「家族」というつながりはあまりに希薄で、思い出は何もない。
 けれど、それでも血のつながりに期待をしていた。

 空のように、海のように、星のように、どこかでつながっていると。








     05. 最優先事項は











 視界が白く染まるほど、雪が降った。
 2月の空は曇りがちで、いつ降り出してもおかしくはない。今日はどこに行くに
 も時間がかかりそうだ。

「刹那、早めに出ないと遅れるぞ。学校まで送ってやろうか?」

 今日も起こしに来たライルがドア越しに問いかけるが、反応がない。
 不審に思ってそっとドアを開けると、荒い呼吸音が聞こえた。

「刹那!?」

 慌ててベッドに駆け寄ると、頬を上気させた刹那が苦しそうに見上げてくる。

「ライ…ル」
「お前…いつから熱あったんだよ…」
「昨日、寒…気、して」
「そっか。気付かなくてごめんな」

 どうしてライルが謝るのか分からない、と視線が言っている。
 それに苦笑して額に手をあてると、手のひら越しに伝わってくる、ひどい熱さ
 ―――。
 随分高いそれに、平熱が低い子供の身体が心配になった。

「うわ、絶対40度近いぞ…」

 ここまで上がっているということは、もしかしたらインフルエンザかもしれな
 い。
 とにかく病院に連れて行かなくては、と携帯電話を取り出す。
 まだ家にいるはずの兄にかけた。

『はい?』
「あ、兄さん?」

 すぐ近くで話しているライルの声が遠い。
 ぼぅっとする頭は話の内容を届けてくれなくて、不安になった。
 昨晩、体調に違和感を感じたものの、いつまでも起きていたのがいけなかった
 のだろう。
 熱を出してしまうなんて―――いったいいつ以来だ。

「刹那」

 ひんやりとした手が額に乗せられる。
 声を出すのも辛くて、視線だけで返すと、心配そうなターコイズグリーンが覗
 きこんできた。

「起き上がれるか?とにかく病院に行こう」
「ライ、ル…仕事…」
「今日は午後からだ。そんなこと気にすんな」

 甘えていいから、と撫でてくる手が気持ち良くて。
 熱に浮かされ、とろんとした思考の中、抱きあげられる感覚がした。



 毛布にくるまれた細い肢体がディランディ家の門をくぐる。玄関のドアを開け
 てそれを待っていると、弟が苦笑した。

「ありがと、兄さん」
「いや…刹那は?」

 苦しそうな呼吸が聞こえる。上気した顔は眉が寄せられ、寒いのか身体が震え
 ている。
 そんな少女の様子に、ニールが眉を寄せた。
 この状態の刹那を置いて仕事に行くのは、とてつもない罪悪感が芽生える。
 リビングのソファに横たえた身体に思わず触れていた。
 初めてこの小さな身体を抱えた時のことを思い出す。あの日も、刹那は熱に苦
 しんでいた。

「兄さん、そろそろ行く時間だろ」
「ああ…けど、刹那が…」
「これから病院連れていくからさ。んで俺はそのあとすぐ仕事行かなきゃなん
 ねぇから、出来るなら午後から有給取って看てやってよ」

 さすがにこの状態で一人放り出すわけにもいかない、と告げる弟に当たり前だ、
 と返して。
 そうと決まれば、早く出勤して休みをとりつけてやる。
 椅子にかけていたネクタイと上着を手に、ニールは出勤の準備をした。

「いってきます!」
「はいはい、イッテラッシャイ」

 棒読みの送り出しに不満を覚えるより、午後から有給が取れるかで頭の中は埋
 まっていた。



「刹那、病院行こう」
「ライ…ル、家に…かえ…」
「ダメだ。心配で俺と兄さんを殺す気か?」

 一人でも大丈夫だと言いたいのだろう。潤んだ赤褐色に力はない。
 どう見ても放っておくわけにはいかなかった。病気の時くらい、素直に甘えて
 くれていいのに。
 熱を測るついでに汗ではりついたセピア色の髪をかきあげてやる。
 さっきよりさらに熱くなった気が―――。

「午前中は俺がいるから、甘えていいよ」
「ごめ…」
「大丈夫だ。全然迷惑だなんて思わないからな」

 誰かに頼ることを知らない子供に微笑みながら言い含めると、ようやく納得し
 たのかそれとも言い返す力もなくなったのかゆっくりと目を閉ざした。
 荒い呼吸だけがリビングに響く。
 保険証はどこだったかと、ライルは刹那の頬を擽るように撫でながらため息を
 ついた。





 助手席でぐったりと横たわる少女を見つめて、目を閉じる。
 医者に診せたはいいが、思わぬことを言われてしまった。

「軽い風邪とバランスが崩れたことによる精神的な発熱、か…」

 人間は身体と精神のバランスが重要である。
 精神面というものは、崩すと即身体に異常を発するのだ。それはライルもよく
 知っている。
 そっと目を開けて少女を見やると、深くため息が出た。
 確かに刹那は今まで良く持った方だと思う。
 兄のこと、幼少期からの家庭の問題、学校のこと―――。
 辛い、哀しい、寂しい。そのどれも、彼女の口から聞いたことはない。人間な
 らば思わないはずがないのに。
 元々刹那は感情の表現が得意ではなく、聞きだして解らせてやる必要があった。
 こんな風に熱を出すほど、我慢するなんて。
 しかしそこでふと思い立った。刹那の感情を引き出させていたのは―――。

「ああ…そうだよ…」

 苛立ちを紛らわしたくて前髪を掻きあげる。
 刹那が笑うのは、泣くのはどんな時か。彼女が感情を表に出すにはいつも必要
 不可欠なものがあった。
 それが無くなったのは、いつ。―――すべてがあの頃から始まった。

 刹那がニールへの想いを自覚したあの頃から。

 どうしようもなくやり切れない思いを覚えて、ライルはハンドルを殴った。








 夢を見た。
 朦朧とする意識の中、声がした。


 最初に気づいたのは、いつだったのだろう。
 他の人と自分の違い。周りはみんな笑っているのに、それがなぜかわからない。

 両親は所謂政略結婚の仲だった。
 子供はいらない。作るつもりがなかったのだと、話しているのを聞いたことが
 ある。
 刹那は間違って出来てしまったのだと、幼い頃から何度か聞かされていた。
 だから、自分はいらない子供なのだと、ここにいるのは間違っているのだと。
 あの日まで、ずっとそう思っていた。


 幼い頃は自分の家だけが世界のすべてだった。両親は朝早くに出ていき、1日
 顔を見ない日もあった。家には一人きり。正確には家政婦らしき若い女性がい
 たが、彼女は刹那をいないものとして扱った。
 ご飯を誰かと食べることも、話をすることもなくて。
 テレビ、本、それらだけが刹那の世界を構成していた。
 家政婦の女性はいつも電話をしていたり、見知らぬ男を連れていたり、自分を
 着飾って楽しそうで。そうしている時は機嫌がよかったが、虫の居所が悪いと、
 刹那に暴力をふるった。
 服に隠れる位置、決して顔や腕、足などの見えるところに傷も痣も残さなかっ
 た。たまには一緒にいる男も楽しそうに刹那で遊んだ。
 それが日常だった。

『刹那』

 優しい手。
 労わりを持って触れられたことなどなかった。
 柔らかく微笑みながら名前を呼ばれたことなど。

『刹那』

 今まで見たことのないくらい、きれいな眸。いつかテレビで見た湖のよう。
 花を咲かせる土と同じ色の髪。
 綺麗なきれいな、人。
 抱き上げてくれる腕はいつだって優しかったし、その手が刹那に酷いことをし
 たことはない。
 ―――この人は、大丈夫かもしれない。
「安心」を初めて知った。

 だから。
 だから盲目的に、のめり込んでしまった。
 まるで魂に刻み込まれたように、「彼」に。
 ――彼の家族は安心だと。痛いことも、怖いこともしないのだと。

 だから間違えた。
 その優しさの意味を、履き違えてしまった。

 あの日の喪失感を、いまだ忘れられないでいる。
 手を伸ばせなかった。―――振り払われてしまったら?あの翠の眸が何を勘違
 いしているのだと睥睨したら?
 そんなことになったら、自分はきっと壊れてしまう。
 それくらいなら、何もいらない。だからせめて、見かけることの出来る処で―
 ――。
 胸が潰れそうになってもいい。呼吸が止まりそうになっても。
 しあわせになってくれるなら、いい。

「ニール…」








 荒い呼吸の合間に、名前を呼ばれた気がして、そっと覗きこむ。
 苦しげな表情が可哀想で、こちらまで辛くなった。

「刹那…」

 細い指が彷徨うように揺れて何かを探している。
 薄っすら覗いた赤褐色から雫がこぼれた。

「刹那…?」
「に、る…」
「ああ、どうした…?」
「どこ…?」

 まだ熱は下がる様子を見せず、付きっきりで看病しているが、報われていない。
 額に乗せたタオルが弱々しく動く少女に合わせてずるりと落ちた。
 午後からの有給を必死でつかみ、帰宅したニールを待っていたのは朝見た時よ
 りさらに頬を上気させた刹那で。
 入れ違いに仕事に出なければならなかったライルに診察結果を聞くことも出来
 ず、リビングに寝かせておくのは良くないと、自身のベッドを差し出した。
 暖房を強め、しっかり毛布をかぶせたものの、上気した頬や汗の浮いた細い身
 体が心配でならない。
 持ち帰った仕事をする気にもなれず、離れるのも不安でひたすら見つめていた。
 そうしたら、呼ばれたのだ。

 意識は覚醒していないようだから、夢でも見ているのだろうか。
 ぼろぼろと目尻を伝う涙に驚きながらも、ベッドに腰を下ろす。

「ここにいるよ、刹那」

 力のない手を取り、指を絡めるように繋ぐ。しっとりと汗に濡れた手は熱くて、
 ニールは眉をひそめた。
 繋いでいない方の手で涙をぬぐってやる。
 小さく息をついた刹那は頬を滑る手にすり寄ってきた。

「にーる、いかないで…」
「うん?」
「いなくならないで」

 華奢な指に少しだけ力がこもった。あまりにも必死なその様子に、意味が呑み
 込めないながらも、力を込めて握る。

「いなくなんかならないよ。ずっと傍にいるから」
「ほんと…?」
「ああ。約束する」

 ニールが答えると、刹那はゆっくりと口角を上げた。
 幼い頃のままの、笑み。ニールだけに見せていた嬉しいときのそれ。
 眸からはいまだ涙がこぼれていたが、そのまま意識を失うかのように眸が閉ざ
 された。

「…刹那?」

 呼吸はまだ荒い。だが表情はほんのり和らいでいる。
 上気したままの頬も、汗ではりついた髪も放ってはおけないけれど。
 繋いだ手を放すのは、惜しいと思った。
 ニールはそっと涙を拭い、セピア色の長い髪を梳く。自分とは違う小麦色の肌
 は妙に艶めかしかった。

「ずっと、傍に…か」

 ―――いつまでもただの幼馴染が傍で守ってなんかやれないだろ。

 同じ顔をした弟の言葉を思い出す。

 ―――当たり前みたいに…家族みたいに一緒に居られるなんて、のんきに思っ
 てんじゃねぇぞ。

 わかっているつもりだ。本当の兄妹でも、家族でもないのだから。
 けれど、出来ることならずっと。この手を放したくなどない。

「刹那…」

 酸素を求めて薄く開いた唇が、妙に目についた。
 惹かれるままに、額にはりついた前髪を掻きあげ、自分の額を重ねる。
 シーツにセピアとブラウンが混ざる。そしてほんの数秒―――ただ重なった。
 汗のせいか、それは少しだけしょっぱく感じた。








 よく知った、馴染みのある匂い。
 刹那を包むそれは優しくて。母親の腕の中は、こんな感じなのだろうかとディ
 ランディ夫人に抱きしめられた時を思い出す。
 そのくらい心地よかった。

「………?」

 まどろみから覚めると、白いシーツに散る自分の髪が見えた。
 よくここまで伸びたものだと、何の感慨もなく思う。
 ただ一度、彼が好きだと口にしただけで、よく―――。
 そこまでぼんやりと考えて、はっとした。重い身体を何とか起こす。

「ここ…は」

 ベッドに面している窓からオレンジ色に変わりつつある空が見える。
 自分の部屋から夕日は見えない。
 それによく知る匂いと、見たことのある部屋。
 なぜ自分はこんなところにいるのだろうか。
 うまく動かない思考を何とか巡らせていると、ベッドの端に見慣れたブラウン
 が映った。

「二ー…ル?」

 ベッドに頭を預ける形で寄りかかり、目を閉じている。
 小さく聞こえる呼吸から、眠っていることが窺えた。
 どうしてこの時間に彼がここにいるのだろうか。しかも私服で。
 刹那は掛けられていた毛布を引きずって、寝息を立てる彼を覗きこんだ。

「ニール…」

 そっとブラウンの柔らかい髪に触れる。少し癖のあるそれは刹那の髪より指通
 りが良く、サラサラしていて。
 こんなに近くでニールを見たのはいつ以来だろうか。
 病院に行ったことはかすかに覚えているが、それ以降の記憶は全くない。どう
 やら今この家には自分たちの気配しかないようだ。
 ライルは午後から仕事だと言っていた気がする。ならばきっと入れ替わりでニ
 ールが帰ってきてくれたのだろう。
 彼にも仕事があるのに、それでも刹那を心配してくれたのだと思うと、嬉しい。

「……すまない、ニール…」

 起こさないよう、細心の注意を払って頬に触れる。起きていたら、絶対に出来
 ないことを今のうちに。
 刹那はそっと屈みこんで呟いた。

「俺が間違えたから…。すまない…」

 優しさを間違えてしまった。
 想いを育ててしまった。咲かせてしまった。

「ニール…」

 彼が望むのなら、妹として、頑張るから。
 だから今だけ、許してほしい。

「好き…大好き」

 視界が滲んでくるのを止められなかった。
 愛しすぎて、もうダメだと思った。
 起きないで、と必死に祈りながら、刹那はニールの頬に唇を寄せる。
 自分より低い温度の頬は酷く冷たく感じた。








 頬に冷気を感じた。ぼんやりとした思考の中、目を開ける。
 妙に首が痛い。ふと視線を向けた先に深緑の毛布が見えた。
 それが自分に掛けられているのだとわかり、一気に覚醒する。

「せつ…」

 ガバリと起き上った先、薄暗くてもわかるベットの上は無人で。慌てて部屋を
 出て、階段を駆け降りる。
 思わず眠ってしまっていた。いつのまに彼女は起きたのだろう。

「ニール?」

 灯りの付いているリビングの扉を開けると、赤褐色を軽く瞠った少女が立って
 いた。
 手には水の入ったグラスを持っている。
 ほっとしてため息をつくと、きょとんと見返された。

「お前…熱は?」
「大丈夫だ。もう問題ない」
「…まだ顔赤いぞ」
「だいぶ汗をかいた。…まだ少しだるいけど、これくらい平気だ」

 着替えを勝手に借りた、と刹那には大きすぎるシャツの袖を引っ張って見せら
 れる。
 少しくたびれたシャツはライルが普段部屋着に使っているものだ。
 小柄な身体が大きなシャツを着ていることで、さらに小さく見える。袖は何度
 もまくっているようなのに、指先しか出ていないし、丈はほぼワンピース状態
 だ。

「そのシャツ…」
「…置いてあったから借りたんだが…不味かったか?」
「いや、別に…」

 ぶかぶかのシャツの上からでもわかる細い肢体が妙に目につく。
 世間でよく男物のシャツ――もちろん自身の――を恋人に着せたいと思う、と
 いうロマンは理解しているつもりだったが―――。
 いっそ視覚の暴力だと思う。そして同時に何とも言えない不快感が胸の内に込
 み上げてきた。
 ―――ライルのシャツだ。刹那が今着ているのは弟のものだ。それがなぜか苛
 つく。
 目を逸らしたニールは、刹那が目を逸らされたことにショックを受けているな
 ど思いもよらず。

「…もう少し、寝る」
「え、ああ。そうだな、その方がいい」

 グラスをわざわざ流しまで持っていった刹那は、そのままリビングを出た。
 2階に上がる階段を素通りした少女に気づき、慌てて腕を掴む。

「刹那!どこに…」
「帰る」
「は?」
「もう一人で大丈夫だ。だから帰る」
「ちょ…」

 赤褐色の眸がニールの腕と顔を見て、放せと語っている。
 確かにずいぶん楽になったようだが、確実にまだ熱が下がったわけではない。
 こんな状態で一人にするなど、出来るわけがなかった。

「ダメだ。まだ完全に下がったわけじゃないだろう。一人で家にいるより、こ
 こで…」
「いい」
「刹那」

 掴んでいた手に力を込めると、刹那が眉を顰める。
 しかし放すつもりはなかった。

「一人にさせたくないんだよ。こういう時くらい、素直に甘えろよ」

 視線をあわせて告げると、少女は唇を噛む。
 久しぶりに見たその仕草に苦笑して、やめさせるために頬に手を伸ばした。

「っ…!」

 ぱしん、と。手に軽い痛みを感じて、ニールはターコイズグリーンの目を瞠っ
 た。

「あ…」

 目を瞠ったのは刹那も同じで。
 触れることへの明らかな拒絶に、双方何も口に出来ない。
 静まり返った中、先に動いたのは刹那だった。

「…俺に触るな。もう、かまうな」
「っせつ―――」

 きつく握られた手と、怒らせた肩。
 自分には向けられたことのなかった、拒絶の言葉。
 呆然としたニールの腕から力が抜ける。
 その隙に腕を取り返した少女は踵を返して玄関から出て行ってしまった。

「刹…那…」

 自分にだけは、向けられることはないと思っていた。
 その自信が、音をたてて崩れていく。
 撥ね退けられた手は、じわりと熱い。
 開け放たれたままの玄関の先には、暗闇が広がっていた。








 あの日からもう何日も経つけれど、刹那とニールは一度も会っていない。
 気まずくはあったが、ニールは気にしないように努めた。熱があって動転して
 いたのだと、いつでも会うことのできる距離にいるから大丈夫だと。
 ライルが時折隣家を見ているのに気づいていたし、最近はどうやら母親が頻繁
 に帰ってきているらしい。
 それでも顔が見れないのは少し寂しいと思っていた。


 ―――何も知らなかった。


「刹那…兄さんに話したか?」

 無言で首を横に振る刹那に、ライルはため息をついた。
 高熱が出た日、ニールと何かあったのか詳しくは知らない。ライルが帰宅した
 時はリビングで落ち込んだ兄がいるだけだった。他に気配もないことを疑問に
 思って聞くと、家に帰ったという。
 さすがに兄を問い詰めようかと思ったが、どんよりした兄と話すのは疲れるの
 で遠慮したい。
 兄を放置してセイエイ家に行くと、刹那が一人膝を抱えていた。

『もう苦しくて、息ができなくなりそうなんだ…』

 人気のない、冷たい家の中で一人蹲る刹那は本当に小さくて。
 何もしてやれない自分が嫌になった。
 抱きしめるのも、頭を撫でるのも、本来なら―――。

「刹那…」
「もう、いい…。もう、いらない」

 また諦めることを選ぶしかないのかと。
 小さな背中が痛かった。




 雨が降っている。
 冬の雨は体温を奪うから、嫌いだ。
 車の中から外の様子を見ながら、ニールはため息をついた。
 もうすぐ家につく、というところで、車を止める。見慣れた後姿が見えたから
 だ。

「刹那…?」

 降りしきる雨の中、自分の家の玄関の前で立ち竦んでいる。
 その姿に、苦しそうに蹲る幼子の姿が重なった。

「刹那!」

 慌てて車を降りる。濡れた細い肩が名前に反応してか震えた。
 傘も忘れて駆け寄ると、小さな手を引いた。
 こちらまで凍ってしまいそうなほど―――冷たい。
 振り向かせた刹那の表情は、何も映していない虚ろな眸が精巧な人形のようで
 恐ろしかった。
 家の中からは小さな話声が聞こえる。ぼそぼそと聞こえる内容は、なんだか穏
 やかではない。
 このままではまた風邪をぶり返してしまうだろう。

「―――刹那。行こう、ここに居ちゃダメだ」

 コートをかけてやり、ゆっくり小さな身体を抱き上げる。
 ―――拒絶されなかったことに安堵しながら、刹那をディランディ家に運んだ。



 風呂に入れて着替えさせ、部屋の暖房を強くする。
 ホットミルクを作り、ソファーの上で蹲る身体をそっと起こした。

「刹那、ほらこれ飲め」

 何の反応もしない。まるで初めてニールが刹那を抱えて来た日のように。
 虚ろな目は一体どこを映しているのだろう。

「刹那…」

 遣る瀬無く名を呼ぶと、小さな身体がますます縮こまる。その姿はまるで、自
 分を護る殻に入るようで。
 床に腰を下ろし、まだ若干湿ったセピア色の髪をゆっくりと梳く。
 ここは大丈夫だと伝えるように。

「…ニール…」

 昔と変わらない大きな優しい手が撫でてくれる。
 優しいぬくもりがとても好きで、だからこの手は絶対に安心だと知っていた。
 少しだけ顔をあげると、心配そうな翠が目に入る。

「…刹那?」
「……ごめんなさい…」

 生まれてきたことが間違いだった自分を守ってきてくれて嬉しかった。
 でももう、放さなければならないと思ったのに、それも出来ずにいる。
 何に謝っているのかわからず、ニールは首を傾げた。潤んでいるのに、雫はこ
 ぼれない赤褐色が痛々しい。

「…どうした?何かあったんだろう?」

 促すように頬に手を滑らせると、子供は小さく震えた。
 氷のような手を包んでやる。

「刹那」

 こちらに向けられた目が、助けてくれと言っているような。
 そんな気がして、気付いたら抱きしめていた。
 毛布ごときつめに抱きしめると、潤んでいた眸からついに零れ落ちた、涙。

「泣け。―――傍にいるから」
「…っ…ニー…ル」
「大丈夫だ。刹那」

 しゃくりあげる肩を包むように抱いて、頭を肩に押し付ける。
 崩壊した涙は、その日泣き疲れて眠るまで止まることを知らなかった。






















       ぜひ、ニールに「このヘタレ!!」と叫んでやってください(爆)
       せっちゃん今回も泣いてます…。本当はこんなに弱い子じゃありま
       せんよね…。
       入れたいシーンを2ついれられたことが満足です。

          09.02.14 大事な人。形は違うけれど。