夜半から降り続く雨は肌寒さと共に、今もなお続いている。
 勢いよく降りきってしまえばいいのに、霧のようなそれは気分を重くさせた。











             A slight fever









 カタカタと音を立てて走る馬車。
 人影はあまり見えない。
 どうしても自身が出向かなければならない商談があったため、シエルは嫌々な
 がらも外出をしていた。

「まだ止まないのか…」

 とある店先の屋根の下。
 シエルは空を仰いでサファイアのようなその眸を細めた。
 鬱陶しい、と小さく毒づく。
 くすり、と返された笑いに視線をずらすと、黒が紅玉を持って見返した。
 どうやら聞こえたらしい。

「天気に文句をつけても仕方ありませんよ」
「わかってる」
「帰ったらミルクティーでもお淹れしますから」

 そんな仏頂面はやめてください。
 執事の嘆願にシエルは生まれつきこんな顔だと毒づいた。

「それにしても…」

 寒い。店の中で待たせてもらうべきだった。
 雪ではないのだからいいと言ってしまったのに。
 この季節の雨は冷たくて、太陽を恋しく思う。
 ふるり、と小さな身体が震えたのを見咎めたのか、バサリと視界が黒に覆われ
 た。

「何…」
「私のコートで申し訳ありませんが、お風邪を召されては大変ですし」
「セバスチャン、お前が寒いだろう」
「大丈夫ですよ。それより貴女が心配ですから」

 小さく笑ったセバスチャンに、シエルも渋々頷いた。
 正直かなり身体か冷えてきていたため、コートの存在は助かる。

「馬車に不備でもあったのでしょうか…。見て参りますのでここにいてくださ
 い」

 シエルが返事をする前にセバスチャンは行ってしまった。
 雨に消えてしまった黒に向けて、ため息を一つ。
 はらはらと降り注ぐは恵みの滴。
 しかし忌々しいことに変わりはない。
 かき消されそうだ。黒も紅もすべて。
 シエルは何かに導かれるように屋根の下から躍り出た。
 石畳の道は英国ならでは。
 自分がたてる靴の音も吐息もすべてが雨音に呑まれてしまう。
 冷たい雫が頭に。
 空を見上げると額に、鼻に、頬に。黒いコートにも注がれていくが気にならな
 かった。

 ―――世界に、一人だけのよう。

 雨音すらほとんど聞こえない。
 先程まで通っていた馬車は今は居らず、人通りもまばら。
 シエルの眸が閉ざされる。
 ぽつんと立つ姿は幼い子供そのままで、雨にかき消されてしまいそうに細くて
 頼りなくて―――儚い。



「お嬢様…?」

 セバスチャンが店先に戻ってきた時、主の姿はどこにもなかった。








 一人。
 共にあるのは冷たい水滴だけ。
 シエルは足の赴くままにロンドンの街を歩いていた。
 じっとりと染みてきた服が煩わしい。
 ただでさえ最近ようやく慣れてきたばかりのドレスなのだ。
 そんな格好今までは絶対にしなかった。―――出来なかった。
「男」として長く世間を騙してきたのに、たった一人にいや、「人」ではない
 男に「女」にされてしまった。
 甘い声で自分を更なる闇に堕として、そして引き上げる。
 叶うわけがないと知りながら伸ばした手は今も彼の板状の上。
 魂の行き着く先にはあの男がいる。
 口の中で小さく呟くその名前こそ、自分を占める男に与えたモノ。


「珍しいのがいるぜ?」

 下品な、少なくとも貴族には有り得ない口調にシエルがはっと顔を上げた。
 いつの間にか裏路地の方へ進んでしまったようだ。
 シエルを舐めるようにして見つめる数人の男たちに自然身体を固くする。

「お貴族様の子女がこんな裏にいるなんてなぁ」
「迷い込んだんですかぁ〜」

 嫌な笑いに、シエルは半歩下がった。
 裏社会を支配するファントムハイヴの当主で並大抵の度胸があるとしても、所
 詮シエルは「女」だ。男に襲われてはかなわない。例え今も「男」のままであ
 ったとしても、あまり変わらないだろうが。

「運がなかったなお嬢様?」
「…それはお前たちの方だろう」

 シエルの不敵な笑みに男たちは数秒固まった。
 その隙に少女は走り出す。

「なっ、おい待て!」
「誰が待つか」

 ぼそりと悪態をついて、路地を駆ける。
 水分を含んで重くなったドレスが邪魔だ。
 上にかけられたコートも。
 けれど手放すことは出来ない。
 だってこのコートは奴のモノなのだ。
 しかし、いくら数秒のタイムラグがあっても地の利がないシエルは圧倒的に不
 利で、そう経たないうちに再び囲まれてしまった。

「逃がさねーぞ」

 じわじわと追い詰めてくる男たちに、シエルは遠慮なく舌打ちする。
 怖がらない少女に、男たちも少々戸惑っているようだ。

「このまま不快な思いをするのも嫌だな…」

 シエルの言葉に男の一人がニヤニヤ笑う。

「大丈夫だ。そんなことも思えないくらいに薬につけてやるよ」
「…お前たち薬を持っているのか?」
「優しい金持ちがたまになぁ」
「ふぅん…」

 もっと誘導尋問でもしたいところだが、この汚い手に触られるのは遠慮したい。
 シエルは伸びてきた手を避け、口を開いた。

「セバスチャン、僕はここにいる」

 一瞬、黒が視界を覆ったかと思うと、目の前にいたのはあの男たちではなく、
 よく知る男。

「全く…貴女という人は。目を離すとすぐにこれですか」

 漆黒の燕尾服をさっと払うと、長い前髪をかきあげる。
 呆れた色を濃く映した紅玉の眸に、シエルは肩を軽くすくめた。

「悪かった」
「ええ、本当に。店先にいらっしゃらないので驚きました」

 ため息を吐き出しながらも、白い手袋をつけた手がシエルの頬を包む。
 覗き込むようにして視線を合わせると、幼子に怒るかのように「めっ」と額を
 つつかれた。

「こんな所に迷い込んで、こんな男たちに囲まれて。私がこなかったらどうす
 るおつもりですか」

 そんなことは有り得ない、いや出来ないと知りながらもセバスチャンは言う。
 シエルはサファイアの眸を瞬かせ、首を傾げた。

「お前が僕を助けに来ないなんて有り得ないだろう?」
「万が一の話ですよ」
「僕がどんな状況であっても、お前は来なきゃならない。僕は魂だけでなく、
 この身体すらお前にやったんだから」

 ドレスの下にはまだ残っている。
 右目の契約書のような効力はないが、彼につけられた跡。
 紅い、花びらのようなそれ。

「僕はお前のモノで、お前は僕のモノだ」

 満足げに微笑む幼い主に、セバスチャンは苦笑するしかなかった。

「ええ…その通りですよマイ・ロード」








 出歩いたせいでコートもその下のドレスすら濡れ、意味をなさなくなっていた。
 再び呆れた顔をみせるセバスチャンに、さすがにシエルも不味かったと思った
 らしく、素直に謝る。
 帰りの馬車の中、震えながらくしゃみを繰り返すシエルをセバスチャンが毛布
 でくるみ、抱きしめた。

「帰ったらまずはお風呂ですね」

 このままでは確実に風邪を引く。
 沸かすまでは暖炉のそばでなんとかしなくては。
 セバスチャンがつらつらとそんなことを考えている間、シエルは強い眠気に襲
 われ、心地よい腕に身を寄せる。

「…お嬢様?」

 執事の声を、遠くで聞いた気がした。








 薔薇の匂いの強いバスルームでシエルはゆっくりと目を開けた。
 いつの間にバスルームに着いたのかわからない。

「ぅん…?」
「ああ、起きられましたか?」

 熱い何かがシエルの頬を撫でていく。
 上から逆さまに覗き込まれて、反射的に引き下がった。
 ばしゃん、と腕が大きな波をたてる。

「な、セバ、ス」
「…お嬢様…」

 深いため息と共に、手袋を外した手が濡れて貼りついた漆黒の髪を払う。
 シエルが作った湯の波をもろにかぶってしまった彼はずぶ濡れになっていた。
 しかしシエルは動転しており、気づいていない。それより自身の身体が何も纏
 っていないことに驚き、執事を睨んだ。

「ちょ、何でお前がバスルームに」
「何を今更。貴女の肌に触れていいのは私だけでしょう?」
「っ、だからって」
「濡れた服を脱がすのは大変でしたよ。いつもと違って」

 口元を緩く引き上げ皮肉げに、だが確かに愉悦を浮かべた顔。
 シエルがカッと頬を染めた。

「馬鹿!」

 彼の手と視線を逃れるかのように湯に身体を沈める。
 そんな主を紅玉の眸が愉しげに追った。

「飲み物の用意をしておきます。よく暖まってから出てきてくださいね」

 微笑んでバスルームを後にする漆黒にシエルは一瞬オッドアイを向けた。

「この悪魔め」

 わかりきったことを呟き、噎せかえるような薔薇の香りの湯に全て委ねた。
 扉の向こうで彼が笑っていたことをシエルは知らない。








 夜の帳が完全に降りた頃。ようやく雨雲が去り、星が瞬きを繰り返していた。

「っ…くしゅ!」

 数回続いたそれに、セバスチャンは深々と息を吐いた。

「やはり風邪ですね」
「煩い。頭に響く」
「貴女の自業自得ですよ。嗚呼、熱が上がってきたようです」

 呆れかえったとでも言うように眉を寄せる姿すら様になっている。
 シエルは気だるさを押して起き上がった。

「お嬢様?」
「今日の商談の書類を出してくれ。明日までに会社に…」

 続くはずの言葉は、不機嫌そうな紅玉に遮られた。

「セバスチャン?…うぁ」

 見かけによらずしっかりした腕がシエルの細い肢体を抱き上げ、ベッドへ向か
 う。
 少し手荒に落とされ、顔を歪めた。
 軽い衝撃でも今の体調では目眩がする。
 せめてもの抵抗にとオッドアイで睨みつけるが、逆に冷たい視線が降ってきた。

「お嬢様…お仕置きが必要ですか?」

 ゾクリと身体の奥が疼くような眸と声に、シエルは小さく跳ねる。
 ベッドに仰向けのこの状態に風邪のせいだけではなく、頬が、身体が熱を持ち
 始めた。

「っ…セバスチャン…」
「暫く起きられない程にして差し上げましょう。最近貴女は働き過ぎです」

 主を見るその眸がほんの少しだけ、痛そうに歪められるから。
 押し倒されたままの体勢で、シエルは腕を伸ばした。

「わかった。今日はもう休む」

 だからそんな顔は止めろ、と弱く告げた。
 勘違いしてしまう。
 まるで愛しいモノを見るように自分を捕らえるから。

「セバスチャン」
「はい」
「仕事が一段落したら、出かけよう。二人で」

 屋敷の中でゆっくりするのもいいが、せっかくなら本当に二人だけの世界に行
 きたい。
 珍しく甘く微笑むシエルに、セバスチャンは目元を和らげた。

「それまでお預けですか…」
「不満か?」
「いいえ。終われば貴女をすべて頂けるのなら」

 普段より熱い頬に手を滑らせ、セバスチャンはシエルの首筋に顔を埋める。
 漆黒の髪が白い肌に散る様は、どこか背徳的だった。
 チクリとする甘い痛みに、シエルはシーツから漆黒に掴むものを変える。

「この痕が消えるまでは我慢しましょうか。私も…お嬢様も」

 下にある潤んだオッドアイがまるで誘うように揺らめく。
 セバスチャンは額に口づけを贈ると小さく笑った。
 これではどちらがお預けをくらったのかわからない。

「おやすみなさい。何かあればすぐにお呼びください」
「大丈夫だ。…もし悪夢が来ても、僕には悪魔がついているんだろう?」
「ええ…何者からも貴女をお守りするのが私の役目ですから」

 いつも通りの返答をし、セバスチャンは部屋を出た。
 シエルの風邪は明後日には完治するだろう。



 廊下を数歩進み、セバスチャンは耐えきれず顔を片手で覆う。
 口元には思わずこぼしてしまった愉悦と嘲笑―――。

「少しでも早く…あの痕が消えればいいと思うとは」

 自分も大概、溺れていると失笑した。
 線引きがどこか曖昧になっていく。
 散る薔薇に溺れたのは、案外こちらが先だったのかもしれない。
 どちらにせよ、もう手遅れなのだ。
 黒を染める程、強く気高い薔薇の芳香に苛まれながら、セバスチャンは再び暗
 い廊下を進んだ。












          黒執事のサイト様に捧げたセバスチャン×シエル♀のお話です。
          チャットに参加して書かせていただいたんだったと…。なるべく甘く…!と思いながら
                    書いたのを覚えてます。ブログにあげていた黒執事の小説が読みたい、とおっしゃって
          下さる方が多かったので、あげてみました。

             09/05/20  神様を裏切るのは怖くないの。