変わっていく。少しずつ離れていたことに気付かないまま。
 いや、本当は気付かないふりをしていたのかもしれない。
 手を伸ばせば届く距離にいるのだと思っていた。

 ―――なくしてから気づいたものは、重くて。




 
 
 
 
      09.  消えない印を残したい
 
 
 
 
 
 
 


 あの夜から、刹那には会えないままだ。
 ニールはもう電気のつくことのない部屋を見上げて、肺の中のすべての空気を吐き
 出すような息をついた。
 気まずくて顔を合わせられないでいると、刹那はいつの間にかいなくなっていた。
 引っ越しをするとは確かに聞いたが、こんなに急だなんて。

「刹那…」

 あの夜を、忘れられないでいる。
 衝動的に口づけた時の熱が、いまだ唇に残っていて。
 見開かれた赤褐色も、絡めた熱も、交わした吐息も、脳裏に焼きついたように何度
 も反芻してしまう。
 抱き込んだ身体は柔らかく、小さく、ニールの腕の中にすっぽりと入るくらいだっ
 た。
 ―――どうしようもなく、女の子だった。
 よく知るはずの、女の子だった。なのに、知らなかった。

「バカみてぇ……」

 前髪をぐしゃりとかきあげて、ニールは自嘲の笑みを浮かべた。




 ライルが帰ってくるまで、玄関で蹲っていた。
 寒かったはずなのに、そんなことも感じないほど、刹那でいっぱいだった。
 玄関のドアを開けたら兄が顔を膝に埋めて座り込んでいる、なんて状況に、ライル
 もさすがに驚いたらしい。
 どうしたのかと慌てて聞いてきたから、素直に刹那にキスしたと答えたら、ものす
 ごく呆れた顔をされた。

『もうつきあってらんねぇ…』

 心底呆れた、という顔をした弟は、そう呟くと肩にかけていた荷物を力なくおろし
 た。
 その態度にニールが視線を向けると、彼は滅多に飲まない高価なウイスキーの瓶を
 片手に飲み始めている。
 戸惑ったまま視線を投げかけると、ライルはグラスをテーブルに置き、深いため息
 をついた。

『兄さん、いい加減にしろよ』
『え?』
『俺を殴ったり、衝動的にキスしたり。…その時兄さんがどんな顔してるか、今すぐ
 見せてやりたいね』

 まったく同じ顔なのに、見慣れない弟の顔だ。
 指差されて思わず怯む。

『ライル』
『わかんねぇなら頭冷やして考えろ』
『……っ』
『…なっさけない顔すんなよ。一番つらいのは…刹那なんだぞ』

 ―――別れ際の顔を思い出す。
 戸惑って泣きだしそうな顔をしていた。
 ニールにキスをされたことにひどく衝撃を受けていた。
 仕方ないだろう。ずっと妹だと思っていたのだから。何度もそう告げてきたのだか
 ら。そんな相手からキスをされて、戸惑うのは当たり前だ。
 もし。もしあの時携帯電話が鳴らなかったら。そしたらニールはどうしていただろ
 う。
 貪るように唇を奪い、その後―――。

『…俺、は…』
『兄さん?』

 あのまま携帯電話が鳴らなかったら、きっと刹那の意思を問わず、無理やり押し倒
 していた。
 あの時の激情は、そういう類いのものだった。
 何人もの女性とそういう付き合いをしてきた。なのにあの時、まるで子供のように
 理性のたがが外れて。
 こんな気持ち、妹に持つものじゃない。―――刹那は「妹」じゃない。

『刹那は…妹みたいで…大切にしてやらなきゃって』
『でもあいつは妹じゃない』
『…ああ……一人の、女の子だ。…大事な…女の子だ…』

 眉をひそめて、拳を握りしめる。
 顔をゆがめた兄の姿に、ライルは肩をすくめた。





「なぁライル」
「何?」
「刹那の引っ越し先、お前は知ってるんだろ」

 夕食後の席、テレビを見始めた弟にそう問いかける。
 ライルは一瞬言葉に詰まり、困ったように視線を泳がせた。

「ライル?」
「知ってるけど…兄さん、行く気か?」
「ああ。そうでもしなきゃ、逢えないだろ?」

 コーヒーの準備をしながらそう返すと、ライルが頭をかきながら眉間にしわを寄せ
 る。
 少し考え込むかのようにする様子に、ニールは秀麗な眉をひそめた。
 刹那に口止めされたのだろうか。その可能性は十分にある。
 ただ逢いたいだけなのに。それさえも出来ないのは―――嫌だ。

「ライル」

 名を呼ぶと、彼は顔を歪めて口を開いた。

「悪いけど、兄さんには教えられない。…刹那は多分、ニールに逢いたくないと思っ
 てるからさ」
「っ…!なんで…」

 思わず握りしめた手に、爪が食い込みそうだ。
 それくらいの力が入っているのに、固まってしまって開くことが出来ない。
「刹那」のために大切にしてきた手だ。彼女がいないのなら、触れる相手がいないの
 ならもう気にする必要などないのに。
 ライルは感情のない目でそんなニールの手を見た。

「刹那はさ、もう色々限界だったんだよ。家のこととか、学校のこととか…好きな人
 のこととか。俺はニールより刹那といる時間長かったから、偶然知ったようなもん
 だし」
「俺は、俺だって―――」
「ニールが先に手を離したから」

 静かな声に、思わず視線を床からライルへ向ける。
 波など一切ない水面を見ているかのような翠がそこにあった。

「刹那はずっと助けてって言ってた。刹那はニールに助けて欲しかったんだよ」
「え…?」
「ニールは知らないだろ?刹那はずっとアンタのこと見てたのに、ニールはそうじゃ
 なかった」

 いつだってあの赤褐色はたった一人に向けられていた。
 戸惑いが大きくて真っ直ぐではなかったけれど。初めての感情に振り回されて、伝
 わりにくかったけれど。
 でもいつだって刹那は一人しか見ていなかった。
 代りになれたら、と思わなくもなかった。そのくらいにはあの哀しい子供が大事だ
 ったから。

「俺が傍にいたのは誰かさんの代わり。刹那は俺にだってそう簡単に触れさせてくれ
 ないよ」

 感情の振り子に疲れて眠る。兄として視界に入る部分に触れる。受けるべき愛情を
 満足に与えてもらえ
 なかった子供が、ぬくもりに怯えないのはそういう時くらいだ。
 刹那は昔から心の許容範囲がそう広くはなかった。上手く言葉に出来ないことも多
 く、表情もあまり動かない。今は友達に恵まれているものの、幼い頃はだいぶ苦労
 したはずだ。
 ニールが傍にいた頃は良かった。言葉にしなくても汲み取ってくれる、けれど言わ
 せたい時は促して言葉にさせる。

「ニールだけが特別だった。でもニールはあいつのこと、妹としてしか見てやれない
 んだろう?」
「俺、は」
「今のニールじゃ、刹那を救えない」

 いっそ冷たいほど静かな緑の双眸に、ニールは顔をこわばらせた。
 同じ色の違う眸が互いに睨むようにして交わる。いつの間にかお湯が沸いたと知ら
 せる音も気づかないほどに。





 あれから更に一週間経っても、刹那の居場所を教えてもらっていない。
 それどころかライルとは冷戦が続いている。
 本気の兄弟げんかはいつ以来だろうか。それほどあのライルが憤慨しているのだと
 知るには十分だった。
 
「刹那…」

 自室でやめたはずの煙草を引っ張り出し、冷えるベランダで吸う。

『それ、好きじゃない…』

 遊び感覚で吸い始めた煙草は、幼子のその一言でやめてしまった。
 吸った後の香りが苦手だと、あの子が触れるのを嫌がったから。いつものように触
 れようとしたら、手酷く手をはたかれた。理由を問うと眉間にしわを寄せてそう呟
 いた。
 その頃、ニールの中の優先順位はまだあの少女が一番だった。それはきっと今でも
 変わらない。
 ずっとこのまま傍にいられると思っていた。
 あまり話さなくなったとしても、触れられなくなっても。それでも近くで見ていら
 れると。
 誰より大切なのに。「いなくならないで」と言ったくせに。

 ため息が白く流れていく。いい加減にしておかないと風邪をひいてしまうだろう。
 ニールは怠惰にベランダから足を動かした。ふと視線の先――テーブルの上に、球
 形の電子機器が置いてある。
 硬質なそれは部屋の温度すら移さず、じわりと冷たい。
 簡易プラネタリウム機。刹那にもらった今年の誕生日プレゼントだ。
 幼い頃、弟妹や刹那と天体観測をしたことがある。

『俺たちは三人兄弟だから三つ並んだオリオン!』

 ライルの声に、エイミーの笑う声。
 兄妹のようだけど、兄妹じゃない刹那にも星をあげたかった。
 だから自分は一番明るい星を彼女の星だと言ったのだ。
 可愛くて大切で、優しくしたかった。
 可哀想だからとか、そんなのではなくて。ただ、傍で幸せにしてやりたかった。
 幼心に思っていたそれは、今も変わらない。―――ただそれだけ。幸せでいて欲し
 い。

 部屋の灯りを消し、プラネタリウムの電源を入れる。
 一面が銀河になったかのように迫りくる星達。
 その中でたった一つの星を探す。
 冬の星座、寒空の中で一等輝く星―――シリウス。

「刹那」

 逢いたい。

 胸を占拠するのは、その思いだけだった。








 一人の生活は今までとそう変わらない。
 ただ住むところが変わっただけだ。
 相変わらずの日々。何も変わらない。―――変わらない。もう彼に逢えないこと以
 外は。

「刹那」

 廊下の先、さらりと揺れたラベンダー色。
 大きな眼鏡の奥で細められたカメリアに、刹那も小さく目を細めた。

「ティエリア、終わったのか?」
「ああ。待たせてすまない」
「いや…俺も図書室に用があったから」

 生徒会の書類と鞄を片手に抱えたティエリアは足早に近づいてくる。
 これももう日常となり、いずれ慣れてしまうのだろう。
 引っ越した次の日から、ティエリアは毎日刹那と登下校を共にしている。
 きつめの整った美貌と厳しい性格をしているが、彼は自分が認めたものにはとても
 優しい。
 すべて吐き出した日から、彼は刹那を守るように傍にいてくれている。
 彼とてこの学園の生徒会長であり、ひどく多忙だというのに疲れなど微塵も見せな
 いのだ。

「今日は時間があるのか?」
「そうだな…彼らは今日会議なのだと言っていた。だから特に用事はない」
「じゃぁ夕食を食べていくといい。…買物をしないといけないが」
「…つきあおう。君がしっかり食べたことをライルにも報告しなければな」

 並んで歩きながら今夜の予定を立てるのも、一人暮らしをするようになってからだ。
 食の細い刹那に食事をさせるために、ティエリアはほぼ毎日昼の食事を共にする。
 夜も用がない時はどちらかの家で食べるようになった。おかげで刹那の料理の腕は
 確実に磨かれつつある。
 彼は親類と暮らしているため、特別な理由がない以外は放任のようだ。ライルとよ
 く仕事を組んでいるアニューもティエリアの親戚だと知った時は驚いた。
 過保護と言えばそうだが、ティエリアの最大の優しさだと知っているから、刹那に
 は拒否できない。

「いつの間にライルと仲良くなったんだ…?」
「…あの男は以前から生理的に気にくわない。まぁ最近は少しましになったな」

 秀麗な顔が歪み、本気で嫌そうな顔をしている。
 ティエリアのその表情に、思わず苦笑した。
 ライルとティエリアは何度か面識がある。以前刹那の保護者代わりとして紹介した。
 それにアニューからも何かと聞いていたらしい。
 性格が合わないのか―――逢う度に喧嘩をしているように思っていたが、そうでも
 ないのだろうか?
 刹那が首をかしげていると、カメリアの眸がすっと細められた。

「言っておくが、僕はあの男が好きじゃない。仲良くしたいとも思わない」

 だが、とティエリアはそこで言葉を切り―――刹那の腕を引いた。

「今、君を守るために彼からの情報は必要だからな」

 突然腕をひかれた衝動で足が止まる。
 何事かと彼の視線の先を追うと、そこには見慣れた車。「彼」の愛車、フェアレデ
 ィが停車していた。
 まさか、という思いとあの車に乗る人は彼しかいないという確信が胸の内でせめぎ
 合う。

「…どうやら彼は相当参っているようだな」

 呆れたような言葉にティエリアを見ると、彼は眉間に深く谷を作りだしていた。
 すっと眼鏡を押さえ、刹那を校門の物陰に行くよう指示すると颯爽と歩きだす。
 刹那に口を挟ませる間もなく―――驚きすぎて声も出なかったが―――ティエリア
 は車に寄りかかるようにして立つ男の方へ歩み寄った。





 ―――自分はいったい何をしているんだろう。
 ニールはハンドルに突っ伏しながらも校門から出てくる学生たちを見つめていた。
 ちらちらと、時には不躾にこちらを見ていく目に少し辟易している。こんな目立つ
 所に車を止めるんじゃなかった、と思ったもののもう今更だ。しかしここにいた方
 が彼女が通った時にすぐに気づける。
 裏門は封鎖されていると聞いていたから、そちらから帰る可能性はないはずだ。だ
 が、それにしても遅い。

「見逃した、とか…?」

 部活をしているわけでもなく、何か委員会やクラブがあるわけでもない。現に隣に
 住んでた頃はたまに遅い日もあったが、大抵夕方には帰宅していたはずだ。
 もう少し待ってみようか。それとも諦めるべきか。
 さっきから脳内をぐるぐる回るのはその二択。どちらも選べないまま、ニールは車
 から降りて携帯電話をとりだした。
 待ち人の名前をメモリから出す。何度メールや電話をしても返事がくることはない。

「どうすりゃいいんだよ…」

 ライルからは居場所を教えてもらえない、携帯は明らかに無視されているのだろう、
 通じない。
 ならばと休みをとってまで刹那の通う学校の前で待っているのだ。
 一目でもいい。ただ逢いたい。

「…重症」

 本当に何をしているのか、自分でもわからない。けれどこうでもしないと、逢えな
 いのだ。
 深くため息をついて顔を上げる。下校時刻はすでに回っているからだろう、人通り
 はもうほぼない状態だ。
 ふと前方から歩いてくる二人に目を寄せる。何事か話しながら歩いてくる人物の片
 割れに見覚えがあった。
 髪は短くなっているものの、気付かないわけがない。
 ようやくやってきた待ち人に、ニールは慌てて寄りかからせていた身体を起こした。

「せ―――」
「この学園に何か御用ですか?」

 真っ直ぐな紫が踊った。
 きつい視線に思わず声も踏み出した足も止まる。
 先程まで刹那の隣にいた人物だとすぐにわかった。
 近くで見るとひどく整った―――まるで人形のような容貌をした男が立ちはだかる。
 制服が男物でなければきっと性別の判断は難しいだろう。現にニールは遠目に見て
 いた時は女性だと思っていた。

「僕はこの学園の生徒会長を務めているティエリア・アーデ。あなたはこの学園に何
 の用です?」
「え、あ…俺は」

 不躾なまでにこちらをじっと見てくるカメリアに、少したじろいでしまう。
 早く刹那に逢いたいのに、肝心の刹那は校門のあたりで姿を隠してしまった。
 苛つく心と焦燥感を押さえ、彼に向き合う。

「…さっきまでアンタといた女の子に用があるんだ。…刹那・F・セイエイに」
「…どのようなご関係ですか」

 その問いに返す答えをニールは今持っていない。
 思わず視線を反らして黙りこむと、目の前の人物はちらりと背後に目をやりため息
 をついた。

「答えられないような関係なら、我が校の生徒に会わせるわけにはいきません」

 立ち去れ、と。言葉にされなくとも態度がそう言っている。
 ここまで来てそういうわけにもいかない。すぐ近くにあの子がいるのに。
 門の陰で不安そうに赤褐色の眸を揺らしてこちらを窺っている。
 ―――姿を見つけたら、もうだめだ。
 立ちはだかるティエリアのことなど忘れて進もうとした時だった。

「言っても聞きそうにないな。……とりあえず…歯をくいしばれ、ニール・ディラン
 ディ」
「へ?」
「やめろ!ティエリア!!」

 カメリアの眸が苛烈なまでに鮮やかで。浮かんだ笑みは背筋が凍るほど冷たかった。
 気づいた時には頬に衝撃が来ており、驚愕に目を瞠った刹那が目の前の人物の名前
 であろうものを叫んだ。
 振り返り、刹那に留まるように指示する。
 ティエリアは静かな目でよろけたニールを見下ろした。

「な、に…しやがる」
「これは僕の私怨じゃない。…彼女の心の痛みの一部だ」

 訳が分からず眉を寄せると、眼鏡の奥の眸が呆れたように伏せられた。

「あなたはもっと自分の内面を整理した方がいい。そのままでは刹那は逃げるだけ
 だ」

 それだけ告げると、ティエリアはもうニールに興味など失ったとでもいうように踵
 を返した。



「…人を殴るのは初めてじゃないが、やはり疲れる…」
「ティエリア!ニールに何を…!」
「会ったら殴ると決めていたんだ。…君を泣かせた男だからな」

 白い手を振りながら呟いたティエリアに刹那が駆け寄る。
 地面に肩膝をついたまま動かないニールが気になったが、手をひかれるままに足早
 に学校の敷地を出た。
 ずいぶん歩いてからようやく歩みが止まる。きびきび歩くティエリアの速度につい
 ていくにはほとんど小走り状態だった。
 刹那の手を掴んでいる綺麗な手が赤くなっている。それに思わず眉を顰めると、テ
 ィエリアが苦笑した。

「君が気にすることじゃない。殴ったのは目を覚ませという激励だ。…彼にも時間が
 必要だと思った」
「ニールは…きっとただ急に離れたから心配で見に来ただけだろう」
「そうか?僕にはもっと違うように見えたが」
「え…?」

 そっと頭を撫でられる。
 俯いていた顔を上げて彼を見ると、ティエリアは先程までニールに見せていたのと
 は180度違う柔らかな笑みを浮かべていた。
 まるでライルが刹那の頭を撫でるときのような―――「兄」の顔。

「君も少し時間が必要なんだろう。…想いは言葉にしなければ伝わらないことの方が
 多い。ニール・ディランディとの間にあったことをすべて知るわけではないから僕
 には君達の間がどうしてこんなに拗れたのかわからない」
「ティエリア…」
「でも君はまだ彼に肝心のことは何も伝えていないんだろう?」

 確かにそうだ。
 想いを自覚したあの日を境に逃げてばかりいたから、刹那はニールに何も伝えてい
 ない。
 ただ彼の優しさを甘受して、ライルに甘えて。
 今もこうしてティエリアに甘えている。
 自分では何もしていないくせに、彼に何かを求めるのはきっと不公平だ。

「怖くても…一度本気でぶつかるのも手だと僕は思う」

 静かな言葉に、刹那は再び俯いて黙りこくる。
 それが正論であることはわかっていた。
 けれど怖い。誰からも必要とされないこの身を、ニールが必要としてくれるなんて
 思えないから。
 だから、誰も欲しくない。ニールを好きだけど、いつ離れるかわからない。それく
 らいなら最初から―――。

「俺は…」

 愕然とした。
 最初から何もせずに嘆いていたのは自分だというのに。
 どうしてニールが応えてくれるのを待っていたのだろう。
 言葉にしなければ他人の感情などわかるものか―――。
 いくら彼が聡く、幼いころは汲み取ってくれていたからとそれに甘えすぎていたの
 ではないだろうか。
 いつだって刹那は待っているだけだった。
 いらないのだと言われようと、自分には父が、母が必要だと伝えたことがあっただ
 ろうか。

「俺はバカだ…」

 殻に閉じこもってばかりだった刹那を引っ張り出してくれたニール。
 ずっと見届けようとしてくれたライル。
 家族のぬくもりと優しさをくれたディランディ家の人たち。
 今こうして刹那と共にいてくれるティエリア。
 みんないるのに。自分は何を見てきたのだろう。

「刹那、大丈夫だ」
「ティエリア…」
「何があっても、僕はお前の味方でいる。ライルだって、ルイスたちだってそうだ。
 だから何も怖がらなくていい」

 ただ優しいだけの抱擁を与えられる。
 細いのにやはり男性だとわかる力強い腕と広い胸に泣きたくなった。
 







 帰宅したのはもう暗くなってから。
 もう3月もとうに半ばを過ぎ、そろそろ桜の季節だ。けれどまだ寒く、夜は長く感じ
 る。
 ニールはのろのろと夕食の準備をしながら久しぶりに見た刹那のことを考えた。
 あの日以来、まったく会っていなかったし、メールも電話もつながらない状態だった。
 見かけた瞬間の胸の内のざわめきを何と表現したらいいのだろう。

 一番最初に思ったのは、自分から逃げる刹那への憤り。けれどすぐにそんなものど
 うでもよくなった。
 ―――ただひたすら抱きしめたくてしょうがなくなった。
 それは愛しいだとかそんな優しいものではなく、もっと利己的なモノだった気がする。
 名前を呼びたい、呼ばれたい。あの赤褐色の眸に映りたい。触れて抱きしめたい。
 溢れそうなくらいそう思った。
 殴られた頬が味見をした時ぴりっと痛み、顔をしかめる。
 思い返すと、ひどく理不尽な気がする。初対面の相手に殴られるような覚えはない。
 けれど彼は刹那を庇って行動に出たのだろう。ということは、今のニールは刹那の
 害だということだ。

『今のニールじゃ―――』
『そのままでは刹那は―――』

 いつからかこちらを見るたび揺れる赤褐色があった。
 だんだん遠ざかる少女をつなぎとめたくて、妹にするように構った。
 けれど触れることも、視線が合うことも減っていき、今ではこのざまだ。
 どうしてそのままではいられないのだろう。ずっと変わらずにいられないのだろう。

「刹那…」

 口を衝いて出てくるのは吐息のような声。
 自分の声ににじむ感情は、いつだって甘い。
 本当はぬくもりを求めていて、けれど怖がる子供。彼女のことを考えるときが一番
 満たされる。
 そう、誰より―――。

 そこまで考えた所で携帯電話が着信を知らせた。
 こんな時に誰だと、半ばやつあたりのようにして乱暴に通話ボタンを押す。

「もしもし」
『あ、やっと出たわね!もう、今日何回電話したと思ってるのよ!』
「え?」

 かけてきたのは恋人だった。
 そういえば着信履歴に名前があったような気がする。
 けれど今日はそれどころではなかったから、携帯電話なんてよく見ていない。
 刹那のことしか、ここ最近は頭にない気がする。

『ひどいわ、今日は前から約束してたでしょう?』
「え、今日…?」
『そうよ!覚えてないの?…今日は仕事も休んでるみたいね?スメラギから聞いたわ』
「あー…悪い」
『ここ最近あなた少しおかしいもの…。体調悪いの?』
「いや…そういうわけじゃないよ」

 体調が悪いわけじゃない。ただ、頭がいっぱいなだけだ。
 今こうして恋人と電話で話しているのに、浮かぶのは刹那のことだけで。
 ひどく息が苦しい。窓から見える隣の家は真っ暗で、否が応でも刹那がそこにいな
 いのだと知らしめるから。

『ニール?』
「ほんと悪い…」

 電話口ではまだ彼女が何か言っている。
 けれどこれ以上誰とも会話をしたくなくて、一方的に通話を切った。
 今日の空は星が明るく感じるほどに澄んでいる。
 冷え切った窓に寄りかかり、真っ黒な頭上を見上げた。
 冬の空ですぐに見つけられるオリオン。その左下に白く輝くのはシリウス。部屋の
 中で見たものより、ずっと美しい星達。
 けれど美しい星が泣いているように見えた。



















 

 
 
 
 
 
 
 
 

       お待たせいたしました。9話目です。
       やっと色々動いてます。ニールの株はものすごい勢いで下がっているこのお話…。 
       ティエリアが頑張ったり、ニールがヘタレだったりしていますが、いよいよ次で終わりです。
       どうぞ最後までお付き合いくださいませ。

          10.01.31 大切すぎたのかもしれない。愛しすぎて。