初めて抱きしめた小さな身体。
 自分の子供だと知ったのはつい先ほどだった。
 なのに、守らねばと身体が動いていた。


  リュイ


 名前で悟るべきだった。
 
 それは思い出の塊。
 想いの具現―――。









     月の涙痕










 プラント最大の病院で、キラは長椅子に座り込み自分の身体をきつ
 く抱きしめていた。
 頬に貼られた白いガーゼや腕の包帯が痛々しい。しかし痕も残らず
 すぐに治るだろう。
 集中治療室の赤いランプは未だ消えない。
 ラクスの手術はすぐに終わった。弾は貫通していたし、イザークた
 ちの応急処置が早かったため血を流し過ぎるという事態も避けられ
 た。
 リュイも怪我を負ったものの、弾が掠めた程度だった。手当ての後
 は精神的に疲れたのだろう、眠っている。

 問題はアスランだった。


「銃弾が身体の中に残ったまま…しかも場所が悪い」
「けど背中側から撃たれたのが唯一の救いだな…」

 イザークが秀麗な顔を苦々しげに歪め、ディアッカは俯き深く息を
 吐く。
 二人は集中治療室の扉の見える廊下の隅で陰鬱な表情を浮かべずに
 はいられなかった。
 到着した時、すでに襲撃者たちは倒れていた。
 アスランの近くに落ちていた銃で彼がこの状況を作り出したことが
 わかる。
 元ザフトのトップだっただけあって、銃の腕は健在のようだ。
 急所をきれいに外していたため、襲撃者たちは皆生きている。
 現在拘束し、憲兵に引き渡したところだ。

「キラは…大丈夫か?」
「さすがに衝撃が大きいんだろう。ラクス嬢にリュイ…アスランに
 至っては…」

 アスランはすぐに集中治療室に運ばれた。
 発見当初、背中だけでも3カ所の銃痕があり、腹部は弾が貫通して
 おらず体内に残っていた。
 意識不明の重体という状態だったのに、リュイをしっかりと抱きし
 めて盾になったのだ。

「守って自分が死にかけてどうするよ…」

 ディアッカの呟きに、イザークは治療室の方を睨みつけた。

 血にまみれた部屋で、キラは呆然と座り込んでいた。
 名前を呼んでもしばらくは反応せず、正気に戻ったのは病院に運ば
 れてから。

『アスラン…』

 今まで口にするのをためらっていた名前を呟いて、集中治療室の前
 から動こうとしない。
 アスランがもし帰らぬ人となったらキラはどうなるのだろう。
 ようやく動き出したと思った矢先のことだ。

「…神がいるのなら。いい加減キラを幸せにしてやって欲しい」
「え?」
「…何でもない!行くぞ、事後処理と議長に連絡だ」

 呟きが聞こえなかったディアッカが首を傾げる。
 しかしイザークはすでに銀糸を翻して、病院の廊下を足早に進んで
 いた。
 キラが祈るように手を組んで顔を俯けるのを視界の端に入れて、今
 後のことを漠然と考えながら。




 何か聞こえたような気がして、目を開く。
 しかし広がるのは深い紺の闇。
 宇宙に星がなくなったらこんな感じじゃないかと思った。
 ―――星がない。
 その光景はあまりにも味気なく、寂しい。
 しかし四方どこを見ても暗闇しかなかった。

『アスラン…』

 ふと、誰かの声。
 泣いているのか、震える声はか細くてどこか切ない。
 振り向くと、小さな光があった。
 手を伸ばすと逃げていくそれを掴みたくて、必死に追いかける。
 ふわふわと漂う光はよく見ると淡い紫色のようだった。
 紫は、彼女の瞳の色だ。
 誰より愛しいと思うのに、遠くて哀しい。

『アスラン…思い出して』

 どれだけ歩いたのかわからない。
 水の音に光を見ると、淡く映し出された水面に何か沈んでいた。

「これ、は?」

 光は吸い込まれるように、沈む箱の中へ消えた。
 箱をすくいあげる。
 小さなそれは、意識が途切れる前に触れた何かと同じあたたかさを
 持っていた。
 開こうとして手をかけるが、びくともしない。

「鍵でもかかっているのか…?」

 しかし鍵穴はないようだ。
 開けなければならないと思うのに、どうやって開けばいいのかわか
 らない。
 途方に暮れて、箱を抱いたまま呟いたのは愛しい人の名前だった。

「キラ…」

 暗闇の中、自身が呟いた名前が響く。
 ―――とても驚いた。
 キラとよく似たあの幼い少女が自分の血を引いていると知って。
 小さな身体を抱きこんだところまでは覚えている。怪我は、しなか
 っただろうか。
 キラと自分の間に何があったのだろう。
 隔たりを感じるのが哀しい。
 抱きしめて、愛を告げたら彼女は傍にいてくれるだろうか。
 リュイは自分を父親だと認めてくれるだろうか。

『リュイ』

 名前に聞き覚えがある。
 あれはまだ月にいた頃の、優しい記憶。



『彼の…月?』
『え?』

 珍しくアスランの家で遊んでいた時に見つけた一冊の本。
 地球の言語を使った書名に惹かれた二人が調べたそれ。

『なんて読むのかな…』
『lu…リュイ…かな』
『へぇ…』
『光…とかにも使われてるな』

 辞書があるわけではなかったから、読み解くのは大変だった。
 けれど最初の一文はどうやら「彼の月へ捧げる」と言う意味らしい。

『きれいだね』
『文章が?絵が?』
『両方…かな。リュイ…か。「彼の」…リュヌが月ね。覚えておこ
 う』

 書斎の窓辺から入る日差しの下で、そう微笑んだキラがあまりに綺
 麗だったことを覚えている。

 ああ、そうだ。
 きっとあの頃から。
 胸にあったはずなんだ。

 箱が、開く。

 目の前が白く光った。









 落ちた場所は地球の海。
 本物の海に感動している暇はなかった。
 偶然が必然のように感じた、あの日。

『キラ…?』
『っアスラン…』

 向け合った銃が痛かった。
 キラの手にあんなものは似合わない。
 細い身体、サイズの合わないパイロットスーツ。
 すべてが思い出の中とかけ離れている。これが現実、大切な人に銃
 を向けるこれが―――。

 震えるキラの手。
 泣きそうに歪められた顔。
 撃てるわけがない。

『キラ』

 名前を呼ぶと、びくりと肩を揺らす。
 銃を下ろし、素早くキラを捕まえた。

『セーフティーしたままで、撃てるわけないだろ…』

 抱きしめた身体は本当に頼りなくて、久しぶりのあたたかさにひど
 く安堵した。
 銃を奪い、拘束にも似た包容をする。
 キラの身体から力が抜けたことが何より嬉しかった。

 地球の天候は変わりやすい。
 知識としては知っていたが、突然の雨には辟易した。

『キラ、こっちに!』

 視界が塞がれそうな雨の中、キラの手を引いて見つけた洞窟に入っ
 た。
 ずぶ濡れのままではよくないと、火をおこして着替えを促す。
 キラが躊躇うのを不思議に思いながらもパイロットスーツを脱いで、
 持ってきた毛布を
 差し出した。
 炎の調整をしながらふと顔を上げた先、見てしまった細い肢体は女
 性のもので。
 戸惑いながらもどこか納得してしまった。
 3年前とあまり変化のない声や身体の形。男にあるまじき柔らかさ。
 ―――母がよく女の子の服を着せたがっていたわけ。

『キラ』
『っ…ごめんなさい…』

 自分の身体を抱きしめる仕草が頼りなくて、幼い頃から常に護らな
 ければと漠然と思っていたことを思い出した。
 性別なんて、どちらでもかまわない。
 キラがキラであるなら、それでよかった。

『キラ』

 名前を呼んで、小さく震える身体を抱きしめる。
 湿った雨の匂いと混じり、甘い匂いがした。
 護らなければ。
 昔からずっと、心にあった想いが胸を占める。
 傍にいたい。居て欲しい。
 想いが自然と口をついていた。

『―――好きだ』

 びくりと腕の中で跳ねたキラと目を合わせる。
 潤んだアメジストが溶けそうで、美しい。
 曇りのない至高の宝石。

『ずっと―――好きだった』

 固まって呆けた様子のキラをきつく抱きしめて、言葉を紡ぐ。

『今更、だ…けど』

 ずっと、気持ちだけはあった。
 好きで、護りたくて、傍にいたいと想うのはキラだけだった。
 この気持ちが恋で胸に募る想いが愛ならば、それはきっと。
 再度見つめ合うと、自然に顔が近づく。

『好きだ…キラ』
 
『僕も…君が好き―――』

 アメジストの瞳が眩しいものを見るかのように細められた。返って
 きた躊躇いがちの答え。
 伸ばされた腕をとり、きつく抱く。唇を重ねる。
 溶け出したように溢れた雫を指で払うと、見つめてくる瞳が笑みの
 形になった。
 ほころぶ口元にもう一度、自分のそれを重ねる。

 何も纏わない象牙の肌に唇を寄せた。
 くすぐったいのか笑う彼女に自分の頬も緩む。
 昨夜想いのままに重ねた身体はまだ少し気だるい。
 毛布ごとキラを抱きしめて、海から昇る日を眺めた。

『アスラン…』

 甘く溶けるように呼ばれた自分の名前にこの上ない幸せを感じた。
 この存在が愛しくてたまらない。その分、もうすぐ来るであろう別
 れが痛い。

『アスラン…大好き―――』

 すり寄ってくるキラの額に口づけて、襲いくる不安を消した。

『愛してる、キラ』

 耳元に囁くと、花がほころぶように笑ってくれる。
 戦争さえ終われば、きっとまたこうして抱きしめられると信じて別
 れた。
 現実は、移ろいゆくのに。




『ニコル―――!!!』

 仲間が、死んだ。
 怒りに任せた弱い自分は、憎しみに駆られるまま―――失った。

 あの日、キラを愛した自分を。
 想いを重ねた事実を。
 そのすべてを遠い夢のように感じるまま。

 キラをこの手で殺した時に、記憶の箱は施錠された。






 再会は、オーブだった。
 戦火の中、キラを遠くに感じる度、箱は水の底へ沈んでいく。
 自分のせいだった。キラが離れていくのは弱い自分のせいだったの
 に。
 目が覚めた時にみた朝日にカガリを重ねて、キラを忘れた。

 どれほど泣かせただろう。
 あの日の記憶をなくしたアスランを詰ればよかったのに。
 子供が出来たことすら告げずに、今まで歩いたのか。

「キラ…」

 誰よりも愛しい、導きの月のような君。
 ただ淡く光る思い出。

「もう一度…」

 あの日のように、抱きしめて言わせて欲しい。
 そしてリュイにも。

「…伝えたいことがあるんだ…」

 箱の底に残った淡い紫色の光に、アスランはそっと唇を寄せた。
 光は柔らかく、あたたかかった。



 





 手術は長時間に渡り、ようやく終了した。
 なんとか一命を取り留めたアスランは病室に移されている。

 クライン邸襲撃からすでに10日が経過していた。一番重傷を負った
 アスランは手術が終了しても一向に目覚めずにいる。
 キラはずっと病院に詰めて、アスランを見守っていた。
 ラクスも未だ入院しているし、厳重な警備がされた病院の方が安全
 だった。

「ママ…?」
「リュイ」

 ラクスの部屋にいたはずの娘がそっと病室に入ってくる。
 キラのところまで静かに駆け寄ると、椅子を踏み台にしてアスラン
 を覗き込んだ。

「まだおめめあけないの?」
「…うん」

 アスランに助けられたからか、リュイはよくアスランの傍で意識が
 戻るのを待っている。
 キラがリュイの髪を梳くようにして頭を撫でると、リュイがじっと
 キラを見つめた。

「どうしたの?」

 碧の瞳が数度瞬かれ、躊躇いがちにアスランとキラを見比べる。

「この人、リィのパパ?」

 娘の口から出た言葉にキラは瞠目した。
 固まったキラをよそに、リュイはアスランを覗き込み、小さな手で
 頬を撫でた。

「リィのおめめとおんなじ色してた」
「リュイ…」

 やはり、という思いがキラの胸によぎった。
 聡い子なのだ。まだ幼いのに。
 言葉に詰まり、顔をゆがめたキラとは対称的にリュイは笑った。

「リィはこの人のおめめ好き。とっても優しい」
「…うん。優しい人、だから」

 子供がいることを知ってしまい、どうするかわかる。
 彼の性格上、自分たちを放って置くことなどありえない。
 責任をとって欲しいわけじゃない。
 幸せになって欲しいから、離れたのに。
 苦い顔をして眉をひそめたキラはアスランの指がぴくりと動いたことに
 気付かなかった。

「ママ…!」

 規則的な機械音の中聞こえたリュイの声にはっと思考の海から戻っ
 た。
 幼い少女が見つめる先で、長い睫が震える。

「…アスラン?アスラン!」

 名前を呼ぶと翡翠の瞳が姿を現し、数度瞬いたあとキラを見て細め
 られた。

「キラ…」

 掠れた小さな声が名前を呼んでくる。
 起きぬけの少し潤んだ瞳が柔らかくリュイを捉えて細められた。

「忘れてて…ごめん」

 告げられた謝罪にキラは目を見開く。
 伸ばされる手がキラの頬に触れ、リュイの頭を撫でていった。


 目覚めた彼の翡翠には、あの日と同じ色が宿っていた。




















 あの日、想いを重ねた。
 幸せは引き裂かれ、忘れて失って。

 けれど何度も出逢い、泣いて、ようやく。



 忘れないで。愛したこと、恋う人がいること。


 もう一度、言って。









     勿忘草










 さらりとした風が病室に入ってきた。
 なるべく開けないようにと言われていたはずだが、閉め切っていて
 は気が滅入る。

「傷の具合はいかがですか」
「もうだいぶ…。あなたの方こそ…肩は」

 身体を起こせるようになったのは1週間ほど前だった。
 その間に多くの来客があり、少し辟易していたころ、昨日退院した
 ばかりの彼女はやってきた。
 ピンク色の長い髪を左肩にかけるようにして結っている。
 髪の合間から身じろぎする度に見える白い包帯が痛々しかった。

「私は大丈夫ですわ。…キラはどちらに?」

 いつも彼の病室に入り浸って世話をしている彼女がいない。
 ラクスはことりと首を傾げた。

「キラはリュイと議長に通信をとっていますよ。…オーブへも連絡
 するつもりだと」
「…オーブへ」
「はい。カリダさんや…マルキオ導師にリュイを見せて、それから
 …」
「カガリさんに、ですか」
「…はい」

 アスランの困ったような笑みにラクスは視線で問う。
 大義そうに身体を動かすと翡翠は窓の外を見た。

「カガリには…すべてわかっていたようです」

 ラクスが静かに瞠目する。
 それに気づいたのか、アスランは首だけをラクスに向けた。

「リュイに逢った時感づいたらしくて、この間通信で怒鳴られまし
 た。…俺は全然気づかなかったのに」

「見る人が見ればわかりますわ。あの子はあなた方に似ていますか
 ら」

「そうですね…。キラにそっくりだと思ったら、ちょっとしたとこ
 ろが俺とよく似ていました」

 自嘲のこもった言い方に、ラクスは眉をしかめる。
 けれどそれも仕方ないのかもしれない。彼の性格を考えると。

「キラはあなたが忘れたことを知った時、ただ『よかった』と。あ
 なたが忘れていてよかったと。あなたが幸せになるのなら、それ
 でいいと…」

 星しか見えない展望室で、キラは笑いながらそう言った。
 哀しい笑みは痛々しく、こちらが泣きたくなるほどで。

「俺は…ニコルが死んだ時、キラへの想いが憎悪に変わった。それ
 が怖くて…哀しくて」

 ポツポツと話し出したアスランは視線を窓の外に戻していた。
 ラクスは黙って続きを待つ。

「あの日、キラが腕の中にいるならすべてを失っても構わないと思
 うくらい愛しかったのに、一瞬でそれが憎しみになりました。そ
 してキラを殺して…俺はキラを抱きしめた手で彼女を殺したこと
 に耐えきれなかった」

 抱きしめて、愛した腕で操縦し彼女を殺した。
 一瞬にして変わってしまった想いに自己嫌悪するより、記憶自体を
 封じ込めた。
 耐えきれなかった。愛していると告げて、抱きしめたあの日の自分
 はいなかったのだと思わなければ、壊れそうだった。

「俺は弱くて…自分を守るためにキラを…」
「アスラン…」
「そのくせカガリにあの日のキラを重ねて、キラをまた傷つけて。
 いなくなったら、カガリを蔑ろにしてでもキラを探して」

 自分勝手で独りよがりな感情だけで動いてきた。
 どれほどキラを傷つけて、哀しませればいいのだろう。どれほど誰
 かを傷つけているのだろう。


 目が覚めた時、すべて思い出していた。
 泣き出したキラを動かない身体を酷使して引き寄せ、抱きしめた。
 自分も泣いていたはずだ。
 リュイの顔もキラの顔も満足に見えなかったから。
 情けなくて、けれどまた腕の中に引き寄せられて幸せだと、心の底
 からそう思った。

「これから2年分を取り戻していきます。涙の代わりに笑っていて欲
 しい」

 アスランは目を細めてラクスを見ると、頭を下げた。

「たくさん謝って、礼を言わなければ…ラクス、あなたには特に」
「私はキラが大好きですから…友人として傍にいただけですわ」

 戦中から今までずっと、ラクスはキラの傍にいた。
 ただ寄り添ったことが、キラにとっては何よりも支えになっただろ
 う。

「ラクス、本当にありがとう。あなたがキラたちの傍にいてくれて
 …感謝しています」
「―――どうかこれから幸せに。すれ違っていた分、どうか…」
「あなたも、どうか幸せに」

 穏やかな笑みが自然と浮かぶ。
 ラクスはそっと薄藍の瞳を窓の外に向けた。
 澄みきった空が眩しかった。










 病院に着いてしばらくすると、客が来る予定だと言われた。
 今日の見舞いにはキラ一人で来ている。
 リュイも来たがったが帰ってきたラクスにべったりだったため、留
 守番させている。
 襲撃によって、住んでいた屋敷は軍が調査に入り、キラたちは現在
 ギルバートの屋敷にいた。
 退院したラクスも、屋敷の修繕が終わるまでギルバートのもとで療
 養することになっている。
 ここを訪ねてくるということは軍関係者だろう。
 しばらくして白い軍服に銀の髪が現れ、キラは目を瞬かせ駆け寄っ
 た。

「イザーク!」
「キラ」

 イザークはベッドに横たわるアスランを見て、口角を上げる。
 アスランは眉を寄せて彼のすました瞳を見上げた。

「イザーク、昨日アスランを殴ったんだって?まだ怪我治ってない
 のに!」

 アスランの左頬は赤く腫れていた。
 驚いて事情を聞いたキラが困ったように咎めるが、イザークはどこ
 吹く風と笑う。

「今のうちに殴ってやりたかったんだ。明日から宇宙に戻るからな」
「え…もう?」

 イザークを見上げながら寂しそうに呟くキラの頭を、大きな手が撫
 でた。

「今は、幸せか?」

 イザークのアイスブルーの瞳が優しくキラを見つめる。
 キラは一度アスランを見て、花が咲くような笑みを見せた。

「次の休暇はリュイを貸してくれ。どこか連れて行く」

 だからお前はアスランと過ごせ。
 悪戯っぽく囁くと、イザークはキラの頬に軽く口づけ、さっさと踵
 を返してしまった。
 その背を見送って、キラは笑う。

「キラ」
「…どうしたの。泣きそうな顔になってる」

 振り向くと、アスランが顔を歪めていた。
 そっと手を伸ばして、宵闇色の髪を梳く。
 ベッドを起こして上体を上げた彼は優しい手に甘えるように目を閉
 じた。

「ねぇ、アスラン」

 柔らかな声が響く。
 あやすような手つきで撫でながら、キラは目を細めた。

「僕は自分を罪人だと、今も思ってる。それは卑屈になってるわけ
 じゃない。生まれたことを後悔しているわけでもない。ただ…ど
 うしてって思わずにはいられない」

「キラ…」
「だから君が忘れてしまったこと、嬉しかった。でも哀しかったか
 らリュイが宿って幸せだった」

 強い力で引き寄せられ、キラが瞠目する。
 アスランは柔らかい身体をきつく抱きしめた。

「俺は弱かったから、あの日のことを封じ込めてしまった。キラに
 似ていたカガリを好きだと思った」

 記憶が戻ってからずっと、胸が痛む。
 すべてを受け入れて、リュイを産んだキラが眩しすぎて自分が情け
 なくて泣きたくなった。
 好きだった。ずっと。
 心が、身体が叫ぶほど、愛しい。

「どれだけ謝っても足りない。だからこれからずっと、傍で」

 赦されるなら、永遠に。
 キラとリュイを守って、慈しんで生きていたい。
 腕の中で細い肢体が震える。
 キラは泣いていた。
 ―――けれど笑っていた。

「アスラン」
「なんだ?」

 キラはアスランの首に腕を回してしがみつくように抱きついた。
 アスランも痛む身体を無視して、キラのすべてを包むように抱きし
 める。
 視点も合わないほど近くに顔を寄せて、キラは囁いた。
 アスランは軽く瞠目すると、とろけるような笑みを浮かべる。

「…愛してる。キラ」
「僕も―――君を、愛してる…」

 2年越しの言葉を告げて、吸い寄せられるかのように、二人は唇を
 重ねた。
 神聖な誓いのようなそれは、涙と幸せを含んでいた。










 パタパタと廊下を走る音。
 時折ふわりと流れる亜麻色が見える。
 屋敷に勤めているメイドたちはくすくすと笑った。

「リュイ様、嬉しそう」
「今日退院なさるのよね」

 外から聞こえた車の音に、またパタパタという音がしてメイドたち
 は手早くお茶の準備を再開した。

「パパ、ママ!おかえりなさい!」

 玄関の方から元気の良い明るい声が聞こえた。






 玄関から少し離れた場所で両親を出迎えたリュイは、期待と不安を
 混ぜた翡翠の瞳を父親に向けた。

「ただいま、リュイ」

 大きな手がリュイの頭を撫でる。

「お帰りなさい、パパ。…ママは?」

 リュイの瞳に込められたものを正確に読み取った彼は、ずいぶん成
 長した娘を抱き上げた。

「ちゃんと元気だよ。さぁ、逢いに行こうか」
「うん!」

 同じ翡翠の瞳が細められ、リュイを愛しげに見る。
 父親の広い肩に手を置いて、逸る気持ちを抑えきれずに叫んだ。

「ママ!」

 緑色の鳥が旋回する。
 亜麻色の長い髪が秋の少し冷たい風に舞った。
 花の季節はとうに過ぎ去り、今はもう葉すらない木の傍で、母親は
 微笑んでいる。

「ただいま、リュイ」

 もっと近くで見たくて父の顔を見ると、笑いながらリュイを下ろし
 てくれた。
 リュイは母に駆け寄り、見上げる。

「…新しい家族だよ」

 そっと差し出された白いおくるみの中、小さな命が息づいていた。
 小さな小さな手がリュイに伸ばされ、翡翠の瞳が見上げてくる。

「う、わぁ…」

 感嘆の声を上げたリュイをキラは優しい目で見つめた。
 つい7日前に生まれた赤子は淡い宵闇色の髪をしている。
 まだ顔立ちははっきりしないが、どちらかと言えば彼に似ているよ
 うだ。

「キラ」

 よく知る声に顔を上げると、彼の優しい瞳がこちらを見ていた。

「リュイ、外は寒いから中に入ろう。風邪をひく」
「あ。はぁい」

 赤子に見とれていた娘を促して、キラに手を差し出した。

「キラ」

 愛しさを込めて名前を呼ぶ。

「アスラン」

 ふわりと微笑む彼女はとても幸せそうに見えた。

 肩を抱いて、玄関で待つリュイの元へ歩く。
 柔らかな空気にアスランは空を仰いだ。








『…リィのパパ?』

 アスランが退院した日、リュイはアスランを見上げながらそう問い
 た。
 しゃがんで視線を合わせると、幼子はアスランの頬に手を伸ばす。
 小さな手があちこちに触れてくるのを甘受しながら、アスランはそ
 っとリュイを抱きしめた。

『リィ好き。リィと同じ色』

 笑う顔はキラによく似ていた。
 リュイはアスランにしがみつき、キラに手を差し出す。

『ママ、パパのこと好き?』

 リュイの突然の問いにキラは思わずアメジストの瞳を見開いた。
 小さな手がキラの手を引く。
 それに触発されるように、キラは目を細めて告げた。

『…好きだよ。ずっとずっと、好き…』
『パパは、ママが好き?リィのこと…好き?』
『…愛してるよ。キラも―――リュイも』

 真剣に答えたアスランに、リュイは嬉しそうに頬を擦り寄せた。

『リィもみんな大好き!』








 あれから3年。
 キラと結婚するには色々と難行苦行した。
 離れていた2年の間に、キラはザフトですっかり有名になっていた
 せいか、アスランとの仲を認めたくないという者も多かった。
 議長とオーブの間で話し合いをした結果、国交も含めてザフトに復
 隊することになった。
 迂曲の末、なんとか周囲を黙らせることが出来、結婚に至ったのだ。
 ラクスも歌姫に復帰し議員の席も手にしており、連日忙しくしてい
 る。

「アスラン」
「キラ。…リュイたちは」
「部屋にいるよ。兄弟が出来たのよっぽど嬉しいみたい」

 くすくす笑うキラにアスランも目を細める。
 暖かい時間が幸せだと思った。
 記憶をなくしていた間が勿体なかったと感じずにはいられない。

「キラ」

 万感を込めて名前を呼ぶと、キラが嬉しそうに笑った。
 腕を引くと、抵抗もなしに身体はアスランの膝の上に降りてきた。
 甘い匂いと共に、赤子と同じミルクの匂いがする。
 首筋に顔をうずめると、キラは小さく笑った。

「なぁに」
「いや…。幸せだな、と思って」

 キラが腕の中にいて、あの日以上に満たされて。
 泣きたくなるほど幸せだと思う。

「パパ、ママ」

 軽い足音と明るい声が近づいてくる。
 アスランはキラの頬を軽く啄ばみ、膝から降ろした。
 ドアが開き、ひょこりとリュイが顔を出す。
 後ろには赤子を抱えたメイドがいた。

「ねぇ、ママ」

 キラの膝に抱きつきながら、リュイは首を傾げる。
 アスランはメイドから赤子を受け取り、ふくふくした頬を指で突い
 てあやした。
 赤子は笑い、アスランの指を掴む。

「この子のお名前決まったの?」

 赤子がきょとんとしたかのようにアスランを、キラを見つめた。
 リュイの翡翠が赤子を覗き込み、伺うように首を傾げながらアスラ
 ンたちに視線を移す。
 アスランとキラは顔を見合わせると、リュイの額と頬に口づけて笑
 った。


「この子の名前はね―――」

 皆が赤子を優しい目で見つめる中。
 キラは囁いた。


















       君は誰だい?小さな天使が僕に笑った。
          08/10/某日    「改めて、幼い君に初めまして。愚かな僕を、どうか赦して」

       旅人は帽子に青い花をさしていました。そして哀しい恋人たちの話をするのです。
          08/10/某日    「そして物語は、ハッピーエンドで終わるの。その後二人は幸せに暮らしましたとさ」