ひっそりと、冬の空にそれは咲いた。
 いつまでもこのままで居られるはずはなかったけれど、変わるなんて想像もし
 ていなくて。
 それを恋だと知ったのは、あの人が違う顔をしていたから。
 真っ暗な空に、白が混じるのが怖いように。何も変わらないで欲しかった。


 その目がどこに向けられているのかなんて、知りたくなかった。
 どこにも行場のないこの感情は、まるで迷子のようだと思った。










     01. それが在り方









 最初から思っていなかった。期待もするだけ無駄だと知っていた。

「刹那」

 背後からかけられた声に、ゆっくりと振り向く。
 声の主なんて、振り向かなくても予想はついていたけれど、万が一間違ってし
 まったら事だ。
 だって彼らはそれほど似ている。大地の色をした長めの髪と、澄んだ湖のよう
 な美しい眸。
 だがこんな時間に、彼がここにいるはずがないから、予想は間違っていない。

「…ライル」
「今帰ってきたのか?」

 無言で頷くと、青年は少しだけ困ったように頭をかいた。
 彼は刹那とは反対に、これから出かけるところらしい。手にしっかりと持って
 いる彼の仕事道具を見て、わかった。

「今日朝来なかったろ。…あいつが煩かった」
「…すまない」
「俺は別にいいけどな。朝、ちゃんと食ったか?」
 
 また無言で頷く。本当は朝食なんて食べていないのだけど。きっと彼もそんな
 こと承知している。
 伸びてきた大きな手が刹那のセピア色の髪をぐしゃぐしゃといささか乱暴に撫
 でた。
 柔らかく細い猫っ毛は、一度乱されると自分の手に負えなくなるから、やめて
 ほしいのに。
 ―――彼はこんな風に撫でない。もっと優しく、梳くように撫でてくる。
 ふとした時に、彼を思い出して、刹那は顔を歪めた。

「刹那、晩飯は?…お袋さん、今日もいないんだろう」
「…いい。適当に済ませる」
「今日はあいつが当番か…。悪いな、今から仕事なんだよ。…嫌なんだろ?あ
 いつと二人は」

 ライルの言葉にきゅ、と唇を噛む。
 それを咎めるように頭に乗せられたままの手に力が入った。
 刹那の癖を彼らはいつもそうやって咎める。耐えるときの、それを。

「兄さんが…ニールが寂しがってるぜ」
「…ああ」
「お前の気持ちもわからなくはないけどな、あんまり露骨に無視するな」
「…わかってる」

 彼は誰にでも優しいから、可哀想な子供を放っておけないのだ。
 ―――それだけでしかないのだ。
 すっかり俯いてしまった少女に、ライルはため息を吐く。

 少女の視線に気づいたのは、いつだったか。

「…なるべく早く仕事終わらせるから。ジャンクフードは食うなよ」
「………わかった」

 返事をするまでの間が気になったものの、時間も迫ってきていたため、ライル
 は踵を返す。
 ガチャガチャと音のなるボストンバックを担ぐと、背後から小さな声が聞こえ
 て、苦笑した。

「…いってらっしゃい」

 手を挙げて返事の代わりをする。
 さっさと仕事を終えなければ、夕食に間に合わない。そうなればきっとあの子
 供も何も食べないのだろう。
 彼女は今、兄を避けているのだ。ライルの双子の兄、ニールを。
 だからライルがいない時は食事を取りに来ない。
 難儀だ、と一人ため息をつく。
 長く伸びた柔らかな髪と、つり目がちな大きい赤褐色を持つ少女を思い浮かべ
 て苦笑した。







 しんとした家の中にはもう慣れた。
 家に帰った時に、誰かが出迎えてくれたことはない。
 刹那は教材と財布しか入っていない鞄をソファに置くと、そのまま部屋へ向か
 った。
 制服のまま、ベッドにダイブする。短めのスカートが捲れ上がるが気にしない。
 どうせ誰もいないのだから。
 何をするにも億劫で、食事をすることも、つい忘れがちになる。冷蔵庫の中は
 飲み物があるくらいだ。
 鞄を置いた際に目に入ったテーブルには、しわ一つない一万円札が何枚か置か
 れていた。
 寝ころんだ先の窓から、隣の深緑の屋根が見える。
 昔はあそこに上らせてもらい、星を見たりしたものだ。もう何年も前のことな
 のに、刹那の脳裏には、当時の光景がはっきり思い出された。

「…ニール」

 ライルと同じ容姿の、青年。けれどライルより少し甘めの顔立ちで、声も優し
 い。
 見分けるのに絶対の自信を持っているくらい、間違えたことはなかった。
 彼らの両親でさえ間違えるのに、刹那は間違えない。
 それはきっと―――。





『刹那』

 優しい人、だ。
 この家に引っ越してきた当時、刹那はまだ5歳で。
 今でも大して変わらないが、昔はとにかく人が怖くて、人見知りも激しく、触
 れられることに慣れていなかった。
 けれど両親はそんな子供に気づかなかった。

『初めまして、ニール・ディランディです』
『俺はライル。間違えないでくれよな』
『わたし、エミリー!』

 何も感じない刹那にとって、それは光にも似ていた。
 隣に挨拶に行った時、日曜日の昼下がりだったが、隣家は皆揃っていて。
 ディランディの家族は皆優しそうな人だった。
 なにも反応を返さない刹那を不思議そうに見ていた双子。
 近所に自分より年下の子がいないからと、エミリーはすぐに刹那と仲良くした
 がった。

『刹那、今日一人ぼっちなんだって』
『え?』
『パパもママも出張でいないって』

 一方的なようで、意志の疎通が子供同士取れていたのか、エミリーは比較的刹
 那と仲が良かった。
 仲が良くなるにつれ、幼いながらも刹那の置かれている環境は徐々に知れてい
 った。
 刹那は保育所などに預けられず、大抵家にいる。家にはほぼ毎日ベビーシッタ
 ーの女性が出入りしていた。まだ若く、美しい女の人だった。
 近所には若いのに人の良さそうな女性だと噂されていたが、時折刹那から見え
 隠れする、噂とは違った一面。

 気づいたのはニールだった。
 部活が急に休みになり、早く帰宅したニールは玄関の近くで蹲る刹那を見つけ
 た。

『刹那…?』

 蒼白な顔に、脂汗。
 尋常ではない様子の幼子に、慌てて駆け寄る。

『おい、刹那!』

 ぐったりした身体は、驚くほど軽く、細い。
 抱えあげたことで、それがわかり、ニールは母のいるであろう自宅に刹那を運
 んだ。
 あそこにいてはならないと、頭の中で声がしたから。

『母さん!!』
『ニール?』

 慌てて駆け込んできた双子の片割れに、ディランディ夫人は目を瞠った。
 中学生の息子の腕には、一目で具合の悪いとわかる幼子が抱えられている。
 それが隣の家の子供だと最初はわからなかった。隣家の人間は、仕事が忙しい
 のか、近所づきあいもほとんどなく、家に明かりが長時間灯っていることがな
 いから関わりようがなく。
 まだ幼い子供がいることは知っていたが、挨拶に来た時と、時折エミリーと遊
 んでいるところを遠目に見たことしかなかった。

『ソファーに寝かせて。…熱があるわね。ベビーシッターの人がいるはずなの
 に気付かなかったのかしら』
『…母さん、刹那外にいたんだ。玄関のとこに蹲ってて』
『え?』

 ディランディ夫人はニールの話を聞きながらも、幼子にしてはきっちり着込ん
 だ服を緩めて――目を瞠った。
 母の手が止まったのを訝しみ、ニールが不思議そうに刹那を見る。

『な、に…これって』
『なんてこと…!』

 細い首元から見えたのは明らかに最近できたと思われる火傷や細かい傷、痣だ
 った。
 まさかと思い、そっと服を脱がせると、それは身体中――服で隠れる範囲につ
 けられていた。
 ニールは愕然としつつも、転寝用に家族が使うブランケットを小さな身体にか
 ぶせる。
 5歳だと言うのに、細すぎる身体に、たくさんの傷。何が刹那に降りかかって
 いるのか、ニールにもぼんやりと理解できた。

『…とにかく病院に連れて行きましょう。ニール、留守番しててちょうだい』
『俺も』
『もうすぐエミリーが帰ってくるわ。…公園に遊びに行ってるの』
『でも』
『大丈夫よ。お願いね』

 手早く刹那をブランケットごと抱きあげると、母は簡単な荷物を手に、リビン
 グを出た。
 ニールはエミリーが帰ってくるまで、動くことが出来なかった。
 母が帰ってきたのは、夕食の時間になった頃。そのころにはライルも帰ってき
 ていた。
 見るからに意気消沈している兄を不審に思っていたライルやエミリーは、母の
 帰宅と、抱えられている刹那に目を瞠る。
 エミリーに詳細は教えられなかったが、その日、刹那はディランディ家で昏々
 と眠り続けた。
 両親が哀しげな顔で話をしているのを、ニールが不安そうに見つめている。ラ
 イルは何も聞かなかったものの、事情をたまに聞こえる単語から推し量ったの
 か、ただ黙ってテレビを見ていた。

『うちで預かったらどうかしら。一人くらい子供が増えたって平気よ』

 そうして自分の家よりも多く、隣で過ごすようになった刹那に「家族」という
 ものを教えてくれたのは彼らだった。
 誰かに抱きしめられることも、温かい食事を与えられることも知らなかった。
 そんな子供を実の両親より慈しんでくれた人たち。
 ―――この人たちが、本当に「家族」だったら、自分はどんなに幸せだろう。



 エミリーと大差なく刹那に優しくしてくれた。それはライルも同じだったが、
 刹那にとってニールは特別だった。
 面倒見のいい彼は、感情を吐露するのが苦手な刹那から機敏にそれを読み取っ
 て、根気良く付き合ってくれた。
 一番最初に、自分を救ってくれた人。気づいてくれた人。
 彼に触れられるのは好きだった。誰かに触れられるのは苦手なのに、彼だけは
 最初から怖くない。
 ずっと不思議だった。どうしてニールだけは平気なのか。
 ライルだって、エミリーだって、ディランディ夫妻だってみんな好きだけど、
 それでも触れるのに勇気がいる。
 その答えが出たのは、中学の時。

 冬の寒さが、一番堪えるような、そんな日だった。
 曇り空がなおさら寒さを意識させる。もしかしたら、雪が降るかもしれない。
 お気に入りの深い赤のマフラーに顔を埋めるように俯き、足早に家へと足を向
 ける。今日はニールが勉強を見てくれる日だ。そう成績が悪いわけではないけ
 れど、彼に教えてもらうのは好きだった。
 彼は大学生で、最近忙しいのかあまり食事をともにすることも出来なかった。
 だけど今日はレポートも何もないと聞いている。
 ふと、人の多い街中で見慣れた赤い車が止まっている。スポーツカータイプの
 それは彼の車だ。
 兄弟そろって車好きで、二人ともそれぞれこだわりを持っていることを知って
 いる。だからすぐにわかった。
 駆けて行って、声をかけたら彼を驚かせるかもしれない。乗せて家まで一緒に
 帰れるかもしれない。久しぶりに乗せてもらえるかも。
 期待に胸を膨らませていた刹那は、駆けだそうとして―――固まった。

 助手席から出てきたのは多分彼より年上の美女。
 長い柔らかそうな巻き毛の女性は艶やかに笑って窓から顔を出した彼にキスを
 した。―――頬ではなく、唇に。
 昔から、彼とその弟は外見と性格からとにかくモテていた。でもよく構ってく
 れていたから、考えもしなかった。
 どうして特別だなんて、思っていたのだろう。
 彼女がいない方が、おかしい。現にライルはよく女の人を連れて歩いているじ
 ゃないか。
 心臓がこの寒さで凍りついてしまったのではないかと、本気で思った。
 けれど頬を熱くて冷たい何かが伝うのを感じて、呆然と手をあてる。
 自分がどうして泣いているのか、わからなかった。
 その日、刹那が隣に足を運ぶことはなかった。
 夜になっても訪ねてこない刹那を心配したのか、彼が様子を見に来たけれど、
 少し気分が悪いのだと言ってごまかして。
 本当は気分が悪いなんてものじゃなく、胸がじくじく痛んで、涙が止まらなか
 った。
 そうしてようやく知ったのだ。自分が彼を特別だと――好きだと。そう想って
 いることを。

 その日から、刹那はニールと上手く話せない。






 いつの間にか外は暗くなっていた。冬は日が落ちるのが早い。
 起き上がり、部屋のカーテンを引こうとしてふと手を止める。隣の家から漏れ
 る明かりの中に、茶色が見えた。
 ―――ライルはまだ仕事中のはず。ならばあれは彼だろう。

「…今日は早いんだったか…」

 現在、ディランディ家には双子だけしか住んでいない。夫妻とエイミーは海外
 にいるからだ。もう3年になる。
 刹那は窓枠に頭を預け、柔らかなブラウンを目で追った。
 こんなに近くにいるのに、なんて遠いのだろうか。物理的なだけではなく、心
 が。
 意図的に離した自分が感傷に浸っても、どうしようもない。
 刹那は小さく自嘲すると、カーテンを引いた。
 それはまるで、閉ざして押し込めた感情そのままだった。





「ただいまー。腹減ったー…」
「おかえりライル」

 仕事だったのか、大量の荷物を持って帰ってきたライルに、リビングで寛いで
 いたニールは目を細めた。
 抱えた荷物があまりにも多いことに首を傾げる。

「撮影か?」
「んー、なんかモデルの子が変わったとかでさ。呼び出しくらっちまったんだ
 よ」
「あ?こっちには連絡来てなかったけどな」
「先生の希望らしいからな。明日朝から忙しいぜ、多分編集部も」
「マジかよ…明日の約束キャンセルになるかな…」

 ふう、とため息をついて茶色の髪が乱れるのも気にせず頭をかく。
 電話しておくか、とひとりごちるとソファから腰を上げた。
 その様子を横目で見ながら、ライルは静かに口を開く。

「…彼女?」
「ん?ああ、そう…。明日食事の約束しててさ」
「そっか」

 ―――刹那を迎えに行く前でよかった。
 彼女を今から連れてこようと思っていたところだ。
 何も知らず明日の仕事が増えたと嘆く兄に向って、ため息をつくのをこらえる。
 脳裏に浮かんだ、赤褐色の揺れる眸。迷子の子供のような、そんな色をしてい
 る。

「なぁニール、刹那の分あるか?」
「…もちろん」
「じゃあ呼んでくる。どうせ食ってないだろうし。その間に電話しておきなよ」
「おう」

 背中に視線を感じながら、ライルは再び玄関に向かった。
 隣の家に、電気が付いている様子はない。静まりかえったそこには、まるで誰
 もいないかのように。
 目を離したら消えてしまいそうな、そんな少女を早く迎えに行ってやりたかっ
 た。
 本当は、この役目は自分じゃない。昔は彼がやっていた。けれど今は―――。
 リビングから、小さく話声が聞こえてきたのを確認すると、そっとドアを開け
 た。
 1月ももうすぐ終わる。雲のない夜空には、たくさんの星が瞬いていた。





 携帯電話を手に、慣れた番号を引きだす。
 今の彼女とは付き合って半年ほど。モデルとしてでも通用しそうなキャリアウ
 ーマン。そんな感じの女性。
 告白されたのは向こうから。顔も性格も好みで、自分もちょうどフリーだった。
 だから軽い気持ちで付き合い始めた。自分より二つ年上なせいか、最近結婚を
 意識しだしているようだ。
 正直なところ、ニールにその気はない。今は仕事が楽しいし、―――何かが違
 う、と。引っかかっているからだ。
 そっとカーテンをめくると、隣の家の玄関が見える。
 インターフォンも押さず、迷いなく入っていく自分と同じ顔の弟が見えた。
 今日刹那に逢うのは初めてだ。幼い頃のように毎日顔を合わせていた時期が懐
 かしい。
 家に帰れば必ず彼女もいて、少々無愛想で、けれど耳触りのいいアルトの声で
「おかえり」と言ってくれていた。
 妹が増えたかのようで、とても可愛かった。今でもその気持ちは変わらない。
 けれど最近、いや、もうここ数年だ。どんなに物理的に傍にいても、間に何かあ
 るような、そんな感覚を覚えるようになったのは。
 顔を合わさない日ももちろんある。彼女だってもう高校生だ。自分の生活があ
 るのだろう。
 けれど、ライルとは。弟とはそれなりに交流があるのだ。
 この携帯電話一つでも。刹那が携帯を持ち始めたと知ったのも、アドレスを知
 ったのも、ライルを介してだった。昔なら一番に自分に教えてくれていたはず
 で。
 そんな些細なことでも、随分ショックだった。
 けれどなぜショックを受けたのかは、考えなかった。





 いつから持ち始めたかは覚えていない。
 けれどディランディ家にはセイエイ家の鍵があった。
 最近いつも持ち歩いているそれで玄関のドアを開ける。

「刹那―――?」

 真っ暗な内に向かって声をかけると、一時してから軽い足音が聞こえた。
 淡い灯りがつき、闇の中から出てきたのは髪がぐしゃぐしゃになったままの刹
 那。

「…ライル。思ったより早かったな」
「おう。打ち合わせだけで解放されたからな。ニールが飯用意して待ってるか
 らさ、行くぞ」
「…わかった」
「っと、その前に」

 ぴっ、と狙い打つように人差指で指され、首を傾げる。
 呆れたような表情を浮かべるライルが、肩をすくめた。

「なんでまだ制服なんだよお前。着替えてこい」

 微妙にしわになっている姿に、大方の予想はつくのだけれど。
 刹那はバツが悪そうにシャツをつまむ。

「…さっきまで寝てた」
「だと思ったぜ。ほら、待っててやるから」
「すまない」

 パタパタとスリッパの音を響かせて、刹那が暗がりに消える。
 この家はいつ訪れても寒い―――。人の暖かみというものがまったく感じられ
 ないのだ。
 育った家と真逆とも言える場所に、彼女はいつもひとり。
 そろそろニールは電話を終えたはずだ。三人分の食事を用意して待っている。
 せめて切なさの中に少しでも、あたたかさを感じてもらいたい。
 ライルは再び聞こえてきた足音に、俯いていた顔を上げ、少女を迎えた。





 久しぶりに食べたニールの食事は美味しかった。
 ちゃんとしたものを食べるのは、実はディランディ家に来た時だけだ。普段は
 ファーストフードで過ごしている。自分で作れないこともないが、それはどう
 にも面倒だし、味気なく感じてしまうから。

「刹那、ほら」

 ソファにちんまりと座っていた刹那に、白いマグカップが差し出される。
 中身はどうやらコップと同じ色のもの――牛乳らしい。
 差し出してきたニールを一瞥すると、彼は小さく笑った。

「すぐに栄養取れていいだろ?」
「………ありがとう」

 別にコーヒーでも紅茶でも飲めるのだが、ニールはなぜか昔からホットミルク
 を差し出す。
 蜂蜜を入れたそれはとても甘い。
 口に含むと、優しい味が広がった。
 隣に腰を下ろしたニールが、はね放題のセピア色を指に絡める。

「だいぶ伸びたよなぁ…」

 香りからしてコーヒーの入った深緑のカップを傾けつつ、ぽつりと落とされた
 セリフに、刹那はただ頷いた。
 昔、刹那の髪は短かった。首筋にかかるようになるとすぐに切ってしまってい
 た。
 猫っ毛な柔らかい髪は癖がつきやすく、セットするにも一苦労なのだ。
 伸ばし始めたのは、いつだったか。
 今や背の半ばほどまで伸びた髪。緩やかにウエーブを描くそれをニールは大層
 気に入っている。

「刹那ぁ、ちょっと」

 間延びしたような声に、刹那は立ち上がる。
 ライルがリビングの入口で手招きをしていた。
 するりと手を抜けていったセピア色に、なんとなく寂しさを覚えた。
 ぽっかりと空いてしまった隣が寒くて、ニールは知らず少女を目で追う。
 二人の会話はここまで届かない。けれど刹那が珍しく小さく笑ったのを見て、
 胸が急いた。
 無表情の中で、彼女の大きな赤褐色はいつも雄弁で。けれど今、目をしっかり
 あわせて話すことすら稀だ。
 彼女の眸はニールを映さない。

 いつの間にか離れてしまった少女。仔猫のような気まぐれさの中、自分にだけ
 は懐いていると盲目的に思っていた。
 それがいつの間にかするりと逸れてしまっただけ。それだけのこと。
 小さな後姿が、途方もなく遠く感じるのは、自分の感傷でしかない。

「馬鹿みたいだな…」

 呟いた声は、暖かなリビングで誰にも聞き咎められなかった。







	
















       ついに始めてしまいました…!だぶるおー長編です。お題をお借りし
       ていますので、10話で完結の予定です。
       私の大好きな図式で書かれています(笑)片思い大好きだ…。
       ライルに頑張ってもらう予定。頑張れ弟!どうぞ最後までお付き合い
       いただければと思います。

          08.12.19 気づかなければ、そのままだったかもしれない。
                そんな想い―――。