君たちがいるもの」

 儚いながらも美しく笑うキラが眩しかった。









 ラクスの話はアスランにとって衝撃だった。
 父親は生きているがリュイの存在を知らないと言う。
 キラが愛した人。

「父親は…誰ですか」

 テーブルの下で握りしめた手は力が入り過ぎてもう感覚がない。


『幼なじみで…大切な友達』


 離れていた間に遠くなった。
 抱きしめた身体は昔より柔らかい。
 守りたいと思った。

 キラ。



「アスラン」

 ラクスの固い声に、アスランは目の前の薄藍を見据えた。

「知ってどうしますか」
「…俺は」
「キラはあなたが知ることを望んでいません」

 静かな視線、平坦な感情の見えない声。
 キラが自分たちの前から消えたことを知った日、目の前の少女を心
 底羨んだ。
 自分から離れていくばかりのキラと、寄り添っていた彼女に。
 アスランは目を逸らさずラクスを見る。
 これ以上、離れたくなどない。

 ラクスは自分を見据える強い翡翠の瞳にもう逃げられないと思った。
 ここら辺で、もう終わりにしてしまいたい。
 涙も、嘆きも、もう。あんなに哀しい顔を見たくない。

「わかりました」

 深いため息の後、ラクスは呟いた。

「ついてきてください」

 いつの間にか空になったカップを一瞥して、ラクスが席を立つ。

「キラの元へ参りましょう。私が伝えるわけにはいきませんから」
「ラクス」

 アスランが慌てて立ち上がった時には、すでにピンク色の長い髪は
 歩き出した彼女の背で揺れていた。


















       再会は彼の人の前で。花が、香る。動き出す。
          07/12/某日    「凍てつくような、心。掛かった帳が少しだけ―――」

       さぁ、この哀しい鎖を断ち切って?貴方のその手で。
          07/12/某日    「こんにちは。大切な、記憶の欠片」