彼女と付き合い始めたきっかけは、一枚の写真だった。
流星群を映したもので、仕事で使うためともう一つ―――幼馴染の少女に見せた
かったからだ。
漆黒の背景に白い線が円状になって走っている。散りばめられたそれは肉眼で見
ることの出来ないもの。
結局その写真を幼馴染に直接見せることは出来なかったけれど。
その写真を取り寄せた際、持って来てくれたのが彼女だった。
雑誌に使いたいと上司に相談したところ、別の編集部から借り受けることになり、
取りに行こうとした矢先のこと。彼女は上司の同期で、その後も飲みにつきあわ
されたりだとかそういった場所で何度か会ううちに仲良くなった。そして告白さ
れた。
互いに仕事に対する熱意だとか、食べ物の好みだとかそういった好みが近く、話
すのが楽しくて。
つきあい始めた頃は、ライルが何か言いたげにしていたし、時折苦い顔を見せて
きたけれどそれが何を意味していたのかは知らずに。
「…久しぶりね?」
「ああ…悪い。急に呼び出して」
「いいわ。ちょうど仕事も早く片付いて、有給とってたから」
目の前に座った彼女が綺麗な笑みを見せる。急に頼んだコーヒーの香りが苦く感
じた。
カフェの店員に紅茶を頼むと、ニールに向き直り首をかしげる。その仕草は、や
はりどこかあの少女を彷彿させた。
「それで、話があるんでしょ?」
「ああ…」
「まぁ、予想はついてるのよね。実は」
あっけらかんとしてそう言う彼女に、思わず瞠目する。
こちらの表情がおかしかったのか―――彼女は苦笑した。
「私、そんなに馬鹿な女じゃないわよ?」
「それは…知ってるけど」
ニールが視線を反らす。彼女が聡いことなんて、知っている。そうでなければ、
この業界で伸し上がっていない筈だ。
店員が紅茶を置くと、彼女はそれを一口含み口を開いた。
「でもちゃんとニールの口で言って。…そうじゃなきゃ私、さすがに割り切れな
いわ」
視線はかち合わない―――。
それが彼女の精一杯の強がりだとわかって、胸が痛む。
けれどこのまま付き合い続けることは、出来ない。それは彼女にも、大切な人に
もひどく残酷なことだから。
ニールは冷めたコーヒーをあおってターコイズグリーンの双眸をしっかりと彼女
へ向けた。
「…俺と別れて欲しい。俺は…本当に大切な人がいたこと、やっと気づけたんだ」
ずっと、見ないふりをしていた。
「妹」のような存在だと、それだけだと自分に言い聞かせていたのかもしれない。
そうしてずっとずっと傷つけて、泣かせてきた。
本当は寂しがりやなことも、愛情に飢えてることも、知っているはずだったのに。
気付けなかった間に出来てしまった溝は、まだ埋めることが出来ていない。
だからこれからはずっと傍にいて、涙も笑顔も、全部自分だけのものにしたい。
誰にも渡せない。
他の誰でもない、刹那だけが愛しいと思わせてくれる。
別れよう、と自分から口に出すのは勇気がいった。
今まで告白も別れもいつも相手側からだった。
みんなこんな想いをして言葉に変えていたのかと思うと、胸がじくじくと刺され
ている気分になる。
居た堪れなくなったけれど、視線を反らすことだけはしなかった。
きっと時間にしたら数秒のはずだが、長く感じた沈黙の後。彼女は再び紅茶を含
み、小さく微笑んだ。
「私…こうなること、わかってたのよ。だってあなた、いつもあの子のことばっか
りだったもの」
「…え?」
「一番顕著だったのはあの撮影の時かしらね。あの子が…刹那ちゃんが泣いた時の
あなたの痛そうな顔とか、ライル君に連れて行かれちゃったときの顔とか」
困ったように笑う彼女に首をかしげて見せると、逆に驚かれてしまった。
「なぁに?あなた無意識だったの?」
「え?何がだ…?」
「ヤダ、呆れた」
本当に呆れたというように、彼女は頬に手を当ててため息をついた。
ニールがさらに首を傾げるとやれやれとでもいうように嘆息する。
「あんなに焦がれるみたいな目をしてたくせに、無意識、無自覚だったなんて!」
「…焦がれる…?」
「そうよ。ライル君にあの子が連れて行かれた時、ニールったら」
彼女が目を細め、困ったように笑った。
あの日のことはニールもしっかりと覚えている。それほど衝撃的だったから。
急にモデルが来れなくなって、ライルが刹那に頼んだ。そのことは撮影所につく
まで、ニールも知らされておらず。
結果、刹那を写した写真はものすごい反響を呼んで、あの雑誌は在庫が追い付か
なくなり急遽増刷したほどだ。
幼馴染の少女をライルはよく練習と称して撮っていた。近所の公園だったり、少
しドライブをして連れ出してみたり。そんな時は顔馴染みのスタイリストやヘア
メイクの女性陣を連れて行っていたから、刹那も彼女達とは顔見知りで。
ライルの写真に映る刹那を見たことがないわけではなかった。
けれどあの日、スタジオで見た少女はニールのよく知る、意地っ張りで猫の気質
を持った可愛い幼馴染なんかじゃなく。―――紛れもなく、一人のモデルで、一
人の女だった。
喪服のようなドレスをまとい、花を抱いて悲嘆にくれる。目を引き付けるのは、
何も映していない筈の眸。
駆け寄って抱き締めなければ―――。そう思った。
けれどニールが動く前に彼女が刹那に駆け寄って、何かを話しだす。結局、ニー
ルが刹那に声をかける前にライルが連れ去ってしまった。
あの時自分は何を考えていただろう。
「俺はあの時…どんな顔してた?」
「…ニールはね、あの時ライル君に嫉妬してたのよ」
「…え?」
「大事な人を盗られた男の顔してたわ。…私もその時は何にも思わなかったけど、
あの時私が言ったでしょ」
―――もし刹那ちゃんを好きな人がいたら焦るでしょうね。
―――あんなに可愛いんだもの。
「あの時あなた、なんて答えようとしてたのかしら」
こちらを窺うように、視線だけが問いかける。
答えなんてきっと、決まっている。
「…多分…そんなのダメだって…あいつは俺のだって、思ってたよ…」
彼女はニールの答えに満足したかのように、けれどどこか寂しそうに笑った。
「あの子、これからきっとますます美人になるわ」
「ああ…わかってる」
「あの写真、すごく評判良かったでしょう?私も雑誌買ったけど…本当に綺麗だ
った」
モデルがあの一度きりだなんて、惜しいくらいには。
そう続けた彼女の顔を見つめる。
確かにそれはニールも思わなくはなかった。スメラギにはああ言ったが、本当は
惜しいと思う。
けれど刹那をあの世界に置きたくないのも本当。
複雑の心境が伝わったのか、彼女も頷いた。
「…しっかり守ってあげて。あの年であんなに危うい顔するんだもの…何か訳アリ
なんじゃない?」
「ああ…」
「あなたはすこーしヘタレてるとこあるから心配だわ。…そう言うところも、好き
だったけど」
彼女の言葉にはっとして思考を戻す。
「でもいいわ。私は私を一番好きでいてくれる人の方がいいもの。…だからあなた
は、ニールはニールの一番好きな人を大事にしてあげてよ」
綺麗な笑みは、大人の女性のもの。
でも無理をしている顔じゃないのが、救いだろうか。
「私あの子、結構気に入ってるわ。…泣かさないであげてね」
「わかってる。…泣かせたら俺は多分殺されるから」
思わず遠い目になるのは仕方がない。
それくらい怖い守りが刹那にはついているのだと、最近知ったのだ。ライルは前
から親交――というのか、ライルは害虫のように扱われていた――があったらし
いが、あの赤い眸で睨まれるのは遠慮したい。
そしてライルにも散々迷惑をかけた自覚はある。刹那に近い存在になった弟に嫉
妬した。全部自分のせいだったけど。
「…明日からは仕事仲間ね。しっかり働いてちょうだい?」
「もちろん。ちゃんと働かせてイタダキマス」
深々と頭を下げると、彼女の笑う声が落ちてきた。
悟られないように小さく息を吐く。ゆっくり顔をあげて向き合うと、彼女は紅茶
を飲み干すところだった。
カップを置いて、静かに立ち上がる。
「それじゃぁ、さよならニール。…楽しかったわ」
こちらが口を開く前に、彼女は踵を返して去っていった。
カフェを出たニールは、ゆっくりと歩く。
今日は車に乗る気分じゃなかったから、車は家に置いてきた。帰りはのんびり歩
いて帰ればいいだろう。
道すがら、マフラーに顔を埋めながら周囲を何ともなしに見る。
季節はもう桜もほころぶ頃なのに、まだ風が冷たい。
―――彼女はわかっていたと言った。
それほど自分は傍目にはわかりやすく刹那を想っていたのだろうか。
彼女が飲んでいた紅茶の色は、赤褐色。刹那の眸と同じ色だ。
無性に刹那に会いたくなった。けれど今、会うのは別れたばかりの彼女に悪い気
がしなくもない。
それでも。
ニールは一度立ち止まり―――再び歩き出した。
刹那の家はディランディ家と学校を挟んだ反対側にある。もう逢わないつもりだ
ったのだと彼女の口から聞いた時は、ひどくショックを受けたものだ。
それなりにセキュリティもしっかりした賃貸マンションは、刹那一人で暮らすに
は不便などないだろう。
成人するまではそれなりの金を口座に入れてくれるらしい。彼女の両親は金は与
えるが愛情はまったくない人間だ。けれど彼らがいなかったら刹那はいないのだ
から、その点だけは感謝している。
ティエリアもよく刹那を訪ねているようだし、夕食はディランディ家でとること
も多い。寂しくはないという
けれど、本当は刹那を一人にはしたくなかった。だが家に来るように言っても、
首を横に振るだけだ。
だからなるべく逢いに行くし、大半はディランディ家で過ごさせている。定期考
査の時と何か事情がある時は別にして。
インターフォンが鳴る。
時計を見るとまだ午後3時になるかならないか。そんな時間に客が来るなんて珍し
い。
刹那は首をかしげながら立ち上がった。
宅配か何かだろうか。もしくは図書館帰りのティエリアか―――。
一応セキュリティのかかったマンションだ。玄関に来るまでは刹那がエントラン
スのドアを開けないと無理で。
誰がきたのだろう、と訝しげにインターフォンを見る。
「…ニール?」
カメラから見えたチョコレートのような茶色は、間違いなく彼のもの。
そう言えば今日は仕事が休みだと言っていたような気がしなくもない。刹那たち
学生は今は春休みで、悠々とした時間を過ごしているが、彼は社会人だ。こんな
時間に居るのなら、休みなのだろう。
『…刹那?部屋にいないのか…?』
こちらの反応が返ってこないからか、ニールは首をかしげて困ったように呟く。
再度チャイムを鳴らす彼に、慌てて受話器をオンにした。
「ニール!」
『あ、刹那?よかった、いたんだな』
「ああ、すまない…すぐに開ける」
『ん、頼む』
小さく頷いた彼が、どこか元気がないように見えて。
刹那は再度首を傾げた。
「急にごめんな」
「いや…」
エレベーターで上がってきた彼を部屋の前で待っていた。
刹那を見つけたニールは緑の眸を軽く瞠って、それから柔らかく細める。
その仕草が好ましくて、刹那も口元を緩めた。
「今日、仕事休みだったのか?」
「ん?ああ…昼から有給とったんだ」
この時期はどこの会社も忙しいだろうに、そこまでして休まなければならない何
かがあったのだろうか。
首をかしげつつも、ニールを部屋にあげる。
相変わらず者の少ない部屋に彼が苦笑するのを横目に、刹那はお茶の準備を始め
た。
この間ティエリアが持参してきた紅茶は、渋みが少なくて刹那好みだ。彼の家に
は腐るほどあると言うので分けてもらった。
所在なさげにしているニールをクッションの上に座らせ、紅茶を置く。
「…ニール、どうした?」
しばしの沈黙の後、そっと問いかけると彼は困ったように微笑んだ。
「刹那」
「なんだ」
「抱き締めさせて」
両手を広げて待つ体勢のニールに一瞬呆れる。けれどターコイズグリーンの眸に
走った切なげな色を無視することは出来なかった。
せめてもの意趣返しに睨みつけてやると、整った眉尻が下がる。
「刹那」
呼ぶ声が甘いから、仕方なく身体を委ねた。
すぐに抱きすくめられ髪に頬を擦り寄せられる。
何かあったのだということはわかった。けれど聞かない方がいいのだろう。
刹那はそっと腕を広い背中に回す。
彼の腕に力が入ったのがわかった。けれど―――ただ身体を預ける。
「刹那、好きだよ」
「…ああ」
「好きだ」
「知ってる…」
甘く甘く。融けるような声で囁いてくるニールは、やっぱりどこか切なそうで。
そう言った彼を見ていると―――何があったのかおのずと知れる。
優しい人だ。彼は優しくて弱いから、哀しいのだろう。相手の気持ちを想うと、
切ないのだろう。
そう思うのに、心のどこかで安堵と征服感を味わっている自分がいる。
自分の感情は満足に操れない。誰かの哀しみを喜ぶなんて、そんなの―――。
「ニール、もっと言ってくれ」
「刹那…?」
「そしたら俺は幸せだと思うから。だから言ってくれ」
誰もが幸せになるのは難しい。
誰かが幸せな時、どこかで泣いてる人がいるのは、もうどうしようもないことで。
だからそれなら、幸せは逃さない方がいい。
そう思って顔をあげると、ニールの眸とかちあった。
惹かれあうように、唇を重ねる。
軽く触れるだけのそれを、何度も何度も繰り返す。
「…好きだ、刹那」
「ああ…俺も、好きだ」
いつの間にか赤く染まっていく部屋の中、二人で抱きしめあう。
もう少ししたら笑いあって、あたたかい家に向かおう。
それまではただ愛を囁き合って、心を満たして。
ジュピターの花
大変お待たせいたしました。ようやく書き終わった続編…というか番外編です。
彼女さんとの別れは結構あっけらかんとしたものかなぁ、と思っていたのでシリアスは
その後にしてみました。や、だって多分刹那もニールも気にすると思いますよ…。
題名にしましたジュピターの花って言うのはカーネーションのことです。
2010.06.06 花言葉 試練に耐えた誠実・純粋な愛情 など
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